鳥瞰ニュース

空にいるような軽い気分で・・・

盲亀カメリアの近況(その28)  オナガウジ発生

2011年01月22日 18時30分54秒 | 盲亀カメリアの近況
外においた水槽に氷が張ることもあって、やはりこの冬は夏の暑さの帳尻合わせをして相当寒い。地球温暖化って本当の話ですか、という今日この頃だ。カメリア冬眠中の水槽が凍ることは決してあってはいけないので、とんでもない寒波がやってきたら何らかの対策も必要かと思ったりしている。そんな中、画像のモノが水槽内に蠢いていたんである。

さっそくピンセットで取り出してプラスチックケースに隔離した。もしかしてカメリアにいる寄生虫なのか? と思ったりもしたが、とりあえず飼ってみようと水槽のふたの上に載せておいたら、あくる朝居なくなっていた。あんな虫がウチのなかに蠢いているかも知れないと考えると気味悪いし踏んだ時のことを考えるとなおの事だ。

丸一日後に水槽をよく観察してみると、ちゃんと戻っていたので一安心した。プラケースはA6程の底面積に10センチ程の深さがある。水は1センチ程入れておいたのに、動き回ったあげく住むには適さないと判断して壁をよじ登り、這い降りるかポトンと落ちたりして右往左往の末に元の水槽にたどり着いたわけで、相当の知恵か嗅覚か何しろ生命力がありそうだ。

尻尾が自在に伸縮する。1センチ足らずが3センチ以上になったりする。足は無さそうだったが、極極短いのが6つ(?)あった。プラケースの壁を登ったのが頷ける。ところが、そいつ以外に大きくて色のついた兄貴分もいたのだ。姿はそっくりだが、違う種類か? シースルーの加減が少し違うし、透けて見えるギザギザの内臓のようなバネのようなものも形状が異なって見える。胴体もかなり伸縮する。

ネットで調べてみると、ハナアブの幼虫でオナガウジと呼ばれているものだと判明。子供の頃、肥溜めに蠢いていたのを思い出した。なんとウジだ。汚染の目安にもなるウジだとか。ハナアブといいながらアブではなくて蝿の仲間だそうだ。尻尾はシュノーケル。餌は腐った葉っぱや糞便など。カメリアに害はなさそうなので、観察して画像を撮ってから水槽に戻した。

葉っぱの腐敗発酵が進んで外気より温かいことでカメリアは生き延びているのだから、ウジが蠢いても仕方ないのだろう。でもあまり水が汚くなってもと思い、バケツ一杯分の水を交換した。新しい水を入れてるときにカメリアは起きてしまった。冬眠といっても仮死状態の爆睡ではないようだ。新しい水が少し入っただけで、『何だ!?』という感じで首を最長に伸ばし、水面上に鼻先を出した。それまでは首を半ば縮めて息もしていなかったのに、呼吸をしっかりやる。

まずかったのかな・・・とも思ったが、しばらくしたらまた冬眠状態に戻った。オナガウジも水面に尻尾をだしてゆるく蠢いている。昨冬のカメリアは当方の無知にもかかわらず、暖冬だったためにやり過せたのかも知れない。過保護なんかには、しようと思ってもできないのだが、何とか生きながらえて欲しいと思う。春になったらオナガウジも蛹になり、それから羽化してハナアブがウチの中を飛び回るのかどうか楽しみではある。       (カメリアが来てから420日目)

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鳥瞰ニュースとは名ばかりで・・・(その6) モチベーション

2011年01月18日 17時35分32秒 | 随筆或いはエッセイ
先に(その4)で書いた人事不省の友人が亡くなった。全くの絶望的状態だったが、意識は戻らなかったものの二週間以上持ちこたえたあとで力尽きた。意識が戻らない或いは意識不明ということを言うけれど、医学的な使い方と、そうでない場合とでかなり違いがあるのではないかと思われた。会話が成立せず意思表示とみなされる動作はなくても、意識は時々戻っていたのではないか。意志は不断に発揮されていたのではないか。そのように想われた。

高齢で体力が無いという理由で外科的手術を全くしなかったのは、始めからサジを投げていたのではないか。小さく呻いていたじゃないか、呼吸が荒くなったり静かになったりしてたじゃないか、まばたきをしてたじゃないか、つないだ機器がピーピーなってたじゃないか・・・。あんなに生への執念を燃やして頑張っていたのだから、もっと細やかに診て看てやってくれたらよかったのにと想ったりするんである。家族へは十分にインフォームド・コンセントを行っていたのだろうし、割りに合わないかも知れないけれど、医者は恨まれる存在なのだなということを今更ながら想った。

人が亡くなると、その人との関係性や想いがついと浮力を得ておもてに現れてくるようだ。もう何もして上げられないという残念さと、その人との未来はもう無いという固着意識のようなものが働いて浮かび上がってくるのかも知れない。遺族に課せられたセレモニーを手伝うことができないか、供養に何を奉げようか、故人を偲んでせめて想いを分かちあえないか、ただ冥福を祈るしかないのかなどをそれぞれが考える。

通夜としてのセレモニーが終って参列者がぞろぞろと帰る。故人の奥さんと息子さんとお孫さんが出口で見送る。その三人が儀礼的な雰囲気を微塵も感じさせず誠に誠を表していて哀しいのであった。そして参列者も立ち止まってはそれぞれの挨拶の仕方で想いをあらわすのだが、哀悼を示すというのはこういうことなのだなというシーンもあり、受付にいた私はこの歳になって初めてのような感動を覚えたのだった。

私はせいぜい通夜の受付をやる位しかできない。次の日の告別式は断れない仕事があって欠席を決めていたから情け無い人間だ。感情的情緒的表出に遺伝的欠陥があるのかも知れない。親の葬式で私のきょうだい五人は誰も泣かないので、義理の親戚が『誰も泣かないね・・・』と遠慮なく言ったものだ。感情の表出はうまくなくても弔意は何らかの形で出したいと想う。そんな歳になったのかも知れない。

漫画のヒーローのタイガーマスク伊達直人を名乗っての寄付がニュースになっている。独りの慈善行為が呼び水となって、善意を引き出すというのはすばらしい。性善説を強く感じる出来事だ。自分が気持ちよく生きていくためのモチベーションということなのだろうと想う。亡くなった人への供養という想いからの行為も、自分が気持ちよく生き延びるためのモチベーションということなのだろう。

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鳥瞰ニュースとは名ばかりで・・・(その5) ホオジロカンムリヅル

2011年01月10日 11時15分06秒 | 随筆或いはエッセイ
元日に載せたキンケイチョウと同じ花鳥園の同じ棟にいたもの。尻尾の臙脂がシックで、そこにかぶさるシースルーの肌色が爽やかでセクシーだ。黒羽根の黒は青みがかり、首から胸に掛かる毛が流行りのヘアスタイルみたいで地味なのに派手やかさがある。冠はススキの穂のようだが完璧な放射状。ススキもこれにはうなだれざるを得ないだろうなどと想ったり・・。頭の黒と頬の白がシンメトリーに見えるが、少し崩して赤を入れてるところなんか流石だ。そしてネクタイの赤、これは肉垂れだ。プラプラとお洒落に決めていて、足元を見るとさりげなく足輪をはめている。おっと、これは自然ではなくて囚われの身の証か。

種類を確認するためにネットで調べてみたら、二年前にどこかの施設から逃げ出したホオジロカンムリヅルの画像と記事がかなりヒットした。アフリカ南部に棲息する鳥なのに、食餌などもして各所で見られた時期があったようだ。鳥瞰という語は、何と言っても猛禽類や鶴の仲間のイメージだ。豊岡で、放鳥されたコウノトリが空高く弧を描いて滑空する姿を見上げたことがある。豊岡方面に行く折は必ずコウノトリを探す。哺乳類は恐竜時代の怯えがあって、恐竜の子孫である鳥に対して云々というような話もあるが、怯えよりは憧れの方がまさって今日の航空機時代を迎えているわけだ。

この年末年始のいつだったか、求愛ダンスをする鳥の貴重映像というのをテレビで観た。何年も前から同様の、何種類もの変った鳥のダンス映像をテレビで観てきた。でも映像はしょせん一方通行のあてがい扶持だ。実際に見るのとは違うのだ。このホオジロカンムリヅルも捕らえられたか、動物園で産まれたかは知らず、人馴れさせられているとは言え、野生の迫力は実際に対峙すると並でないものがある。特に目が用心深く緊張しているのを観るにつけこちらも襟を正そうという気分になる。ところが、いくら鳥でもそうそう緊張を持続できるわけではなく、花鳥園なんかではうずくまって目を閉じて眠ったり半眼にして眠そうにしていたりするのを観るのもいとをかし・・だ。今回は元に戻すための鳥瞰たる鳥にまで戻ってみた。

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鳥瞰ニュースとは名ばかりで・・・(その4)

2011年01月08日 09時34分51秒 | 個人的主張など
タイトルからは若干横道にそれるけれど、それて元にもどる流れが創れたらと思う。《ブログによってもう一人の自分を創りあげることができるか?》というもくろみがスタートだった。話し下手でスムーズに言葉が出てこない自分とは全く別な、回転速くカツゼツ鮮やかな人格を創れるかも知れないと思った。しかしやはり思考の回転は変えられないのだから、なかなかに難しい。色んなことに刺激を受けて、これは書きたいあれも書きたいと思うが、それらを文章にすることのいかに難しい作業であることか。当初はあまり自分を明かさないようにしていたが、3年間やってきて、ようやく少しずつ周りに知らせる方針に変えた。知らせたとて読んでくれるとは限らないし、書くほうも毎日ではない不定期なのだから読んでくれるのはなおさらだ。

昨日、88歳で事故に遭った友人を見舞った。毎月ある会合で会う人で、私は還暦を越えていて彼は米寿を迎えたという年の差だけれど互いに友人とする仲だ。人事不省に陥って2週間経つが、心臓も自発なら呼吸も自力の生命力を発揮している。昼過ぎに病室を訪れると1人機器に囲まれて寝ていた。デジタルディスプレイの数値が刻々と変る。酸素マスクを装着させられているが、管だらけという感じはしない。胸が大きく波打って荒い呼吸をしている。『オゥ』と声を出して、目を数回しばたたいた後で少し呼吸は穏やかになった。悪い夢を見ていたという感じだったので呼びかけてみたが反応はなかった。穏やかになった後だったから、悪い夢から開放されて深い眠りに入ったのなら邪魔するべきではないと思い一回だけの呼びかけで思いとどまった。

当初は面会謝絶だったことと、ひどい腫れと骨折と脳にも血が溜まっているという話しもあって最悪の憶測すら外野で交わされていたのだ。デジタル数値の色がオレンジから赤に変わるとピーと音が鳴る。わずかの間に何度も鳴った。ナースステーションにも当然ながらその数値と音が同時に感知されているだろうから、ナースがとんでくるのかと思った。何のことわりもせずに黙って患者1人が寝ている個室に入ってしまったという負い目もあって、すぐに引き上げた。希望的観測かもしれないが絶望的状況ではないと後付けで考えた。

医師が驚異的な心臓だと言っているとの話しを聞いていたし実際に見舞った上で情緒的にとらえるならば、生への執着は並々ならぬものがあるのだろうと思われた。知識が豊富で、話し始めると脱線し勝ちに止まらなくなることもある人で、世相をたくみに風刺する批評家であり反骨の人なのである。そのあたりを皆に愛されていることを充分に自覚しているかどうかはともかくとして、死んでたまるかという気はあっただろうと思う。快復を祈るばかりだ。

この際にもうひとり、反骨の人のことを書きたい。村山孚さんといい 著述家・中国研究家としてネットで紹介されている人だが、90歳を超えて、ホームページに巧みな文章を載せている。彼は私のまた兄弟にあたる。コマギレ自分史と題したなかに出てくる本家が私の実家だ。私の実家からかなり昔に分家した家に、もう一度本家から嫁いだ人がいたという関係でまた従兄弟なのだ。自慢話しになるので隠して置きたいのだが、孚さんの文章を読むにつけ、自分もあと30年頑張らねばなどと思われて、最近はやりの『勇気をもらえる』という感じが湧くのだ。彼の文には、激動の昭和前半が活写されている。是非読んで頂きたいと思う。

午後の喫茶店(http://www2.wbs.ne.jp/~bokemon/) ボケモン日記  亭主のコマギレ自分史 
村山孚(まこと) 大正9年(1920年)生まれ、新潟県出身。
著書『明るくボケよう』(草思社)は、スーパー老人、ウルトラスーパー老人ではない、ごくフツーの老人のごくフツーの日常の姿をユーモアたっぷりに、かつ正確にシリアスに描いて、多くの人々の共感を呼んだ。日本と中国の古典に詳しく、神子侃(かみこただし)の筆名でも知られる。(ウィキペデイアより抜粋)

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ハーバード白熱教室のこと

2011年01月04日 12時49分01秒 | 随筆或いはエッセイ
テレビはこれを観ようと決めて、その時間に自分を合わせることを近頃はあまりしない。昨年は日曜夜8時からか、10時からのどちらかで『龍馬伝』だけを必ず見た。サンデル教授の政治哲学授業のことは、NHKが宣伝するので頭の隅にあったのだが番組表も見ずに偶然最初から見始めた。1時間見てフンフンと思い、つづいて2時間目も見て成る程と思い、これで終わりかと思ったらまだ続いていて、4時間連続で見た。

番組表では2夜連続6時間ずつ延べ12時間の番組とあったので、元日の22時から見始めて初日はあと2時間あるのだったが集中力が保てずに寝てしまった。2日目はもうはじめから見なかった。全体の3分の1しか見てないのに感想などを書こうとしている。検索すれば無限にヒットするだろうけれど、何も見ず読まず調べずに書こうと思う。そうでないと書けないだろうから。

自然科学の講義や専門学校などの授業とは違い、社会科学講座は知識伝達を主な目的としていないということがよくわかった。考えるヒントきっかけを与えることが最大目的なのかも知れない。ハーバード大学となれば、将来国を背負う政治家や各分野の指導的立場になる人も多いわけで、そこの政治哲学講座はおのずから『良心』なり『思慮』なりを引き出す義務を負っているのだろう。

巧みな話術で聴衆(学生)を引き込むサンデル教授はまさにエンターテイナーだった。イエス・ノーを理由とともに答えさせる設問を出すタイミングがうまい。どんな答えを出そうと教授の掌の上で転がされていることには変わりはない。転がされているというたとえは不謹慎かも知れない。聴衆は催眠術にかけられ酔わされることを望んでいる。

ひとつ面白い答えがあった。それぞれ違った臓器を患う人が5人(4人だったか?)いて、臓器移植をしないと助からない。1人健康な人がいて、その人の臓器を取り出せば5人が助かるがどうする・・・というような設問だった。どんな理由があっても健康な1人を殺すべきではないとか、条件付き賛成などの話があった後で、ある学生が『患者の内の1人が死ぬのを待って、その死体から移植すれば残りの人間が助かる』と答えたのだ。想定外の答えに会場が沸いた後で、教授は『君の答えは私の設問を台無しにした』と笑顔で言ったのだった。

総じて、どう選択しようと苦い結果としかならない究極状態の選択肢。シミュレーションのロール・プレイング・ゲームなのだ。自分ならどう答えるかというスリルを味わいながら見続けたが、私はその度に《その手に乗りたいけれど、その手は食わないぞ!》という気になった。それと同時に、素直な答えではないけれど、答えを考えた。その点で、先の学生のアイデアは見ている方にしても《してやったり》の応えだった。

多少考えさせられることはあっても、もう自分の中に答えが確立しているのを感じた。これは自慢ではないつもり。いくら若いつもりでいても、もう歳なのだなという事も感じた。たとえば底意地悪く責められるように畳み掛けられたとしても、もうあまり揺らぐこともない。流暢に応えることはできないし、古今東西の思想や故事をひいて対峙することは更にできないし、弁論技術も演技力もないけれど、うつむく事もないと思った。居直りと取られてもいいし、やせ我慢の蛮勇ととられてもいいけれど。

とは思えど、サンデル教授は核兵器のことを語っただろうか。広島長崎のことを語っただろうか。宗教対立のことを語っただろうか。と気になってならない。また、再放送がないものか。見たいし確認したいと思う。ビデオに録ってみることをしないで行きあたりばったりなのだが、見逃した3分の2を見るにはどうしたらよいか。どこかで貸し出しをしているのかも知れない。新年早々自分に課す宿題になりそうだ。さぁこのあと検索してみよう。

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謹賀新年 金鶏 

2011年01月01日 16時52分52秒 | 
謹啓というのは手紙の冒頭に書くけれど、同じキンケイでも画像の金鶏は豪奢な装いと鋭い目付きで、へりくだるイメージは全くない。この金鶏は中国の高地に生息するキジの仲間だそうだ。金髪のような頭に古代エジプトの頭巾を想わせる飾り羽、それに赤に青に緑に黄色の羽毛、長い尾羽のしぶい模様とどこをとってもすごい。昨年神戸の花鳥園で撮った。韓流ドラマの『チャングムの誓い』で出てきたのを思い出す。明の使者をもてなすために、珍鳥の金鶏料理を出す予定が逃がしてしまい騒動になるのだった。

卵を食べるならまだしも、こんなデラックスな鳥は眺めて楽しむべきものだろう。花鳥園ではケージに入れるのではなく放し飼いにしていた。こんな鳥を飼って、時折眺める生活をしたいなどと、つい思ってしまった。そんな生活はやってこないだろう。ウチのペットは、ボウフラ退治に求めたヒメダカ以外は川からさらってきた野生の小魚にサワガニにザリガニにクサガメ。見た目に美しいものが欲しいという気はときどき起こる。しかし我慢人生こそ我が人生。mottainai信念は貫きたいとも想う。

同音異語ネタを無理やり文章にしてしまう苦し紛れの年明けブログになった。本年もよろしくお付合い下さい。    とんび

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