ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔読後のひとりごと〕【液冷戦闘機「飛燕」】渡辺 洋二 文春文庫

2006年08月12日 | 2006 読後のひとりごと
【液冷戦闘機「飛燕」】渡辺 洋二 文春文庫

  読後、日米戦闘機の空中戦での描写よりもその機体整備に当たった人々に思いがいく。 
技術人の能力がなかったのではない。
兵器としての生産性、信頼性、稼動率等の争いになった時、悲しいまでに質、量という点において日米は圧倒的な力の差があったということだ。
 整備力なくして戦力がありえるわけがないのに、その態勢がまったくとれていないまま軍部指導部は日米戦争に踏み出している。  
太平洋戦争に参加した唯一の液冷エンジン戦闘機「飛燕」。
 しかし南方前線の飛行戦隊整備兵にとっては、ドイツ製の液冷式エンジンを搭載している「飛燕」には高度な細工がされており、メンテナンスしづらいエンジンだったらしい。
 加えて燃料不足、材質の悪さなが重なり故障続きとなる。
歯車やシャフトにとって必須成分であるニッケルまで材料不足ということで抜いてしまう。
陸軍指導部の方針は整備能力の育成に時間をかけられず、また使用材を資源不足として制限している。
技術への無理解と軍人精神棒がとってかわっての貧しいパワーになっている。  
一方、米軍は豊富な資材を空輸し機械類を使って南方前線の飛行場を次々に構築していく。
これに対して、つるはし、もっこで、ローラーをかけ飛行場を作る日本の前近代性。
 この彼我の状況が痛ましい。
読後には、負けるべくして負けたという戦史の重みのみが残る。
 こうしてニューギニア戦線、フィリッピンを経て本土空爆が必至の状況となっていく。
 米軍がレイテ島に上陸、島は艦砲射撃で穴だらけとなる。
 整備に全力を傾けていた地上勤務者は置き去りにされ地上部隊とともに敵の砲弾や飢饉に見舞われ、その後バタバタと死んでゆく。
「総くずれの戦場で必ず起きる事態」と著者は見ている。

 戦艦も戦闘機も攻撃偏重主義で作られているから本土が空爆されることへの探知網や通信網の技術は、はもともと遅れてた。
このあたり日本人の科学観は1点豪華主義のもろさがあるのではないだろうか。
「大和」に見られる巨砲戦艦主義などはその典型かも知れない。
 1946年、フィリピンの山下奉文が収容所に向う途中、外人記者に「日本敗戦の根本的な理由は何か」と質問された時、脳裏に浮かんだ言葉が「サイエンス」であり、咄嗟に答えたという話をなにかで読んだがそれにも通じてくる。
これは技術力比較以前の問題なのだろうが。

 昭和19年7月7日、マリアナ諸島のサイパン陥落。
ジッタンが生まれる1か月前だ。
これが本土爆撃への伏線となる。
 この時点で米日の戦闘機性能の違いは歴然としてくる。
機体が図太くても、大きな馬力があれば、速度では優位に立つことができるのということをB-29は証明する。
 高度1万メートル飛行をまったく苦にしないB-29に対し日本の戦闘機は、その高さに這い上がることそのものが性能の限界に近いことだった。
 「熟練操縦者が快調な機で50分前後かけてようやく1万メートルまで到達しても、ただ浮いているだけが精いっぱいで、急な機動を行えばたちまち1000メートル以上もすべり落ちてしまう」と著者は指摘している。
 爆撃の偵察機さへも容易に捕捉しえない能力。
首都など主要都市への前哨戦ともいえる北九州の爆撃下が当時の状況だった。  
こうした中、飛燕はこの空の巨鯨と紺碧の大空で闘う。
しかも性能差は「体当たり」という縮めた特攻手段で対応した。
量産の関係で整備陣は飛燕の液冷エンジンを空冷式に取り替えることに成功するが、こうした換装設計にあたった彼らは芋とマメの粗食に耐えながら、頭脳を絞って最大の技術力を注いでいたのだ。

 著者は航空史研究をライフワークにしている人だそうだが、それにしても、これだけの戦史の隙間をよく調べあげたものだ。
 機体設計は川崎航空機であり、エンジンはドイツ製の銀翼「飛燕」。
この戦闘機「飛燕」開発から米B29爆撃機への空中特攻戦までを主軸に、膨大な資料と証言を織り込んだ一大戦史となった。
資料写真の数もlきわめて多い。

 飛燕の現物は、現在、日本にたった1機存在しているそうだ。
 特別攻撃隊の基地となった鹿児島・知覧の地にあるという。
 二度目の九州旅行がもし実現したときは知覧にでかけ、この液冷戦闘機「飛燕」を見てみたい。
自分自身が生まれる直前の日本の状況とそれからのことを、また考えてみたい。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿