ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔10 七五の読後〕 【検索バカ】 藤原 智美 朝日新書

2010年11月30日 | 〔10 七五の読後〕
【検索バカ】 藤原 智美 朝日新書


● 検索が いまだ仕事であった日々
検索することが仕事の一部になっていた八十年代後半。
その頃、私は新聞記事データベースの運用と編集に携わっていた。
 この仕事柄、蓄積記事情報の「検索」は日々、欠かせなかった。
新聞メディアが、活字からコンピュータ化の途上の頃で、新聞記者はまだ太めの鉛筆と升目の大きな原稿用紙で仕事に追われていた。
ようやくワープロが世の中に登場しはじめたが、パソコンOSは3・1のレベルでグーグルの登場はあと10年以上待たねばならない。
九十年代のはじめのころ、社内にあったインターネットに接続できるパソコンは科学部、情報調査部、社長室の3台しかなかったと思う。
ほかの社も同様だったのではないか。
それはさておき、当初から「検索」が仕事の一部だったから、今回の「検索バカ」の題名には強い関心を持った。

● 検索と思索の「索」は大違い
七十年代のはじめ 梅棹忠夫の「知的生産の技術」がベストセラーになっていた。
「京大式カード」というのが大流行して、知的生産のグッズとなっていた。 でも使えるようなパソコンは社会には登場していない。
考えてみれば、このカード方式も一種の検索技術ではなかったか。
書くという行為があるから「知的」で、キーボードからの検索は「知的模倣」とは言い切れまい。
検索と思索の違いを著者は各章ごとに力説するが、検索と思索は異次元の行為ではない。
連続して発生しえる。
検索バカという括りから、本書では検索の持つプラス面が過小評価されているようだ。
著者は「検索は自分で考えるという過程をショートカット」しているというが、人間の脳はもともと他人の脳を当てにするようにできている。
会話などでは他人からあてにされる脳は機能が高まるという説もなにかで読んだことがある。
そのやり取りを含めて思索への一歩がある。

● 検索もばかもハサミも使いよう
 「検索が日常となり思考が貧しくなり」というところに眼が留まった。
だが、切れない鋏にも使いようがあるように、ばかも使い方しだいでは役に立つという諺もある。
私などの世代でものを調べるとすれば、重くて分厚くて時間がかかる百科大事典の類だった。
何かを調べるために図書館に行っても、時間と空間の制約があった。
それに比べれば、ウェブ検索の日常化は、まさに魔法の宝で便利このうえない。
レシピ、苗作りの生活実用情報を含め、読みたい本や時代の歴史背景など概観できるところなどその恩恵はかっての時代と比べ計り知れない進歩だ。
要は使い方だろう。
情報への取捨、批判、吸収の有り様が「使いよう」だ。
玉石混交の情報化社会から何をどう学ぶか。
それぞれが自ら創意工夫をした知恵を絞ることが鍵と思う。
検索をすることより、ウェブ情報の浴び方に問題があるようだ。

● 考えず すぐに答えに飛びついて
著者の言いたかったことは、この辺りにあるらしい。
それはウェブ情報の知的浴び方とも言える。
 「自力で考えようとせず、解決方法を他者にたより、しかもいかに早く到達するかということに目がいって、その過程をないがしろにする。本からヒントを得て、あるいはそれが出発点になって、自分で考えるという過程をショートカットする。一種の思考放棄です。」
少し極端な指摘かと思うが、著者の「検索バカ」とは思索をせずに解決策をすぐ探すその性癖にあるらしい。


● お茶の間にグーグル顔出しまだ10年
当初の検索スピードと今のスピードでは比較にならない。
でも、グーグル検索が使えるようになってまだ10年。
茶の間からの歴史で言えばまだ5~6年という家庭だってあるはずだ。 だが、確かにウェブ検索の世界は日本のなにかを変えつつある。
理屈や筋が通ってるとかより、検索ヒット率の高いものを選び情報の取捨選択の基準とする。
更に、この点で我々日本人共通のアキレス腱が選択の弱さに大きく関わっているようだ。

● ランキング好きな不思議な方々と
私は「COOL JAPAN ~発掘!カッコイイ日本~」というNHK番組が面白いから見ている。
世界から集まった来日間もない若い外国人からみた日本のかっこよさとはなにかを英語で語り合う番組。
司会は作家で演出家の鴻上尚史。
たしかコメをめぐる話しの時だったと思うが、彼らが異口同音に「おコメがこんなに美味しいものだとは知らなかった」とし粘り気のある飯の美味さを褒め、でも「日本人ほどランキング好きな国民はめずらしい」との主張に各国から来た全員が頷いていた点が妙に印象に残った。
ランキング好きな国民性とネット検索の日常化が重なりあうと妙なことも起こってくる。
考えてウェブから答えを求めるが、求め方がランキング的発想で、KYというクウキを読むことに軸足がシフトしてしまう。
検索バカという短絡さがそこにあるというのが著者の指摘なら、ある面で共鳴できる。

●クウキとは個性をキャラに変換し
ウェブを検索しランキングの傾向を調べ、その平準的な社会の顔色を伺いながら過ごす日々の暮らし。
かってあった悪く言えば相互監視の「世間の目」という規範が「クウキヨメ」になずみ変化してきたとも言える。
個性的な発想より、自分の役どころを得たキャラのほうが楽で似つかわしい。

みのもんたのようにアクが強めで声高に主張すると、かっての知識人、いまコメンティターとする方々は揉み手をしながら迎合する雰囲気だ。けっして逆らわない。
KYを遵守、その場の雰囲気を壊さない。
中に溶け込んで強く主張しない。
ほかのワイド番組もそうだ。
迎合、サービス、受け狙いの発言の数々にウンザリしてチャンネルをまわすことがある。
自己主張を避けて正論を言わない。

たとえば裁判員制度。
制度ができて1年ちょっととなるが、これでよかったのかという検証がメディアにあまりない。
私の親類にも裁判員候補が生まれた。
 「赤紙を貰った気分」と彼は言った。
馴れさせて、死刑判決までさせられてが日常となっている。
だが我々は死刑判決をするために生まれてきたわけではない。
なぜ、素人がプロにとって代わらなければならないのか。
独立して身分や地位を保障されている裁判官と、生涯、暗く重い死刑判断をしたトラウマを背負って元の職場に戻る我々とは違う。
 「これはおかしい」と自己主張をしてもネットの声高のことばで消されるだろう。
 著者のクウキとはこういう面も指摘しているのか、と読みながら考えた。

● 縁側に座って話した隣組
かっては井戸端会議あり縁側の茶飲み話があったが、いま、その対話はなく各人がパソコンに向かっている感じだ。
密閉された戸建て住宅やマンションなどにはかっての縁側がない。
パソコンとの対話から仮面のつぶやきはあるがそれは疑似体験の世界だ。
相手の眼を見て話す五感を通した会話とはなりにくい。
一方、その世界は仮面を被って大声で主張したほうがヒット率が高い。 その中でランキング調和のクウキを読む。

 一揆無く異議申し立ても無い社会
デフレ危機、金融不安の欧州では、デモもあればストもある。
若い人の社会への異議申し立てがあるが日本には皆無だ。
20年間近く国も社会も閉塞しているが、それぞれの個の世界も閉じられている。
検索社会は進んだが  「もう黙ってはいられない」という共有観がなく、その問いかけさえも発しない。
言論の自由が脅かされかれている社会では無いのに、発言に不自由さがあるようだ。
たしかに検索ウェブ社会になってなにかが変りつつある。
これで3Dも身近になってくれば疑似体験社会はますます増えるが、五感を通した思考体験のほうは痩せてくるかも知れない。
心したいところだ。

検索とクウキ読めとのつながりがストレート的過ぎて違和感が残る一方で、提起されたことへの共感も残った本だった。  




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