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鳥瞰ニュース

空にいるような軽い気分で・・・

秋葉原の無差別殺傷事件で思ったこと(その3)

2008年06月12日 20時50分03秒 | 個人的主張など
今回の事件に対して、インターネット上に示された文章や見解を少し読んでみた。さまざまな切り口で書かれてある。マスコミが独占していた部分にインターネットが確実に侵入し凌駕しはじめている。

誰でもがカメラ付き携帯電話を持ち、その場で俄記者になって発信し、ブログにも記事を書くということだ。人が大勢いたら事件現場で野次馬となる人もいれば、いち早く被害者を救護する人もおり、AEDを取りに走る人もいれば、心臓マッサージをする人もいる。それが群集だ。

朝のワイドショーでは、キャスターが常識人の代表のような顔で理解できないと首を傾げ、被疑者を非難する。大成功したカリスマ・スノッブ達の実(じつ)のないコメントを聞いて視聴者は満足するものなのだろうか? 

被疑者は犯行予告について、「見た人に犯行を止めてほしかった」と語っているようだ。『やはり・・』と思う反面、自分で語り始めたのか、どういう言い方で言っているのか、そのように問いかけられて、ただ頷いただけなのか、などと疑問がどんどん湧いてくる。新聞記者はそういうところを警察にきちんと聞こうとしているのだろうか?

今までに冤罪を始めとして多くの問題を起こした密室の取調べなので、本当の所は見えてこない。取り調べる担当刑事と、新聞記者達を前に発表する人間は別人だ。彼らの間に、もしかしたらもう一人二人の人間が介在し、文書もはさまるのかも知れない。検察にしたってそうだ、取調べ担当と裁判担当は必ず別の人間で、裁判では書類だけで、担当検事は犯罪を証明していくのだ。

本当に本当のところを知りたい。この被疑者は人を殺すということがどういう結果をもたらすのかをどの時点まで、どの程度まで想像力を働かせていたのか、いなかったのか? ためらいはどの程度まであったのか? 最後のボタンを押させたのは何だったのか?

無差別に本当に大量殺人をしようと思っていたのか、意外にも大量に殺せてしまったという事だったのか? それとも携帯サイトに書き込んでも書き込んでも誰も反応しないから、ネットに創り上げた人格に自分が乗り移らなければならないと思い始めたのか?

そのようなことが次々と頭のなかで渦巻く。想像してもせん無いことだけれど、被疑者には、7人が亡くなり負傷者がそれ以上ということを伝えた上で、本人が語るに任せた形での供述を望みたい。しゃべらされるのでも誘導されるのでもなく、同意をもとめられるのでもなく、本人がしゃべるまで待っての供述があれば、是非それを知りたいなどと思う。

町村官房長官はサバイバルナイフの規制強化を検討すると語ったそうだ。秋葉原の歩行者天国をやめようという動きもあるそうだ。一つの乱暴な事件があり、それを理由に、使われた道具を規制し人の動きをも規制しようというのは全く乱暴な話だ。小手先の場当たり対策をしたって何の意味もない。

ある番組では、派遣社員の立場がいかにひどいものであるか詳しく紹介されていた。被疑者は不安と不満を強く持っていた。犯行の意図がどうであれ、結果的に、この事件が派遣社員、契約社員などの地位向上、格差是正を促すかも知れない。そのように願いたい。



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秋葉原の無差別殺傷事件で思ったこと(その2)

2008年06月11日 12時44分59秒 | 個人的主張など
今回の事件では、犯人は掲示板に多くの不安や不満を書き込んでいるようだ。犯行当日には予定や行動を書き込んでいる。それらは自分の決行意志が固いことを誇示する意図や、自分の退路を絶つという意味もあるだろうが、『誰か自分の行動を止めてくれ』という叫びであったのかも知れない。

犯行に走り始めた実行時は、シミュレーションをなぞる無我夢中の行動であったのだろうが、警察官に銃を向けられた途端に犯人は抵抗することもなく逮捕されたという。そのことからいろいろと思うことがある。

これがアメリカであったなら、ナイフのかわりに銃が使われ犯人は当然のように射殺されるか、自分で自分を最後に始末するのだろう。この犯人は警官に威嚇発砲をされる必要すらなく、自分にナイフを突きたてることもなかった。

ようやく止めてもらえたという安堵だったのだろうか。その後の取調べであれ、裁判の法廷であれ、注目を集めながら自分の気持ちを存分に述べるために思い描いた予定通りの逮捕シーンだったのだろうか。

後付けではあるが、あのシーンは、劣等感と自己嫌悪の末に自暴自棄になったというだけではなく、被害者意識から身の不運を呪って社会全体に報復しようとした人間の、精神の脆弱さを見事に象徴しているように思う。

今回の事件は、警察や検察にまかしておいていいのだろうか? 現行犯で逮捕され、これだけ証拠がそろっていても、警察検察は毎日毎日多くの作文をつくり被疑者に指印を押させるのだろう。

取調べに素直に応じているとして多くの供述のさわりが発表されているが、本当に肉声なのだろうか?こんな事件こそ、密室の取調べをやめて部分的であれ公開されるべきではないか。始めから、心理学者や精神科医や福祉関連専門家などがチームを組み、被疑者に向き合うべきではないのか。

そうして、様々な面から検討して途中経過から討論、結論まで公開して欲しいと思う。そんな道はないのだろうか。特例として誰かトップ(?)の人間が英断することはできないのか? 切に願うが、どうしたって無理なのだろうな。

連鎖反応が怖いのだ。頼るものもなく、理解されることもなく、未来に希望を描けない、はぐれ兵士がそこらじゅうに潜んでいるようで無気味だ。人をないがしろにした経済、情愛を忘れたゲームによって、兵士がどんどん生産されているような気配ではないか。

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秋葉原の無差別殺傷事件で思ったこと(その1)

2008年06月09日 21時16分54秒 | 個人的主張など
事件の詳細が解る前だが思ったことを書いてみたい。直感的結論を先に書いてみようと思う。あくまで市井の人間としての私個人の直感でしかないけれど・・・。

①死刑制度に依存する消極的自殺なのではないか?
②マゾヒズムを叶えられなかったことによるサディズムなのではないか?
③特攻攻撃を発案した周辺との類似性があるのではないか?

①については、説明の必要がないかも知れない。7年前の池田小学校事件では、犯人は「死刑になりたかった」と供述し、希望通り死刑になった。まんまと、本人のシナリオ通りになった。死刑制度を悪用されたと言えるだろう。人が殺されるという状況が絶対的な悪として死刑制度はもちろんのこと戦争もない世のなかであれば、このような消極的自殺はないだろうと思う。

②について。様々な困難や失敗を積み重ねて人は多くを学ぶ。大抵が失敗の連続で大きな成功など一つでも有るか無しかという位が一般的庶民生活というものだ。それらの失敗に対する耐性(マゾヒズム的快感)を感得しない内に、爆発してしまったのだろう。漫画やアニメの過剰な暴力描写に現実感を失い、夢と現実とのギャップに自分の居場所を見いだせなくなったのではないか。そしてその結果の破滅衝動が発作的サディズムになってしまったのではないか。

③について。実は昨日の事件の衝撃からか、今朝がた悪い夢を見た。自分が特攻隊員になって出撃する間際の状態にいる夢だ。片道の燃料しか入れてもらえないのだから生き残れる筈はない。そこで私は誰に相談することもせず、どうしたら生き残れるか、その方法だけを考えているという夢だった。燃料が半分近くになったところで、故障を理由に引き返そうか、それとも、途中で島でも見えたら、岸近くに不時着してしまおうか・・・などと考えているのだった。

特攻隊については、亡くなった隊員達については何も言うべきことがない。まことにお気の毒なことで、大変な犠牲を強いられた無念はいかばかりだっただろうと思う。

しかし特攻攻撃を発案した旧軍隊の上層部とその周辺事情は、無差別連続殺傷事件と類似しているのではないかと思ったのだ。片や国をあげての戦争状況でのこと、片や全く一人の個人の精神状態であっても、似ていると思われるのだ。勝ち目のない戦いを何の希望もなく投げ遣りに好戦的につきすすんでしまったということではないかと思ったのだ。片や兵士を犠牲にするのにためらいもなく、片や人生を捨てるのに他人を巻き添えにした。双方とも理性を失った自滅的発作なのだろうと思う。

(つづく)
敢えて(その1)とした。おそらく詳細がわかってくるにつれ、また思うところを書かずにはいられなくなるだろう。

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北京開会式のこと

2008年05月30日 20時31分37秒 | 個人的主張など
もう40年以上も前に新潟で国体があった。その年は東京オリンピックもあったから、本来の秋の国体が春に行われ、その春の大会が済んですぐに新潟地震があった。
橋げたがパタパタと落ちてノコギリの歯みたいになり、集合住宅が液状化現象でパタンと倒れた。石油コンビナートでは火災が起り何日間も燃え続けた。新潟県は夏の国体を返上したが、東京オリンピックは支障なく予定通り開催された。

チベットで暴動があり、聖火リレーが人垣リレーになり、四川大地震があっても北京オリンピックは間違いなく開催されるだろう。

中国批判をする評論家を近頃よくテレビで見る。彼らの言うのを聞いていると、まるで中国という名の一人の人間がいるような印象をうける。何もかもいっしょくたの擬人化をして国を語っている人が多い。おそらく彼らは偏見を助長しデマの発生源となっている。

中国国内の若者の間ではインターネットの呼びかけで大きな集団が発生し、大きな力となることがあるようだ。単純化した方向と力のベクトルを作り操るのはどこでもよく行われる政治手法だ。利用されているのだろう。

中国政府が日本政府と手を携え、韓国政府ともインド政府ともベトナム政府とも仲良くしてしまったら、アメリカはすごく困るらしい。アメリカが困ると言うのはそれこそ、変な言い方だ。アメリカの何が困るかと言えば、軍需産業だ。つまりはアメリカの経済にとって都合が悪いということらしい。

だから、なんとしてもアジアが一体となったりしないように、いろんなところで緊張感をつくり、反日感情を煽り、他の反何々運動を煽って、反米感情だけは際立たせないようにしたいらしい。そうでないと武器が売れないから。

戦争は軍需産業を存続させるために起こされる。すべて経済主導。イデオロギーだ、宗教戦争だ、民族紛争だといっても実は経済的必然から発生している。地道な平和活動がなぜぶち壊されるか・・・それは武器を売らなければならないからだ。

そういう風に考えると小さな個人レベルでも喧嘩ほどばかばかしいものはない。誰かが武器を売りつけたがっているんじゃないか? 武装させたがっているんじゃないか・・・と考えてしまうと、もう喧嘩を防ぐためなら何でもしようという気になる。

というわけで、オリンピックは大々的にお祭り騒ぎにしたらいい。国の威信だ面子だなどということはどうだっていいのだ。世界のアスリートが中国に集まることが必要なのだ。世界中からの見物客が中国全土からの見物客と交流して互いを見せ合ったらいい。

中国の人々と世界の人々とがお祭りで交流することが大事なのだ。マスコミも四川大地震での日本の支援隊の活動に対して「日本人に感謝している」なんていうコメントばかりをわざわざ何度も放映したりせずに、又逆に「日本人は嫌いだ」という中国人の若者のコメントをことさら流したりせずに、交流しているところを正直に流したらよい。

北京オリンピックの開会式が行われる時、中国政府関係者は威信を示せた面子を保てたと安堵するだろう。オリンピックビジネスの関係者は莫大な利益確保が計算通りで大喜びするだろう。そんなことはどうだっていい。我々はお祭りが待ち遠しいのだ。敢えて我々と言わせてもらおう。我々は北京オリンピックが待ち遠しい。北京開会式が待ち遠しいのである。

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若者の車離れとビール離れ

2008年05月24日 00時37分59秒 | 個人的主張など
日本の若者が車を買わない、ビールを飲まないという傾向がでてきたそうだ。メーカーは嗜好を分析したりして対策を考えているらしい。

対策なんて簡単なことではないか! 日本のトップ企業なのだから、他の様々な職種の企業に率先して、従業員の給与を上げ、期間工、臨時工、派遣労働者、契約社員などの正規雇用化を図り、将来の不安要因を失くすよう努めることだ。

海外に生産拠点を移したり、日産のゴーン氏のようなリストラや大合理化の締め付けをするのではなく、日本的な『人は石垣、人は城』という人間重視の組織論に戻したらよいだけのこと。

日産のゴーン氏といえば、日産の役員達の報酬は日本の他企業に比べると破格の高額だそうだ。どうしようもない赤字体質を改善して、復活した今の日産があるのだから当然という考え方のようだが不思議な人間がいるものだ。

新車を買うとして、幾ら位が役員報酬になるのだろう?そして幾ら位が宣伝費か・・・などと考えると、とてもじゃないが買う気にはならない。企業の社会的責任などという理念は建前では語るかも知れないが、本音は企業エゴの私利私欲でしかないだろう。

また、物言う株主とか言われるファンドが企業を操ろうともしている。原油の高騰を始めマネーゲームの渦中にいや応無く生活の基本部分が投げ込まれ、庶民はただただ振り回されている。

若者の嗜好に合うような企画だとかデザインだとかの姑息な手段を取らずに、底辺の目線で根本的な人間的な生活を思い浮かべるだけで結論はこれしかないと判ることだ。それなのにマスコミも本質的なところを見過ごしているのか隠しているのか、何故かあまり意味のないデータを示したり分析したりで訳がわからない。

若者が車を離れビールを飲まず、せっせと携帯メールやインターネットで情報交換をしている。実にリアルな映像のゲームで未来への不安をごまかし、或いはシミュレーションしている。凶悪犯罪が増えるのは当たり前ではないか。

何かがきっかけで、大きなうねりが起きるかも知れない。そういう気配は今のところ感じないけれど、何が始まってもおかしくない時代になっているのだろう。未来は若者に握られている。たぶん。

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車の運転とエゴ(エゴイズム,エゴセントリック)

2008年05月19日 17時54分48秒 | 個人的主張など
【交通標語のピカイチ『左小回り、右大回り』】の中で、我が物顔の横着運転も、それに腹を立てるのも同じくエゴということなのだろうと書いた。何だか説明不足の気がするので、思うところを書いてみたい。

なぜ我が物顔の横着運転に腹を立てるのもエゴセントリック(利己的な、自己中心の人)か。それは車があるべき姿を自分の中で想定していて、自分の思惑から外れた車(運転手含む)に対して腹を立てるということだからだ。

車はものすごく恐ろしい道具であるにもかかわらず、安全装置が全く装備されないまま走り回っている。そのことを十分認識できていないということでもあるからだ。車の事故が何故起きるかを安全装置から考えてみよう。

居眠り運転事故:居眠り感知警告装置が装備されていない。
よそ見運転事故:運転手の目が前方を見ていないことを警告する安全装置が付いていない。
ドライバー気絶による事故:よそ見警告後に緊急急停車するような装置がない。
スピード出しすぎ事故:スピード制限表示と車とが反応する装置が創られていない。
車同士事故:車を認識し、相手のスピードを察知して自動制御する装置が付いていない。
対人事故:人が当ったと同時に人をはね飛ばさずに抱きとめるような装置ができていない。
車自体の不具合事故:足回り(タイヤ脱落防止)などの自己点検センサー装置がない。

よくもまぁ安全装置を研究開発しないままで来たものだなぁ、と多くの人が思っているのではないだろうか?なぜ世界のどこかで上記の装置がどんどん開発されて一般化する動きなどが起きないのだろう。研究はされているのだろうが、それを開発普及させる行政監督能力がないのだろう。

世界中でどれだけの人が交通事故で毎年死んだり怪我したりの大損害を受けていることか。戦争被害どころではないだろう。大損害のはずだが、車を性能よく作って便利さを売る方に世界はまだ夢中なのだろう。利害がそちらにしか向いていないということだ。

安全装置の無い無い尽くしで車は走っているのだ。しかも「ハンドルを握ると人格が変わる」と言われるように、運転席に座ると何故か全能感のようなものを感じてしまう人が多い。車を信用してはいけない。車はみな凶器であり狂気をはらんでいるとみておいた方が良い。

スピードも思いのままに出せる。一つ間違えばどんな自己だって演出できる。どんな自己と書いた。これは実は事故の変換間違いなのだが、事故をも演出できる自己とも言える。一台一台の車はそんな状態で走っているということを皆がきちんと認識すべきだ。

以上から言える結論。
今の世のなかで生き抜くためには、車に腹を立ててはいけない。
制御装置のない凶器である車を上手によけて自分を守らなければならない。

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船場吉兆のMOTTAINAI精神

2008年05月08日 15時26分15秒 | 個人的主張など
船場吉兆が客の残したものを使いまわしたと非難されている。寄ってたかっていじめている印象を受ける。非難されるべきは、高級料亭の高価な料理を残す客だ。一切れ相当な金額の刺身だろうに、解せない。そこでもったいないと思う社長は感覚が庶民だ。良いではないか?

使いまわしたモノが好き嫌いではなく、単に不味いとしよう。客の残した不味いものを、後の客に使いまわして出すだろうか? それはないないだろう。客を二組失うことになるだろうから。であれば、おいしい料理を絶対の自信を持ってのもてなしだった筈だ。

客に対するもてなし方が悪かったのだろうか? ある意味では客への教育というのか、勧め方というのか、そのようなおいしく全部食べてもらえる雰囲気を作れなかった船場吉兆のせいなのだろうか?

NHKの朝ドラ『どんど晴れ』でも、日テレ系で今やっている『おせん』でもそうだが、事あるたびに「おもてなしの心」が説かれ、オモテナシだオモテナシだとうるさい位だ。わたしはおもてなしと聞くと『表無しで裏ばかり』とツッコミを入れる。

使いまわして病気がうつるとか、食中毒があったりするのだろうか? 船場吉兆だもの、そういう注意はおさおさ怠りないだろう。嘗め回して唾つけまくるような客はそもそも行かないだろうし、箸の付いたところは次に出すにしたって、ちょいとすすぐなり切り取るなりしていただろう。

それにしても、食後に下げたお皿は洗い場に直行するのではなく、調理場に一旦戻されていたわけか。料理人はじめ幹部が客の食べ具合を吟味していたのだろうか。反省したり研究したり勿体ないと思ったりしたのだろう。いや必ずチェックするものなのかな?

MOTTAINAIを世界へ広めようという運動がある。食料危機が噂され、小麦の値段が上り、大豆が不足し、もう例を挙げればきりがない。そこで高級料亭吉兆が密かにではあったがMOTTAINAI精神を発揮したのだ。非難しなくてもよいのではないか? わたしは何にも構わない。一度たりとも行ける可能性がないからでもあるけれど。

蛇足ながら、船場吉兆の料理を残した客は超一流なんだろうか? だとしたら同じモノを黙って食べたら一流で、喜んで食べたら二流、使いまわしでも感動して食べたら三流か? 

そんなことはともかく、ここで船場吉兆は調理場を客のカウンターが囲んでいる格好の居酒屋に転身したら良いのではないか? 生き残れる道はそれしかない。庶民の所に下りてきて欲しい。一流の腕の料理人が肴を造る居酒屋に船場吉兆がなったなら、是非行ってみたい。


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渋谷・夫殺害事件の判決について思ったこと

2008年04月29日 13時58分45秒 | 個人的主張など
殺人と死体損壊・遺棄の罪に問われた被告に東京地裁は懲役15年(求刑懲役20年)の判決を言い渡した。精神鑑定の評価が焦点だったが、動機や犯行前後の行動から「完全責任能力があった」と判断して鑑定結果を採用せず、起訴事実をいずれも認定した。その上で「夫の頭部を執拗に殴打し続け、遺体を5つに切断し遺棄するなど残酷な犯行。夫が生きているように装うメールを送り、息子の安否を気遣う両親の気持ちを踏みにじった」と述べた。弁護人は「責任能力の判断には精神鑑定を尊重すべきだとした25日の最高裁判決に反し不当だ」と批判。控訴については「するべきだと思うが、本人はこれまで控訴しないと言っており、相談したい」と話した。(静岡新聞より抜粋)

この判決について、懲役15年が長いか短いか、そして精神鑑定の結果による責任能力の有無、死体損壊遺棄の猟奇性に関心が行きがちだが、なぜこの事件は起きたのかがもっと世に知られるべきだと思った。インターネットなら簡単に調べることが出来る。

公判では明らかになっていることだが、この被告は父親から永い間DVを受け、高校や大学も父親が決めた学校に行かされるという育ち方をしている。そして結婚した相手がまた暴力を振るう父親と同じタイプだったのだ。その被害から逃れるシェルターに避難さえしているのに、その後夫の元にもどり又DVの被害を受け、その被害を隠蔽する《囲い込み》が夫によってなされ支配され精神を病んでいったのだ。

なぜ女性評論家や女性キャスターたちは声高にこの事件をとりあげることをしないのだろう。これは男の強権発動に対して女が正当防衛としての逆襲をした事件ではないか?これ以上耐えられないという身の危険を感じた女が逃げることもかなわず起こした行動がたまたま殺人事件になってしまったということではないのか?

事件後の隠ぺい工作などについても、精神鑑定医の証言で明らかになっている。幻覚を見るような異常な精神状態において起きた殺人事件だ。暴力を自分に振るう人間が生きている時の状態とその人間が死んだ(いない)状態とでかなり違う精神状態なのではないだろうか? 連続しているようで、まったく別状況になってしまった不連続の事件なのではないかと思うのだ。

被告はどのような判決が出ようと控訴しない考えらしい。それは何故か。判決などどうでも良いということなのだろう。自分が犯してしまった殺人事件について、それを避ける道はなかったか、よりよい方法はなかったかというような反省や悔恨はあまりないのだろう。自分を支配し暴力を振るう人間がいなくなったということで安らかになっているからだ。おそらく初めての精神的安寧を感じているからだ。

この事件では被害者の夫がどういう家庭に育ってDVをする人間になったかは問題にされない。被害者を責めるのはタブーかも知れないが、DVをするような人間にしてしまったという反省や自責などの声が少しも出てこないのは何故だろう。被告は幼い頃から連続的被害者であったのが一転加害者だ。そのとまどいを癒すのには何が必要なのだろう。心神喪失として無罪になっていたとしたらそれも酷かも知れないが、懲役15年というのはあんまりだ。フローチャートに従ったような機械的判決だと思う。
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監視カメラ映像のこと

2008年04月27日 05時36分00秒 | 個人的主張など
ある地方の街でプランターの何十本だか何百本だかのチューリップが花を切り落とされた。類似のことが他所でもあって、マスコミが一斉にとりあげた。そして、防犯カメラに映った映像が全国放送で流され、ユーチューブでも見られるようになっている。モノクロ画像の連続でパラパラしたものだが一応映像だ。こういう映像は多少荒くても決定的な証拠となって、身近な人間ならほぼ特定できるだろう。心当たりの人は情報を・・・と通報(密告)の勧めまでもやっていた。

結論から書こう。本当に身震いするほど恐ろしい。監視社会になっている事が。マスコミ各社がこんなことを一斉に取り上げ、テレビ放映してしまうことが。そして警察はマスコミに踊らされるように、誘導された世論に後押しされるように、警戒態勢を敷いて犯人逮捕を目指し、チューリップ一本を抜いた人間さえも逮捕して世に晒す。

どうして日本のマスコミは大人の対応ができないのだろう。子供じみた軽犯罪に対してこのヒステリー状態は何なのだろう。いけにえを探し回っている雰囲気にあっては、あらぬ疑いをかけられる人も出てくるだろう。疑心暗鬼を行政とマスコミが協力して作り上げてどうする。

もっと取り上げるべき巨悪はいくらでもあるだろうに。後期高齢者医療制度にしたって、なぜ前もってのシミュレーションができなかったのだろう。あれもこれもそれもだ。

四ヶ月ほど前のことだが、歓楽街が隣り合わせになっている繁華街に早朝から行く用があった。冬の彩りにポインセチアのプランターが歩道に並べられていた。その内の4~5鉢が商店のシャッターに投げつけられたり、倒されたりして無残に散らばっていた。吐しゃ物まであって、酔っ払いの仕業というのがあきらかだった。これはマスコミに取り上げられることもなく、「しょうがないなぁ酔っ払いは・・・」で鉢も元通りにされ、片づけられた。これが大人の対応だ。やんわりとした緩さが必要なのだ。

最近、小学校の登下校時に交差点などの要所要所にリタイアした人たちが子供達を見守っている。そろいの蛍光色のジャンパーを着て『見守り隊』などとプリントされていたりする。見守りという事なら、子供達の安全に役立ち、見守る方にはボランティアとしての張り合いも満足も得られ、それはそれで一石二鳥なのだろう。しかしこれが監視にならないように切に望みたい。

《監視体制と集団ヒステリー状態》というタイトルで書こうと思ったのだが、例証をあげて考察することができない。思いつくままにこんな形でしか書けないのが残念だ。全体主義やナチズムまでもっていけたらとまでは考えなかったが、そこまでの論に発展させることだってその気になればできるかも知れない。

余談になるのだが、先日たまたま仲代達也、三船敏郎、新珠三千代の出演している映画『大菩薩峠』をテレビで途中からだが観た。仲代演じる机竜之助の鬼気迫る殺陣がすさまじい。心の闇をあのような映像にしたのはすごいなと感じた。そしてネットの青空文庫で『大菩薩峠』を読み始めた。

理性で抑えてはいても、大抵の人間には、特に男には『大菩薩峠』の竜之助のような心の闇が心象風景としてあるのではないかと思う。それが理知の境界を踏み越えてしまって傘を振り回しチューリップをなぎ払うようなことを時に起こすこともある。何だか感情移入してしまいそうだ。 

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『メタボ猿』と『愛を与えたい症候群』

2008年04月18日 18時06分45秒 | 個人的主張など
【堺市が管理する大浜公園(同市堺区)の猿山に住むアカゲザルが、集団肥満に陥っている。常駐する管理人も金網もないため、見物客から餌をもらい放題になっているのが原因らしい。おなかはだらんと垂れ下がり、ついたあだ名は「メタボ猿」。市大浜公園事務所は昨年からダイエット食に変えたが、焼け石に水だ。
猿山の周りには「害になる食べ物を与えないこと」と書かれた看板が四つあるが、毎日10~20人がパンや菓子を投げ与えている。近所の女性は、朝食の残飯やバナナ、かりん糖、ピーナツなどをやるのが日課という。「大きな猿に餌を取られる小さな猿がかわいそうで」
日本モンキーセンター(愛知県)の加藤章園長によると、10年ほど前から猿山の周囲を透明なプラスチック製の壁で覆って餌を投げ込めないようにしたり、専用の餌を限定販売したりと見物客の餌やり対策が進んだ。「まだそんな管理をしている公園があったとは。無制限に食べ物が与えられる状況を放置しているのは明らかな虐待。早く手を打つべきだ」と忠告する。 
 長谷川昌治・大浜公園事務所長は「食べ残しがなかったので餌の量や内容は適切だと思っていた」と話す。今年度中にも金網の設置などを含めた改修を検討するという。】asahi.comより抜粋


画像には何ともすごい体型の猿が映っている。昔、中学校でならった美術の本に高村光雲作の老いた猿を彫ったものが載っていた。芸術と現実の違いを思ったりする。だが現実は現実なりにすばらしい迫力で、何とも多くの示唆に富んでいるではないか。マスコミに取り上げられて、市の関係者にすれば『まいったな!困った!』状態だろう。しかし無制限に食べ物が与えられる状態を放置するのが虐待なのか? 何だか釈然としない。目くそ鼻くその気がしてしまうのだ。

猿は見ていて飽きないと言う人は多い。猿を見ながら、人の社会をのぞき自分の生き方を見たり自分の来し方を思い起こしたりしているのだろう(実は私がモデル)。すべての猿が肥満になっているのではなくて力の上位の猿がひどいらしい(もしかしたらオスだけ?)。飽食、怠惰、強欲、権力、独占、倦怠、その他多くの生きた比喩がサル山にはあるのだ、たぶん。小猿は活発で遊びまわり肥満になったりする暇がない。肥満の小猿がいたら、これはもう人間並みの堕落なのだ、たぶん。

猫おばさんと呼ばれる人がいる。猫好きが高じて野良猫を捨ておけない人達のことだ。大阪と奈良の境で目撃したことがある。車道脇で餌やりの用意をするおばさんと、その前方に距離をおいて猫が数匹『あ、これがそうか!』と思った。野良猫をつかまえては獣医に避妊手術をしてもらっている知人もいる。猫おじさんも見たことがある。ドバトやユリカモメに餌をやる人は、これはもうどこにでもいる。それが猿になっただけのこと。しかも心ならずもか計らずもか市民の娯楽のために飼われているサル山の猿だ。マスコミに取り上げられ、専門家?の警告があったとて、金をつぎ込んで何もかも窮屈にすることはない。いいではないか、このままで・・と思うのだ。

情が深くて、それを持て余してしまうような人がいる。赤ん坊を見たら「抱かして」と奪うように母親から抱き取る。赤ん坊を見ると乳房が張って痛くなる女の人さえいるのだからして・・。ペットとしての犬猫も家族としての想いから極端に擬人化した接し方をしている人も多い。衣食足りて礼節を知ると言うけれど、衣食足りて愛があふれている状態なのかも知れない。

飽愛(豊愛?あるいは満愛?)の時代なんです。愛を与えたい症候群なのです。愛のはけ口を閉ざさないで下さいな・・・。そんなもの、社会的に有意義な方に目を向けたらいいのに・・献血でも介護ボランティアでも何でもありますよ、人の役に立ちますよ、満足が得られますよ・・・と言うなかれ。愛はまったくもって現れ方は個人的で人それぞれ独特なんでありますからして・・・。
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死刑確定と死刑執行と(番外緊急アピール) 

2008年04月10日 21時52分45秒 | 個人的主張など
 4人の死刑を執行、鳩山法相が発表
 今の大臣のもとで3度目、合わせて10人となる死刑執行です。鳩山法務大臣は、死刑囚4人の死刑を執行したと発表しました。
 「4名の死刑を執行しました」(鳩山邦夫 法相、10日)
 鳩山大臣自らが発表した死刑執行。大臣就任以来3度目、合わせて10人となる死刑執行です。 (TBSニュース)


       処刑をやめろ!

           人を殺すな!
 
              殺されるな!

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死刑確定と死刑執行と(その7)

2008年04月09日 19時32分17秒 | 個人的主張など
《死刑囚を選択するという亊》

 京都府と神奈川県で昨年1月、親類2人を相次いで殺害し金を奪ったとして、強盗殺人罪に問われ死刑判決を受けた無職松村恭造被告(26)が8日、控訴を取り下げた。死刑が確定した。
 京都地裁は3月17日、松村被告に死刑を言い渡した。同被告は「身辺整理のため。1、2週間で取り下げる」として、同月31日に大阪高裁に控訴していた。 (時事通信)

 マスコミ報道で知るかぎり、松村被告はすべて計画通り、予定通り、思い通りに事を成して結果を得たということになりそうだ。世間も国家も敵に回して、それで尚且つ望んでいた死に方を得るという事になりそうだ。もう被告ではなく望みどおりの死刑囚だ。

 池田小学校の児童殺傷事件の宅間元死刑囚は異例のはやさで望んでいた通りに処刑された。死刑判決が確定した冤罪事件の再審が行われて無罪を得たら、堂々たる『元死刑囚』だが、処刑をされて故人となったら、やはり『元死刑囚』なのだろうか?(横道にそれた)

 これだけマスコミを賑わし、しかも短期間に判決が確定し死刑を望んでいるのなら、今の法務大臣のことだから、何のためらいもなくGOサインを出すのだろう。その道では高名な蝶収集家だということだから、GOサインコレクションに入れるのかも知れない。

 またも横道にそれるが、イギリスの映画で『コレクター』という猟奇的な映画があった。地味な銀行員だった若者がトトカルチョで大金を手に入れる。趣味の蝶の標本収集をする内、それが高じて美女を誘拐して想い通りにしようとするというような映画だった。

 世間や国家を擬人化した物言いで論じたくはないのだけれど、松村死刑囚はまんまと世間をあっと言わせ、多くの人間を振り回し、多額の費用と労力を使わせ自分の書いたシナリオ通りに演じさせた。一人の人間にこれだけナメラレても、その通りにせざるを得ないのが日本国家だということになる。

 そこで、以前にも書いた事だが、このような事件を未来への財産として、あらゆる角度からの検証を惜しまずにやる事、そして突出した象徴的な教訓と捉え、犯罪者を一人の国民として更生させる試みをする事なしに死なしていいものか?という疑問が出てくるのだ。更生のためのあらゆることを試す価値はあると思うのだ。国家の未来のために。

 人を殺したから、その人間を殺すという国家は、国家そのものが一人の殺人者レベルに自身を貶めるということだとしか思えない。独裁者のいる国家でもない民主主義国と言われる国ならば、せめて死刑だけはやめて欲しいのだ。
     (これでこの項おわり)

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セールス・トーク

2008年03月22日 01時58分37秒 | 個人的主張など
セールスマン全般を悪く言うような発言をしてしまって良くないなぁと思っています。
それぞれ色んな事情もありましょうし、何たって生きていかなくてはならないんですから。何のために・・ってふと考え込んでしまう事もありますが・・・。

ところで、セールス・トークと言えば思い出すのが通販だ。テレビで俳優やタレントがいかにも感心した風に商品を誉めそやす。そのそらぞらしい演技を観るのがとても好きだ。

ドラマなどの合間に流れるコマーシャルで、タレントが商品を宣伝する場合は、やはり手間隙と金額をかけているのだろう。思わずその気になってしまうし、実感こもる迫真のうまさだから乗せられてしまいそうになる。

ところが、通販専門の番組でみる俳優やタレントの演技は、演技をしていますよ!というのがわかってとても面白い。『けっ!ようやるわ!』と思いながら、金が必要なんだな・・・何だか可哀想・・と思ったりもする。もしかしたらそのように思わせる創りなのかも知れない。

それから、あのとんでもなく大きくなった通販の会社の社長自らがやるセールス・トークを見るのがとても好きだ。『なんちゅう甲高い声だ、どこから声出してんねん?』と思い、ぞぞぞーっとしてすぐチャンネルを変えていたのだが、それを我慢しながら聞くのが快感になってきた。

あの会社の電話を受ける人たちがずらーと並んでいる映像を見たことがある。あの社長がテレビでセールス・トークをし終わって、その人たちのところに行って、さぁこれからじゃんじゃん注文が来ますからお願いします・・・というようなことを言い、そのとおりに電話がじゃんじゃん鳴り出した。

あの早口と甲高い声、顔を赤らめながらの必死で巧み?なトーク。あれに視聴者の多くが『買わなくちゃ!』と思ってしまうのだろう。わたしはとにかく、ぞぞぞーっとするのだ。でもそれに耐えながら我慢して見続けるのがとても好きだ。
   (ちょっと番外編)
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恐怖を商うという事(その2)

2008年03月20日 19時21分20秒 | 個人的主張など
エキスポランドの風神雷神Ⅱの死傷事故について前回の最後に触れたのだが、撤去されることが決まったそうだ。そして現在休園しているのを来春にはリニューアルオープンする予定だとか。撤去とは、なんとももったいない話だ。

とは言え、一度死傷事故を起こしたコースターに、いくら安全になったからと言っても、乗って楽しもうという気になる人は少ないだろう。気味が悪いということもあるだろうし、亡くなった方に申し訳ないという気がして手放しで楽しめないかも知れない。

それにしたって、金属疲労に対する意識、酷使する可動部分の部品定期交換の必要性に対する認識の低さは十分に糾弾されるべきだ。定期的なテスト走行に色んな数値を測れるダミー人形など使っていたのだろうか?

エキスポランドについて少し検索してみると、すごい数がヒットし、色んな非難記事が書かれていた。ずっと休園しても倒産もせず、撤収するわけでもないのが何故なのだかが判った。天下りそして政商!やはり利権にまみれている構図なのであった。

さて、話を次にすすめよう。セールストークとして不安をあおり恐怖をうえつけて高いものを売りつける悪者がはびこっている。訪問販売も電話での勧誘も、一番手っ取り早いのが、恐怖を売るということなのだと思われる。

我が家でも外壁にほんの少しひび割れ(クラック)が入っているだけで、ものすごい数の電話勧誘がある。雨水が染みこみ白蟻がたかり、ゆくゆくは家が崩壊する危険があると言うわけだ。まるで、ヒトの家の傷を見つけたのが自分の手柄のようにいいつのるヤツまでいる。

『ご存知かと思いますが・・・』ときて自分の話術の魔術に誘い込もうとする。塗装が必要だ外壁工事をした方がよいとうるさくてかなわない。最近はうんざりして、「ウチは建て替えるつもり・・・」とか「親戚がやってくれることになってる・・・」とか「ウチは建築業者だから・・・」と言って断っている。
     (つづく)
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恐怖を商うという事(その1)

2008年03月17日 22時40分27秒 | 個人的主張など
〈「それでもボクはやってない」と『痴漢でっち上げ事件』で思うこと〉のつづき。
タイトルを恐怖を商うとして、シンプルにダイレクトに思い浮かぶのは、ジェットコースターやバンジージャンプなどだ。私も実は恐怖が好きなのだ。ナガシマスパーランドで世界最大級の木製コースター ホワイトサイクロンという絶叫マシンに乗ったことがある。わざわざ一時間待ちを並んで恐怖を買った。

横揺れが怖い。いつバラケてしまうか知れないという恐怖があった。登りから下りになる寸前は空しか見えなくて、身体が飛んでいきそうになる。実際に身体がぐっと前方上方に持っていかれているのに無理やり下方にしかもカーブしながら戻される時の恐怖はすごかった。それが何箇所かある。一緒に乗った連れ合いは、『もう持ちこたえられないかも知れないと思った』と後で言っていた。精神があっちに行ってしまう恐怖を感じたというのである。

鋼製ジェットコースターで回転が加わっているナガシマでは一番大規模のヤツにも乗ろうと誘ったのだが、『もういい、もう一生いい』と言って断られた。実を言えば、虚勢を張って言ってみただけで、私とて「もう今日は十分ごちそうさん」と思ったものだ。

恐怖を商うといっても、こういう施設の恐怖マシンやお化け屋敷などは安全が売る方にも買う方にも大前提としてある。遊びとして、約束のできた恐怖だから罪はない。

とは言え、点検を怠って値段以上の恐怖をサービスしてしまい、大事故になってしまった施設もあった。亡くなった人も最後の瞬間まで、安全を信じての恐怖を味わっていたものと思いたい。あの時の同乗者はその後どうしているだろう。もうスリルは買わないと誓っただろうか?恐怖を買って楽しんでいたつもりなのに、結果的に大変なトラウマを買ってしまったかも知れないと想像すると、何とも気の毒な話だ。

     つづく(なかなか一気に書けない)
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