ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔09 七五の読後〕【大江戸の正体】 鈴木 理生 三省堂

2009年12月05日 | 〔09 七五の読後〕
【大江戸の正体】 鈴木 理生 三省堂

作品中の一章に「三田村鳶魚 十四変」があり、江戸城の発展ぶりが解説されていた。
鳶魚のまとめた江戸市街地の歴史とその範囲が、この読後になんとなく目に浮かんできた。
合計一四回にわたって、江戸城は周囲とともに形を変えた。
入府のときには城も本丸だけで一望の荒野だった一帯を変えようとする視点持っていた政治の決意は、鳩山さんも見習ったほうが良い気がする。
これは収穫だった。
この辺りをメモ録としたい。

 

■■江戸の拡大 三田村鳶魚十四変
■■ 江戸の城下町変遷

● 秀吉の命を受けての江戸赴任
家康は、秀吉による小田原の役後の天正18年(1590年)に江戸の地を踏んで居城を為した。
慶長8年(1603)、江戸幕府が開かれ慶応3年(1868)まで264年間はともかく戦もまるでなかった時代だった。

● 開府から日比谷入江を埋め立てて
その対象地域。
浜松町→  芝大門→ 新橋→ 西新橋→ 内幸町→ 日比谷公園→ 皇居外苑→ 大手町西部→ 一橋入江が埋め立てられた。
入江が深くて入り込んだ湿地の地形を変えた。
この→を←で読み解いてもいいわけだが 江戸のウォーターフロント (Waterfront)であったことは紛れもない。  
一方、第二次の天下普請として江戸城の本格的な拡張改築が行われ、全国諸藩の大名がその役割を担った。
いまの東御苑、皇居、外苑、吹上御苑、北の丸公園あたりがすべて江戸城となって千代田城となり今日まで続いている。  
私の勤めた会社が大手町にあったから、この対象地域を含め時に昼の憩いの場であったり、夜に通った飲み屋でもあったりした。
ああ、あの辺りだという土地勘も未だに残っている。
閑話休題。
もはや徳川家に弓ひくものはいない。
諸大名にとっては大変な負担を強いられたわけだが、自らの傭兵を減らしその要因を普請工事に振り向ける方策の一面にもなったようだ。

● 江戸の町 振袖のとき500町
明暦3年(1657)は振袖火事があった年。このときは500余町。
正徳3年(1713)に933町。八百八町には届いていない。余計なことだが、この翌年の4年に大奥御年寄の絵島と役者の生島新五郎との密通が暴露され耳目を集めた。
天保13年(1842)1679町
面積を身分割合で見てみると  武家屋敷6分(60%) 町屋2分 寺院1・5分 神社0.5分 と当初はなっている。

● 駿河から移住したので駿河台
元和2年(1616) 大御所家康が逝去。
この「死因」は鯛の天ぷら説が有力だが、胃がん説のほうが信憑性が高そうだ。
家康辞世の句として  
★ 嬉やと再び覚めて一眠り 浮世の夢は暁の空  
★ 先にゆき 跡に残るも同じ事 つれて行ぬを別とぞ思ふ
                          『東照宮御実記』から
秀吉の辞世の句は、「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」だった。
秀吉は「浪速のことは」と言い、家康は一世は「浮世の夢」と評したのは興味が湧く。
まあ逝去前年に武家諸法度、禁中並公家諸法度が制定され徳川体制が万全となったことで大狸将軍にも気の弛みがでたのかも知れない。
駿河台は高台だからその一部を削って、神田川も作られている。
いまは有名な予備校もある。

● 諸大名 支えた屋敷は上中下
諸大名の妻子は参勤交代制度江戸に住まねばならない。
上屋敷は大名の外交の場でもあった。
中屋敷は殿の世継ぎ、先代の隠居、生母などの”人質”が住む場。
 下屋敷は倉庫などの蔵もあった。
江戸は火事が名物だったから避難所としての役割もある。広大な敷地があるから野菜などの栽培も行われ、後期には広大な別荘として使われいまに残る

 ● 明暦の大火を経ての大復興
明暦3年(1657)から万治2年(1659) までが復興時期であり江戸地区が埋め立てなどを含み再開発された。
大江戸の範囲が確定された。
この大火の年に吉原が浅草裏に移住、昼夜営業が許可され大発展。

● 6日間 燃えて、てんわやんわの日
天和2年(1682)、12月28日から1月4日という年末、正月を挟んでの大火があった。
この江戸復興には16年間かかった。
この時期、武家地を細分化して町屋が増えた。
寺社も増上寺、寛永寺、東海寺などの拡大には大番振る舞いとなった。
こうした寺社の門前地は遊興歓楽の町となり、岡場所も増えた。
ともかく江戸の町は大火のたびに変遷、それにつれ、武家屋敷の傍に町屋も発展した事は押さえておかなければならないようだ。

■■年中行事

● 正月は節分の日と重なりて

旧暦と新暦には1か月のずれがある。だから、江戸の正月元旦は現在の節分の時期にあたる。

● 寺小屋は御成りと被仰付繰り返し
子供たちに習わせる場合、どこでも「御成り」と「被仰付」の文字と意味は徹底したようだ。 「被」は「れ」(れ) られ(らる)で返って読む。「被仰付」は仰せ付けられと読むが当時の子供はスラスラと読めた。 まあ、慣習のようなものでもあったろう。

● 我が殿も寺参りには御供をし
将軍参詣には「御成」として江戸中に交通規制が敷かれ、諸国の大名は一行に随伴しなければならなかった。


● 供侍、皇居広場で殿を待ち
大名家臣は雨でも風でも野天でひたすら殿のお帰りを待つ。
これ、季節天候には変わりはない。
この一刻をむだにせず千代田城前の広場で他家家臣との交流、情報交換などもあったようだ。

●天下祭り 神田明神、山王祭
家康は神田明神さまを江戸の総鎮守としていた。
天下祭りとは、将軍さまが神田明神と産土の神、山王日枝神社の祭りに上覧したことによる名。

●天下祭り その拝礼は吹上で
各町の山車は祭礼コースの違いはあっても江戸城へ繰り込む。
山車や神輿が、笛や太鼓の囃子にあわせて「ワッショイ ワッショイイ」と練り歩き、江戸城へ繰り込むのは壮観であったろう。

● 将軍は神輿を入れて横着し
神田祭りの場合、江戸城に入るには田安御門からで吹上へ向う。 城内に神輿を入れてそれを大切に遇したとされるが、将軍様の横着ともいえなくもない。
祭りのすべては大伝馬、小伝馬、南伝馬などの氏子町の負担となっていた。

■■ ジッタン・メモ

陽春、職場一同で、仕事をはやくすませ桜を見つつ東御苑に向った。
途中、弁当も買った。
食後、北の丸まで足をのばしたことがあった。
そのため皆で少し残業はしたが、時にはそれが息抜きにもなった。

江戸城は、だからやはり気になるところだ。





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