ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔07 読後の独語〕【あの夏の日の司馬遼太郎】早乙女 務 講談社出版サービスセンター 

2007年03月02日 | 2007 読後の独語
あの夏の日の司馬遼太郎】早乙女 務 
                    講談社出版サービスセンター
 

 昭和19年は私の生まれた年だ。
 この年、満州牡丹江に戦車第一連隊があった。
21歳の色白の男が小隊長として配属された。小隊長とは福田定一こと司馬遼太郎である。
 昭和20年4月、米軍が沖縄に上陸。
5月26日、新潟港に移された戦車とともに司馬は栃木県佐野市に入る。
 すでに4月7日に戦艦大和は撃沈され、米軍の関東地方上陸を阻止すべく本土決戦に備えるためだ。
 司馬と戦車の余話は、なにかで聞いたことがあった。
 だが、22歳少尉の司馬が夏の日の玉音放送をここで聞き、終戦を迎えていたことは知らなかった。
この佐野の地を司馬は 「以前の美しい家並が心の中に力づよい映像になって、つねに陽がふりそそいでいる」としていた。
 小生は厄落しなどで佐野大師には数度訪れたが、その町に特別の印象はない。
いくつかの古民家は目にとまったが、大師近くには呼び込みの駐車場などが多く雑然とし、住宅街も広がってその郊外には巨大な佐野プレミアムアウトレットも誕生している。
 かって司馬がこの町筋を「碁盤の目状の町並み、その露地の風景」として生涯親しみを感じていたとしているのは意外だった。
戦前の佐野の町は、今やその面影もとどめていないということか。
ただ佐野で道順を聞いたとき、土地の人が「この道を上がる」「この道を下がる」などと独特の言い回しで説明をしてくれたのは碁盤割の町と関係があったのかも知れない。
 司馬は四輌の中戦車の長として佐野植野国民学校を兵舎とした。
この小学校の裁縫室が将校室だったという。
日本の戦車の装甲鉄板の薄さはソ連製と比べるとひどいものだったらしい。
 「私はいまでもときに、暗い戦車の中でうずくまっている自分の姿を夢に見る」(歴史と視点)
当時、華やいだ青春があるわけがない。
 太田の中島飛行場は日々爆撃に晒されていたし、死の影の体感は誰もの身近にあった。
 「なんのために、誰のために死ねるのか」の疑問を持ち「歎異抄」を肌身離さぬ一冊の書としていた司馬の日常のなか、大本営からやってきた少佐参謀の一言「轢っ殺して行け」が強烈に響く。 
 敵上陸部隊を戦車隊が迎撃する戦場までの交通混雑をどうするかという質問への軍人としての答えであったそうだ。
 子供や老人たちでごったがえす避難民は味方だ。
それを戦車で「轢っ殺し」ていく本土決戦とはなになのか。
最もこの最悪の状況が生まれることなく、その夏の日は訪れた。

 「玉音放送を聴き、何度か呼吸したあと、なぜこんな愚かな指導者ばかりいる国に生まれたのか、と思いました。---中略--- (むかしは、ちがったのではないか) と思い直しました。むかしというのは、明治なのか、それ以前なのかはべつとして。 そのころは無知ですから、むかしの日本などよくわからない。四十前後から、二十二歳の 佐野にいた私自身にむかって手紙を書きはじめました。」 (インタビュー『ノーサイド』平成5年1月号 文芸春秋 )
 司馬は学校裁縫室の畳の上で、夏の日の玉音放送を聞いた。
 「自分への手紙」の推敲に半生を費やした。
 やがて、日本の歴史文学への視点に唯物史観でもなく、皇国史観でもなく、独特な司馬史観によって数々の名作が生まれた。
「竜馬がゆく」「国盗り物語」の明晰な文体がいま懐かしい。
 終戦を迎えた佐野との関わり合いを
 「『関東』というものを『街道をゆく』でやりたい。」
「『それは街道をゆく』を終えましょうというときで、自分が設けている定年と決めたときです。中仙道を背骨にした関八州を足利を 中心にして書こうと思っている。戦車第一連隊は佐野にもいたので本土決戦についてもふれます」(1991・2 山崎敏夫氏宛て手紙)
 としていたそうだ。
 
 私は新春に、旧友夫妻と佐野と足利のばんな寺や足利学校へ行ってみたが、佐野や足利がかって織物の名産地であったこと、佐野の「縮」は戦前に名をなせていたことなどをこの読後に知った。
 筆者の父上は土地の田沼第二国民学校の教頭だったとのこと。
 ご尊父の日記に「福田少尉と雑談す」の数行があったことが、「あの夏の日の司馬遼太郎」発掘の動機になったようだ。
 中隊がいた学校日誌や福田少尉を知っていた町の人々の追憶を重ね、セビア色の当時の写真を多く挿入し、若き日の司馬遼太郎の原点を論考した。
 筆者は昭和8年生まれ、宇都宮大学を卒業後佐野市内の小中校で教鞭をとられ元佐野市文化財保護審議委員を務めた人。
                         (2007年 2月23日 記)


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