ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

【鉄の首枷】小西 行長伝 遠藤周作 中公文庫 

2005年10月02日 | 2005 読後のひとりごと
 小西行長の秀吉への面従腹背がすごい。朝鮮侵略戦争の前線で虚偽の報告で終戦工作を画策するあれこれがとても興味深い。
蘇峰の近世日本国民史の「文禄の役」と比肩される歴史ドキュメントの重みがあった。
 行長は清正と確執があり、一方、三成ら秀吉ブレーンとの内通を通じて秀吉死後の自分の座るべき場所を考える。
対馬の宗義智に娘を嫁がせ、太閤の死をひそかに望みながら朝鮮侵攻での終戦工作と明貿易で利潤あげることを狙う。
行長の野望と屈折した信仰の様子が作中に上手く表現されている。
彼の生涯はまず商人であり、次にクリスチャンであった。
 行長と親交厚い高山右近は基督教を守り続けたキリシタン大名であり彼の信仰生活に行長は共鳴する。
キリシタン禁圧の中、行長の領地の小豆島に右近、オルガンティーノ神父を匿う。
だが行長の生き方は右近のピュアで苛烈な信仰の生き方をとらず、秀吉への面従腹背を装って生き延びる屈折した方の道をとる。
もともと行長が育った堺の町は秀吉の手に落ちるまで、会合衆が海によって富を得て支配した町であった。
フロイスは行長の父親を「隆佐は当地方におけるもっとも優良な基督教徒」と評している。
まず商人であり軍人でクリスチャンでもあった父親の存在の影響が大きい。
この父親はだれよりも早く秀吉の登場を予見しその後の出世の糸口をつけた商人でもある。
 朝鮮侵攻は文禄を経て慶長の役になると、行長は、あからさまな朝鮮側への内通を急ぎ秀吉を欺瞞する。
 前後7年の朝鮮侵攻は63歳の秀吉が死ぬ時に止む。
行長の「鉄の首枷」を外すときがやってくるが関が原の戦いで彼は三成側に組し処刑される。

 作者、渾身の力作といえようが、時々歴史を評する際に使われる文中の「われわれ」という表現がひどく気になった。
第一人称でなくなぜ「われわれ」なのか。
「われわれ」とは何を指すのか、遠藤の身近に研究グループの存在があったのだろうか。
作家とは常に孤独なもの書きのはず。
書き癖ではすませられない不思議な表現方法として強く疑問に残った。

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