四国八十八カ所霊場を巡ったのは、父が死んだ年である。父の死が促したのである。
霊場廻りから戻ったあと、お墓を改築した。そういう気分だった。
人が死ぬと、生き残った者は、何か、負い目を感じる。負い目を払拭したい気になる。周忌はそのためにある。
お墓を改築したが、この墓がどうなるかというと、見通しがない。
私は未婚で、子供がない。父と母と私の3人で終わりそうだ。
今思えば、父と母は仲が悪かった。父は小心で、それが母には不満だった。
母は自爆するように若くして死んだ。もっとも母の姉妹もいずれも若死にで、血統的なものかもしれない。
いずれにしても、父は生活能力がなく、母の死後に病んだ。入退院の繰り返しだったが、最終的には93歳まで生きた。
私は父以上に生活能力がなく、自堕落生活であけくれ。昔なら、40歳までに死んでいたことだろう。
その3人が同じ墓に入る。皮肉である。
今は、あとに何も残したくないと思っている。樹木葬とか、散骨の方がふさわしい。
墓地、霊園というが、数百年後に残るものはほとんどないだろう。
自分の人生をすべて抹消したいと思う人も多くなるだろう。