ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔07 読後の独語〕 【立松和平日本を歩く 2】 関東を歩く 立松和平 著 黒古一夫 編

2007年12月19日 | 2007 読後の独語
【立松和平日本を歩く 2】関東を歩く 立松和平 著  黒古一夫 編
                                   勉誠出版

今住んでる杉戸町の東側に今日も筑波山が浮かんでいる。
土浦の高校にいた頃は春夏秋など、月に1回は遊んだ山だ。
 ここに明治維新4年前、水戸天狗党が挙兵した。
やがて天狗党の筑波から敦賀までの大長征がはじまった。
徳川慶喜を頼りに行軍した天狗党はやがて彼らを追討する総督府がその慶喜自身であることを知って愕然となる。
 慶喜は20余りの藩で3万の追討軍を仕立て天狗党を召し取り3つの寺に823名を収容した。
 立松本によると350名がここで斬首されたとしてあるが、「天狗争乱」(吉村 昭)では「352人の斬首 129人が遠島 15歳以下10人を引き取った住職も(後述メモ)」の内容となっている。
逃げの将軍・徳川慶喜の保身、冷酷さに肌寒さを覚えて読んだ記憶がある。
「関東を歩く」の茨城「天狗党への旅」は自動車旅行でその行路を同じように追いかけたものだが、この章が面白かった。
 ちなみにこの「関東を歩く」の各県扱い分量を比較してみると  栃木 152頁 茨城 50 群馬22 埼玉22 千葉24 山梨24 となっている。
茨城の50頁は栃木を覗く各県の2倍強だが、これは先の「天狗党への旅」の章がほかのエッセー量より上回っているからだ。
 しかし、栃木の152頁はすごい。他県の5倍強の量だ。
あちこちの書誌に書いたエッセーを集めてのことだろうが、ちと、ふるさと好みが強すぎないか。
 標題の「関東を歩く」からすると、なんで「栃木」が図抜けた量なのか最初は理解できなかった。
 ただ栃木編で「奥日光の湯は白濁していて熱い」との著者の感想があったが、ここはその通り。
 今夏、地元の歩く会で戦場ヶ原の帰路、湯元に立ち寄って温泉に浸かったが、確かに白濁した熱くていいお湯だった。
それにしても栃木へのこの分量、著者の故郷への強い思い入れがお湯のように溢れすぎてはいまいか。

 もっとも私は著者の本を今回、はじめて読む。.
 「遠雷」「毒――風聞・田中正造』で著者が文学賞をとっていることも知らなかった。
この著者の顔と名前を覚えているのは、よくテレビで独特の栃木弁で自然と環境の大切さを語っていた作家であることがその一。
その二は、連合赤軍の主犯だった坂口弘の著書の盗作問題でマスコミの話題になったこと。
 すでに10年以上も前のはずと思うが、画面で見かけた顔がそれ以後ぷっつりテレビに出なくなって逆に印象に残っている。

 はじめての読者は作家の苦労も料簡も知らない。
 わがまま自儘の一読者からのこの本の読後の独語は、全編、これ、できのいい中学生の作文を読んでるような感触だった。
 文に華やぎがない。
 エッセーにユーモアがない。
対象に迫る冴えも迫力も感じられない。
 だから面白くない。
 「日本を歩く」としてその「関東編」に期待したものは司馬遼太郎「街道をゆく」的なもの、「自然」や「人々の暮らし」をどう捉えたかの史眼、視点での作家の個性の違いがどう浮き出ているかだった。
 残念ながら、それは大きく外れた。
                    (2007年 12月17日 記)


■■ ジッタン・メモ ■■

【天狗争乱】 吉村 昭 朝日新聞社 (1998年年 2月11日 読了)

□めも□
1855年 安政の大地震
 大平山 標高343メートル
 新論は会沢の著述 藤田東湖の父幽谷の門弟
会沢の主張は、鎮派に共感 尊皇攘夷派は激派と鎮派に分裂
 尊皇攘夷派は下級武士に多く、門閥派と対立。 門閥派は斉昭の死後、藩主慶篤の元で勢力を挽回。
薩摩、会津藩の公武合体派が長州藩を一掃 過激な攘夷派が水戸藩に結集 水戸町奉行の田丸が天狗党大将に 藤田小四郎が鳥取、岡山藩との盟約で幕府を尊皇攘夷に踏み切らせると説得
    斉昭9男が岡山藩主 斉昭5男が鳥取藩主 
 天狗党 日光占拠を断念 仮拠点を大平山に
天狗勢の書状に一橋慶喜も賛同
天狗党 斉昭の位牌を作り神霊に 攘夷の先鋒に
天狗党に長州藩の支援 岡山、鳥取両藩主も支持 
    幕府内でも挙兵目的に理解 公武合体の政変で攘夷派が駆逐将軍家茂が横浜港閉鎖実行より天狗税鎮圧を優先
天狗の筑波挙兵 幕府が水戸藩の家老に対し天狗の復帰命令
 水戸藩 門閥派の台頭 難を逃れた武田 
門閥派が藩主に天狗追討を主張
田中隊、金策で動く 
   真鍋町に放火、147棟焼け落ちる 
土浦は大混乱    
土浦藩の討議 結論は拒否 幕府の追討もあり、逆賊として認定
筑波の分裂 門閥派の一掃説く藤田 党派争いとして江戸へ向かう他藩の攘夷派
 天狗の筑波挙兵で池田屋事件が勃発 朝廷が長州征伐決定 
天狗の目的、宙に浮く 田中隊 二本松軍と応戦 西金から八溝山(1022メートル)に籠城
水戸藩の四つ巴様相 頼徳鎮派が天狗勢を嫌悪 水戸藩内部も門閥派と鎮派が対立 那珂湊戦争から大子へ
 武田の「一橋慶喜の元へ参ろう」に衆議一決
 天狗,大子から黒羽村へ 
一行千人余 騎馬武者200 小荷駄50頭 30人の女 那須 → 大田原 → 鹿沼 → 足利 → 太田 → 下仁田 → 高崎藩との争闘
 諏訪藩 和田峠で天狗勢を迎え撃ち作戦 
高島、松本藩勢が総崩れ
 天狗、下諏訪へ 伊那の国学風土、天狗を厚遇
 飯田藩 乱を避け300両の献納を約束 
 入京阻止に動く大垣、彦根藩 
幕府、全国81の諸藩に天狗追討令
京都の慶喜、朝廷へ天狗討伐の願書提出 
降伏すればよしなにの計らいの構想 
 越前の難所から京都入りを目指す 
中山道に布陣  大野・木の本村 雪中行軍に松明で迎える村人
 天狗党幹部 61歳の武田 60歳の田丸 72歳の山国
敦賀で加賀藩ふくめた大軍勢と対峙 
慶喜失脚を計る薩摩藩士   
  慶喜は討伐の意思なく寛大な処置と流言 
幕府の怒り恐れる慶喜 愕然 追討の総督府が慶喜 
「甚心痛」書状武田らの悲しみ 天狗の始末書
 慶喜への心願書 3つの寺に天狗収容 823名
 慶喜の保身、冷酷さ 
加賀藩の天狗勢への信義対応   天狗の身柄を田沼軍に売った慶喜の軽薄さ 
加賀藩の厚情に感謝の武田ら  敦賀港の鰊倉庫に収容 
  松板で足かせ 出入り口は手を入れるだけの穴  352人の斬首
129人が遠島 15歳以下10人を引き取った住職も

□めも□ 
大宅壮一全集5 炎は流れる」

 水戸藩  
水戸は光圀の大義名分論、すなわちイデオロギーから出たもので、それだけにいざとなるともろい面がある。
斉昭の時代になると、井伊直弼を倒すテロリストまで出た。
しかし尊皇の名において結集した新興勢力が強くなり、決定的段階に入ってくれば、水戸藩の革新的なボルテージはガタ落ちになった。
宗家あっての水戸家という考え方が強く出てきて、藩主や一部側近の勝手な行動を許さないのだ。
重臣達にとっては、藩主を殺しても、宗家に忠勤をぬきんでるということになる。  斉昭後、藩内で結城派と藤田党湖系統の天狗党が対立、天狗党が敗れて維新のバスに乗り遅れてしまった。
 1997年5月16日  <抜書き>


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