ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔08 七五の読後〕 【昭和前期の青春】山田風太郎 筑摩書房 

2008年08月11日 | 2008 読後の独語
【昭和前期の青春】山田風太郎 筑摩書房 
             
            (●は私の記憶メモ用 )


□私はこうして生まれた□

●皇軍の号外鈴知る家出の朝
昭和17年20歳の山田風太郎は片道切符を握って兵庫但島をあとに東京へ家出。
 知人とて一人もいない都だ。
 着いた東京駅の待合室を追い出され、丸ビルの敷石の上で寝ていると「皇軍ラングーン占領の鈴の音が走っていった」とある。
 風太郎の父は5歳で死、母は中学2年の時他界。
 その後、東京の軍需工場につとめ
 「安アパートの三畳に住み、神田の古本屋から雑書を買い込んで、その余りで飢えをしのぎ、二十歳にして体重四十二キロ」になった。
「天涯にただ一人の自由を愉しみ楽天的であった。二十歳の無知の力である」 とし「そのころを思い出して戦慄したのはずっとあとになってからのことだ」 と回顧。
 若いときの楽天的暴走は誰にもある。
 私もときどき思い起こして戦慄する場面がいくつかある。 もとよりその種類と内容には違いがありすぎるが・・・。

●眼のまえに死があったから本を読む
 「戦中派不戦日記」で感じた風太郎の多読ぶりにたじろぐ。
 「眼前に死があったのだ。この戦争で生き残れるわけがないのだから、いまのうちにできるだけ本を読んでおこう」
と考えたとある。

●蘭学事始は日本の「黄金虫」
 杉田玄白たちは荒野の預言者。
ポーの黄金虫は暗号解読の小説だが解読しているように見せかけているだけ。
玄白たちはその72年前にほんとうの解読をした。
 「始めてターフェルアナトミアの書に打ち向かい、艪舵なき船の大洋に乗り出せしが如く茫洋として寄る可きなく唯あきれにあきれて居たり」の苦労を風太郎は思いやる。
 風太郎は昭和20年1月3日の空襲下、灯火管制の下で菊池寛の小説「蘭学事始」を読み感動を受けその後に原本に接した。

●暗愁は風太郎の名に溶け込んで
 「風」とは不良仲間同士の中で私を意味する暗号であった」そうだ。
 中学生は映画禁制とするその無意味さと不当性を「映画朝日」に投稿した。
学校当局の眼に触れるとあぶないと考えつけた成人にみせかけた名前が山田風太郎。
昭和15年、18歳の時とある。
 この一文を光文社の編集者が国会図書館の中からみつけたそうだ。 手引きをして映画を見せてくれた映画館の息子はやがて特攻隊員として死ぬ。

 「風太郎」という名前の暗愁は「遼太郎」という名前の華やぎとは違う。
 だけど双方がネガとポジのような陽光と陰影の感触をもって日本の近代を紐解いてくれた。

□ 太平洋戦争 □

●黒船を学べ追いつけ追い越せと

 「黒船以来約100年の国策の総勘定があの大敗戦であったのである」
 としている。
黒船到来に日本人は恐怖と讃嘆の眼を見ひらいた。
かくて日本に「富国強兵」の憑きものがとりついたとも。

●維新から77年を貫く棒の如きもの
明治元年から昭和20年の敗戦までの77年を風太郎は一つの時代として捉えている。
 富国強兵をめざし軍国日本の終着点としての昭和20年8月15日までの距離。
 「百年近い歴史のひとつの帰着であった武力による侵略という欧米列強の物真似だがあそこまでが1セットだ」

去年今年貫く棒の如きもの/高浜虚子(昭和25年)の歌をふと思い出した。

●夏の日にある壮大なゼロの記念日
 風太郎は昭和20年8月15日をゼロの記念日でとし「あらゆることの物差しの原点にこの日をおいている」そうだ。
「 それにしても何という凄惨なゼロの地上であったろう。そして、何という灼熱の光に満ちた蒼空であったろう」

壮大なゼロの時間、私は一歳。
そしてゼロからいま64年目の灼熱の夏の日を迎えた。
ゼロからはじまった日本という風土の上で、何が変わってなにが変わらなかったのだろうか。

●口あけて街頭テレビを見物し
戦争は終わった。
 「夜になって電灯がつけられるというだけで天国がきたように感じられた」と著者。
 「私たちは夜明けの混沌の中にあらゆるものがかたち作られてゆく日本の新「古事記」時代をまざまざと見ていたものである」
 そのひとつが街頭テレビだった。 大卒初任給1万円の時、白黒テレビは20数万円。
真っ黒にかたまって街頭テレビを見ている群れのなかに時には風太郎先生もいたか。



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