今日の「お気に入り」は久世光彦さん(1935-2006)のエッセー「夕暮れの町にたたずんで」より。
「太宰に『雪の夜の話』という短い小説がある。その中に、デンマークの難破船の話が出てくる。溺死した若い水夫の網膜に、美しい一家団欒の光景が焼きついていたというのである。それは水夫の乗っていた船が難破したところに近い、灯台守の一家だった。太宰は、いかにも太宰らしく推理する。その水夫は嵐の海を必死で泳ぎ、やっとの思いで灯台の窓にすがりつく。やれ嬉しや、救けを求めて叫ぼうとして、ふと窓越しに見ると、いましも灯台守の一家がつつましくも楽しい夕飯をはじめようとしている。ここでいま、自分が叫んだら、一家の団欒は滅茶苦茶にになると思った途端、窓にしがみついていた水夫の指先の力が抜け、そのまま波に呑まれてしまったというのである。そして彼の網膜には、命の終わりに見た美しい光景が焼きついて残った。
夕餉の支度の音がなくなってしまった町を歩きながら、私はそんな話を思い出す。」
(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)
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「太宰に『雪の夜の話』という短い小説がある。その中に、デンマークの難破船の話が出てくる。溺死した若い水夫の網膜に、美しい一家団欒の光景が焼きついていたというのである。それは水夫の乗っていた船が難破したところに近い、灯台守の一家だった。太宰は、いかにも太宰らしく推理する。その水夫は嵐の海を必死で泳ぎ、やっとの思いで灯台の窓にすがりつく。やれ嬉しや、救けを求めて叫ぼうとして、ふと窓越しに見ると、いましも灯台守の一家がつつましくも楽しい夕飯をはじめようとしている。ここでいま、自分が叫んだら、一家の団欒は滅茶苦茶にになると思った途端、窓にしがみついていた水夫の指先の力が抜け、そのまま波に呑まれてしまったというのである。そして彼の網膜には、命の終わりに見た美しい光景が焼きついて残った。
夕餉の支度の音がなくなってしまった町を歩きながら、私はそんな話を思い出す。」
(久世光彦著「むかし卓袱台があったころ」ちくま文庫 所収)
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