ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔07 読後の独語〕 【日本文化としての将棋】 尾本 恵市 三元社 

2007年09月17日 | 2007 読後の独語
【日本文化としての将棋】尾本 恵市 三元社 

奈良・興福寺といえばなぜか修学旅行の光景が浮かぶ。
鹿がいて、阿修羅像があって、五重塔を仰いで、近くに公園があってまさに「二度と帰らぬぅ 思い出のせてぇ~」の船木一夫の修学旅行の歌になってくる。  
 もうすぐ創建1300年を迎えるこのお寺で14年前に天喜6年(1058年)の頃の将棋の駒が出土した。
同時に出た木簡からこの年代が特定できそうだが、約1000年前にこの寺があり、この駒があったというのは当時の文化の一端をまじかに見る感じだ。  

 我家にやってくる5人のマゴいづれもが将棋の盤と駒に興味を示す。
特に王将を中心として並べる駒や駒それぞれの形と大きさにまず目が光り、積み将棋崩しでは金銀や飛車、角などを財宝のように扱って遊んでいる。
1000年余の将棋の歴史は日本のマゴたちのどこかに遺伝子として刷り込んでいるなにかがあるんではないかと思うことがよくある。
 「平安将棋」というのがルーツだそうだ。
 平安時代に生まれた将棋だから名づけられたらしいが、今の将棋から飛車と角を除いて盤上に並べた形が原形となる。
駒の使い方は今と同じ相手三段目になれば駒は成れる。
ただし、持駒は使えない。
盤上から駒が消え裸王さまになったときが勝負ありということになる。  これが鎌倉時代になると大将棋となって、29種類の駒130枚で闘うゲームとなる。
やはり駒は取り捨てのルールだが飛車も角も登場し、鉄将、石将のほかに 獅子、麒麟、酔象などの駒が並ぶ。
 昔、東京上野の博物館でこれらの駒を眺めたことがあったが、よっぽどの閑人で、さしずめ貴族や興福寺の僧侶などの特権クラスが楽しんでいたらしい。
 信長の朝倉攻め頃にになると、将棋はいまの「持駒使用」将棋のルールになってくるようだ。
1970年代はじめの頃の「将棋世界」だったと思うが、駒出土の様子を細かく記録したのがあった。
木片に墨書で書いた薄い粗末な駒だったと記憶しているが「香」「桂馬」などの駒もあり、「待っただ」「いや、待てねえ」などの会話も浮かぶ足軽クラスの生活の場の将棋も想像できる。  
8名の碁打ちと将棋指しが家業として将軍家に認められたのが慶長17年。
 調べてみたらこの年は 巌流島で宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘をし、家康がキリシタン禁教令を出した年でもあった。
今と同じで盤上ゲームが職業として成り立つということは、無限の複雑性をともなったゲームの面白さが定着していたということで、将棋は庶民クラスにもどんどん普及していったらしい。
 詰将棋を自ら考案して世に残した将軍も出てくる。
 十代将軍・徳川家治でこの殿様は吉宗のお孫さんにあたり、田沼意次に政治をまかせ自らは好きな将棋にうつつを抜かしていたらしい。

  平均すれば手数110手あたりで決着がつく盤上のこの勝負は、プロアマ含め何千という記録がありながら、いままで指し始めから終盤までの同一の棋譜はない。
その複雑性と無限の変化を可能にしたのは「持駒が使える」「駒が成れる」の二点にありそうだ。
 チェスの場合は敵と味方の色が違い立体駒であり、取った駒の再使用はできない。
 将棋の場合、駒は同じ色で敵味方の区別は五角形の駒の向きによる。
そして持駒は使える。

 この本を編纂した尾本さんは遺伝子レベルで人類の進化や変異を探る分子人類学の権威。
物理学者や歴史学者など20人を集め、将棋という文化を中央に立たせスポットライトを浴びせ、考え調べた学際的な集団研究の発表となった。
特に棋士の木村義徳九段が調べた駒の歴史と阿波藩25万の軍制など戦国武将の陣立てと戦略を調べ将棋との関連が書かれていた章は再読、三読すべき貴重な内容と思う。

 先ごろ町の将棋大会があり、私はB級3位の成績をおさめた。
 もっぱらの稽古は公民館で三、四段クラスの胸を借り、戻って「東大将棋」ソフトからも学ぶ。
1000年以上続いてきた将棋もコンピュータ”頭脳”とつきあう時代となった。
 だが連綿として続いてきた将棋文化の面白さはまだまだ汲んでも尽きない深さがありそうだ。
                  (2007年9月13日) 読了



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