ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔10 七五の読後〕 楽翁公傅 澁澤栄一 岩波書店

2010年11月03日 | 〔10 七五の読後〕
【楽翁公傅】 澁澤栄一 岩波書店

竜馬以後の明治維新功労者の中で注目している一人は渋沢榮一だ。 東の渋沢、西の五代といわれたこの稀代の実業家が心底から傾倒した人に松平定信がいる。
定信は寛政の改革を仕上げた吉宗の孫、楽翁。

 「私は自分の専管する東京市養育院が公の遺澤によって成ったのを感佩して明治四十三年以来毎年公の忌辰たる五月十三日に養育院に於て記念会を催して、祭典を執行し、且つ学者を聘して講演會を開きなどして来たが成徳ある楽翁公でありながら、未だ詳しい傅記が世に出て居ないので私は深くこれを遺憾に思ひ正確なる傅記を編纂したい」

として渋沢は楽翁公傅を著した。
今回、これを県立図書館から取り寄せて読んでみた。
天明の大飢饉を目のあたりにして定信が取り組んだ藩政の一端を文中から拾っておく。
渋沢の文には当然ながら旧字が多い。
この本は埼玉県立図書館には2冊しかないので、できるだけ旧字のままメモしておくことも少しは意味があると思う。  


■■ 天明の飢饉

天明の大飢饉にあって、一人の餓死者をださなかったとされる白河藩。 その定信藩政のことがこの公傅では細かく調べ書かれている。
渋沢は天明の飢饉を概括して描いてる。

 「天明三年、未曾有の大飢饉は襲来せり。
この年天災地妖荐りに臻り、春には雨少なくして農民は植付に苦しみ、夏には霖雨月を越えて止まず、六月に至りて諸國に大水あり、利根川沿岸の被害は殊に甚だしかりき。」

「加之四月より六月に瓦りて気候寒冷にして、屡ヾ綿入の衣類を用ふることすらあり。
七月には浅間山の大爆發ありて降灰甚だしく、廣袤十餘里の間、草木木槁し、人畜の死傷夥しく、八月には奥羽地方に霜害ありて、豆・蕎麦などは全く枯死するに至れり」

「是に於て諸國飢饉に襲はれ、殊に奥州一帯は、秋に至るも一毛の禾穀なく、餓殍野に満つるの惨状を呈せり」

少しの穀物もなくて飢餓死した人々が野に溢れているという惨状。
まさに鬼哭啾啾の有様だ。

 「昨日は繁華なりし市街も、今日は空家多く、その中には白骨横たはり、路傍には死屍累々として、その數を知らざりしといふ。」

こうした状況下での白河藩はどうだったか。
ここから定信の登場となる。

 「この中に於て、白河藩は如何がなりしかといふに、嘗て公が憂慮せられし如く、闔藩遊惰に流れ、聊かの儲蓄もなくして、率然としてこの大飢饉に面せるが故に、策の施すべきなく、上下ただ手を拱きて餓死を待つあるのみ。」
 「白河藩も亦その悪弊に染みて、上下苟安を事とし凶年飢饉に處する蓄もなく 、唯その日その日を糊塗するのみにして、正に是れ所謂三年に蓄なくして國その國にあらざるものなりき、」
と嘆かわしい状況下で定信の新藩主が誕生する。


中央政治の江戸は田沼時代であり定信がこれを批判的に観ていたことは歴史的にもよく知られている。
その遊惰な悪弊は遠く白河藩の風土にも染まっていたらしい。



 藩主はといえば

「定邦朝臣は折柄在國せられたりと雖も宿痾愈重く、衰老共に至り、この危機に處すべき手段を講ぜらるべくもあらず」

と死線をさまよっている状態。


「公は今や飢餓に迫れる十萬の窮民を救済すべき大任を負ひて白河藩主となりたるなり。
この時藩より齎らせれたる報道によれば、財政紊乱の結果、倉庫は全く虚しくして、救荒の充つべき一斗の米、一兩の金の蓄積すらなく、また領内にも殆ど一粒の米なしとの事にて、眞に是れ艱難非常の時節たり」

非常時に対処する定信の年齢は弱冠二十六歳。
仕事や事業をやりとげるのは気概と意力であり年齢ではない。
馬齢を重ねるだけの経験もありがちだ。
青年藩主の改革がはじまる。
定信は家臣を悉く書院に集めて、食碌を減じ各自の節約を命じた。
その時のことば。

 「今日の場合に減禄を命ずるは、情に於て固より忍びざる所なれども闔藩上下の爲めに、之を敢てせざるを得ず、されば幸ひにして将来多少の剰餘の見ることありとするも、予は断じて余一人の嗜慾の爲めに之を費消せざるべきことを誓言す。
予にしてこの誓言に違背することあらば、忌憚なく抗言せよ」

自ら垂範を示し、自らその先頭に立つという若い決意だ。
入城後まもなく定信は

 「公は襖・障子に用ひたる精良なる紙を剥ぎ去り、粗末なる紙を以て之に貼り易へしめ、畳も粗末にして縁なき流球表も易へられたり、庭園の珍石・奇木・名草の如きは、望む者あれば之を與へ、築山を壊ち、水を湛へて水田となし、こゝに苗を植ゑて、農民辛苦の有様を藩士に示し、且、その生育の状によりて年の豊凶を察する料とせられぬ」

この項、もっとも感心した。
十一万石の藩主の庭園といえば相当なものだったと思う。
私も今までだいぶ大名屋敷庭園は見てきた。
水戸の偕楽園、都内の六義園や清澄庭園もそれだ。
その庭園を潰して田地に替え稲の生育状況をみながら飢饉迫る農政の梶をとった藩主は古来、聞いたことがない。
この辺りが非凡、果断。
卓越した政治性を感じる。

諸役人を招集し
「若し家中に貧困飢餓に迫る者あらば、直ちに申出でよ。
如何なる重實・珍器なりとも、家臣の生命には易へ難き故に、之を賣却して賑恤すべし」

美談巷説となる話かもしれないが、非正規社員が溢れている日本の秋に、身にしみることばだ。
株主様が「易へ難き」第一の者であり、社員は単なるコストとしてしか見ていない企業が昨今あまりにも多くなっている。

村役人を城中に呼び
 「種子の選擇、浸水の方法、苗代の準備、用水路の修復、肥料の手當等について詳細に教示」
また
 「気候の良否を豫知し得ざる故に、ともかくも早稲を植うるの有利なること、畑にも成るべく穀類を多く栽培すべきこと」
 「大根は勿論、その他の蔬菜類、または野生の植物にても、補食の料麥の生育の良好なるは、全く農民力耕の結果なりと褒詞して之を勵ませれたり」

一方代官に命じて
 「苗の生育の状態及びその過不足を視察して、有無を融通せしめ、苗に不足を告ぐる際には、速やかに畑物を栽培せしめ、特に稗苗の培養に注意せしめられき、また曩に領民に貸下げたる金穀は、その半額を五箇年賦として上納せしめ、他の半額を免除して農貧に充てしめ、以て勸農の實を占めさせたり」
と農政を差配。
飢饉がある。数年続くという見込みをする。
普天間、尖閣、北方領などの今と違って危機管理への対応が素早い。



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