当市にも庶民的な寿司屋がある。
時々夕食を女房と食べる。
絶対にカウンターには座らない。
女房お気に入りの「○○弁当」なるセットになっている1000円の定食である。
昔から寿司屋は高いという貧乏性のため私は自ら足を運ぶことはない。
今日もカウンターにはいろんな人が座っている。
年寄りの夫婦、女同士の友達と思われる人、勤め帰りのおじさん、ちょいと怖そうなお兄さんひとり、それぞれにお気に入りの食事をしている。
私たちはカウンターではないテーブルで、酒を飲むわけでもなく、ただ定食を食べて帰る。
寿司屋では独特の言葉が飛び交う。
「○○っ」と客が注文する、親父が「はいよっ」と言っているが、私には何を注文しているのか分からない。
張り出されたメニューを眺めてみるが、そんな品は書かれていない。
友達に誘われて寿司屋のカウンターに座るときもなんだか落ち着かない。
自分が場違いな世界に飛び込んだような感じに襲われる。
会話も嫌だ。
寿司屋に行きつけていないことがすぐにばれる。
それもなんとなく癪に障る。
ここの寿司屋は別だ。
時々夫婦で来て酒も飲まず定食を食べて帰る人、というイメージが店の従業員にも定着している。
寿司屋の親父と言葉を交わすこともない。
気楽でいい。
時々夕食を女房と食べる。
絶対にカウンターには座らない。
女房お気に入りの「○○弁当」なるセットになっている1000円の定食である。
昔から寿司屋は高いという貧乏性のため私は自ら足を運ぶことはない。
今日もカウンターにはいろんな人が座っている。
年寄りの夫婦、女同士の友達と思われる人、勤め帰りのおじさん、ちょいと怖そうなお兄さんひとり、それぞれにお気に入りの食事をしている。
私たちはカウンターではないテーブルで、酒を飲むわけでもなく、ただ定食を食べて帰る。
寿司屋では独特の言葉が飛び交う。
「○○っ」と客が注文する、親父が「はいよっ」と言っているが、私には何を注文しているのか分からない。
張り出されたメニューを眺めてみるが、そんな品は書かれていない。
友達に誘われて寿司屋のカウンターに座るときもなんだか落ち着かない。
自分が場違いな世界に飛び込んだような感じに襲われる。
会話も嫌だ。
寿司屋に行きつけていないことがすぐにばれる。
それもなんとなく癪に障る。
ここの寿司屋は別だ。
時々夫婦で来て酒も飲まず定食を食べて帰る人、というイメージが店の従業員にも定着している。
寿司屋の親父と言葉を交わすこともない。
気楽でいい。
私の故郷では、外食する店さえありません。
カワズさんが羨ましいですね。