ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔11 七五の読後〕 【秀吉はいつ知ったか】山田風太郎 筑摩書房

2011年10月20日 | 〔11 七五の読後〕
【秀吉はいつ知ったか】山田風太郎 筑摩書房

● 聖跡の丘で折々散歩をし
晴れた冬の夕暮れに、妖麗凄絶な富士を見上げながら散歩している山田風太郎。
風太郎は、聖蹟桜ヶ丘に長く住み、「退屈散歩」と称しながらも「美しい町を」の冒頭にした名エッセイを残した。
 散歩中、プロポーションのいい女性の後姿を見て、前にまわって見て彼女の連れていた子犬につまづき、紐もあって、くんずほぐれずとなって転んだなども場面もあったが・・・。
読み手には心地よい仕上がりとなったエッセイ集だ。

20年前に私は社の野鳥の会メンバーとこの聖蹟桜ヶ丘を訪ねたことがある。
近くを流れていた川にミコアイサというパンダの顔に似た水鳥がいたことを教えられた。

● 水戸っポは維新の御堂につながらず

「天狗党始末」の章ではさらっと歴史をおさらいをしながら、次のように結んでいる。

「寒風吹きすさぶ曠原の地平線を行軍する天狗党のシルエットは、彼らを横行するに任せた幕府の衰弱を示す象徴として、いまも歴史に名を残す。
実際に彼らの攘夷運動は幕府を揺るがし、その倒潰の呼び水となったのである。
 が、天狗党は別に倒幕を志したわけではなく、彼らにとっても意外な運命に追い込まれていっただけなのである。
しかも、この悲壮な叙事詩前後の惨劇は、水戸の敵味方トコトンまでの相討ちで人士は根絶やしになるという結果をもたらし、彼らが原動力となって訪れた維新に、廟堂に連なる水戸人は一人もいないという事態を招くに至った」

10年前に「魔群の通過」(山田 風太郎 廣済堂文庫)を読んだことがある。(注)
【天狗争乱】 吉村 昭 朝日新聞社(1998年2月)もその頃に読んだ。
二冊ともいまだに記憶に残っている本となった。

● 元首相 ミゾユウのこと笑えない
中曽根さん、オイルショックでのトイレットペーパー買いだめ狂乱を「一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝う」と評した。公明党の某議員が「主婦を犬に例えるとは何事かッ」と問題にした。
そこで風太郎
「ことわざ、格言には人間を動物に例えたものは無数にあり、べつに人間を侮辱したわけでないことは、国語ないし漢語のならいである。英語でも同じことだろう」と揚げ足とりの一例に引いていた。
その中曽根さん、田中首相とテレビ出演し「大規模」を共におおきぼと言っていたという。
未曾有をミゾユウとか煩瑣をハンザツと読んだ最近の首相を笑うことはできない

● 宮刑と纏足だけは受け入れず
「千何百年もあれほど無防備に中国一辺倒できた日本。西洋生まれでない世帯道具を見つけるのがむずかしいほど洋化した生活をしながら、それでも家の中で靴をはいて暮らすこと、風呂もトイレも洋式でありながら、それを同じ空間に設けること、街頭を歩きながら飲食をすること、公衆の前で接吻をすること、男同士が頬ずりしてあいさつすること、などむろんやる人もないではないがどうしても抵抗を感じるのがまだふつうのようである」(「残虐の美学」の風太郎観)

四季折々を体感する微妙な感覚で合わないものを排除してきた日本人の美的感覚。
大震災を経て、スマホの時代になってこれがどうなってどう変るのか。

● ぬかりない次の一手も若い手で
風太郎は明治初期を滑稽で懸命で怖ろしい時代と形容した。
昨日まで攘夷の闘いをくりひろげていた国が政経は英に、軍科は独に、芸術は仏にその典があるとかぎ分けた。
東京→横浜、大阪→神戸とはじめて鉄道を敷き三番目だったのが北海道幌内炭鉱→小樽港だった。
ぬかりなくエネルギー源を見ていたわけだ。

風太郎は明治元年でのかれらの年齢を文中に書きとめていたので、それを抜く。

西郷 42歳 大久保 39歳 木戸36歳 福沢35歳 山県31歳 渋沢39歳 伊藤28歳 大山巌 27歳

東日本大震災3・11時の菅首相 65歳

野田首相 54歳。
最も若い細野環境・原発事故担当相が40歳、最高齢の前田国土交通相が73歳。
平均年齢は58.2歳、65歳以上の閣僚が3分の1を占めている。

■■ ブログ記憶書庫 ■■

【魔群の通過】山田 風太郎 廣済堂文庫 (99年 05/17読了)
メモが残っていたので、原文のまま保存しておこう。



武田耕雲斉の子供、武田猛は実際天狗党に参加し、のちに福井地方裁判所判事補
藩 内戦にあたるものは水戸藩内戦以外にない
矛盾の水戸藩
思想
尊皇 → 水戸学(下級武士)
藤田東湖が中核
佐幕 → 御三家(上級武士)
佐幕派のホープは結城寅寿 
    斉昭
斉昭は佐幕派を「妖党」よばわり
斉昭心酔者が天狗党
東湖の死で結城を暗殺
慶篤
    慶篤は慶喜の弟
斉昭の後は慶篤が藩主 典型的日和見人事

集団行動
江戸までの距離
斉昭の世襲めぐり内紛、各派の陳情行動
その他矛盾点は11ページ
●維新史に残らず。
 廟堂につらなる人間はいなかった。だが薩長のごとく、ケロリとして改変できる人がいたかどうか。
   水戸には偏狭な個性がある、と風太郎


元治元年 藤田小四郎が筑波山で示威 日光で追い返され、大平山を拠点とする
 筑波挙兵の一説に長州・桂と事前談合、同時蜂起説。
     過激派の藤田、倒幕派の田中。
     栃木放火は田中隊、本隊から除名

 常陸西部で内戦 幕府連合軍  60000
那珂湊連合軍 3000(天狗党)
構成
藤田の筑波勢
曲折あり途中参加となった武田勢
江戸から派遣で合流した形にならざるをえなかった
            松平勢

松平大炊頭軍が単独投降
松平は切腹 家臣35人全員処刑
残兵800余の天狗党は常陸 → 野州 → 上州 → 信濃 → 美濃と上洛を開始
水戸藩 井伊役が市川三佐衛門

那珂湊 → 瓜連 → 大宮 → 大子(上洛決定)
一〇〇〇人の軍構成
12門の大砲 鉄砲数百 150頭の馬
    田中隊の影響で農民が自衛戦 隊は八溝山で全滅

    天狗党のコースをたどって見ると車のメーターで九〇〇キロを超えた。
厳寒の季節の進軍。大山岳や大峡谷に嘆声の風太郎
女篭 沿道の目撃談後日 「夜明け前」にも著述
        娘と妾らを誘拐 ● フィクションか事実か
黒羽  →  大田原(間道紹介)
秋霜の那須野路を人馬黙々 
    矢板  →  鹿沼(875名の記録)太田(大光院に野営 宿場町が千両献上     )
上州から信州への路は2つ
碓井峠 海抜956メートル
下仁田から信州佐久平 大峡谷のけもの道
和田峠戦争
諏訪高島藩と松本藩 計二千名の連合 追跡の水戸藩が扇動


補足
水戸藩・会沢正志斎の「新論」は尊皇敬幕の立場から攘夷を迫った歴史回転の書物で維新の若い群像に影響を与えたらしい。
会社の図書室にあったので、少し読んだことがある。
水戸天狗党が一橋慶喜を慕って、内戦を経て千キロ長征した史実を「魔群の通過」と、山田風太郎は見た。
関東平野を横断して中仙道に入り加賀藩経由で京に赴く途中、ついに降伏。
敦賀・小浜の鰊倉に押し込められ、斬罪352人、遠島101人、水戸藩引渡し130人というむごい内容を持って彼らは裁かれた。
慶喜は、彼を慕って長征してきた水戸天狗党に対し、この裁きを容認している。
慶喜の嫌いなところのその一ともなった。





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1 コメント

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Unknown (はなえ)
2011-10-21 06:01:28
はじめまして
昔のことを調べています。
大正・昭和初期の日本橋の商人ことについて調べています。
国末金庫店についてご存じではないでしょうか?
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