府中周辺には実はたくさんの板碑が現存しているのですね。
ただ、ほとんどの物は博物館等の公的機関か、お寺の収蔵庫等に保存管理されているみたいでした。
けっこうな“街”ですからね、こうして外に置いておくスペースも年々減ってきているのでしょうか!?
《アパートや一軒家の立ち並ぶ街の片隅》

《こんもりとした塚の上》

《多摩地域最古の板碑》

《鎌倉街道で繋がっている小手指ヶ原と分倍河原》

【かつては元弘3年(1333)に戦われた分倍河原合戦の戦死者3千人を埋葬した塚といわれていましたが、昭和30年の発掘調査で、13世紀後半から14世紀前半の蔵骨器(4個)が出土し、鎌倉時代後期の墓地であることがわかってきました。
また、塚の上の康元元年(1256)銘の板碑は多摩地域最古の紀年銘を有する初期板碑のひとつです。
平成17年の調査では石にお経の文字を写した「礫石経」が大量に出土し、現在の塚の高まりは江戸時代に造られたものであることがわかりました。
鎌倉時代以降も信仰の対象であったと考えられています。】
観光協会HPより。
ただ、ほとんどの物は博物館等の公的機関か、お寺の収蔵庫等に保存管理されているみたいでした。
けっこうな“街”ですからね、こうして外に置いておくスペースも年々減ってきているのでしょうか!?
《アパートや一軒家の立ち並ぶ街の片隅》

《こんもりとした塚の上》

《多摩地域最古の板碑》

《鎌倉街道で繋がっている小手指ヶ原と分倍河原》

【かつては元弘3年(1333)に戦われた分倍河原合戦の戦死者3千人を埋葬した塚といわれていましたが、昭和30年の発掘調査で、13世紀後半から14世紀前半の蔵骨器(4個)が出土し、鎌倉時代後期の墓地であることがわかってきました。
また、塚の上の康元元年(1256)銘の板碑は多摩地域最古の紀年銘を有する初期板碑のひとつです。
平成17年の調査では石にお経の文字を写した「礫石経」が大量に出土し、現在の塚の高まりは江戸時代に造られたものであることがわかりました。
鎌倉時代以降も信仰の対象であったと考えられています。】
観光協会HPより。