ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔09 七五の読後〕 【野村監督に教わったこと】山崎 武司 講談社

2009年12月27日 | 〔09 七五の読後〕
【野村監督に教わったこと】山崎 武司 講談社

あれは不思議な光景だった。
楽天が最後に日ハムに敗れた時、両チームの選手によって胴上げされた74歳の監督がいた。
ジャイアンツファンの私はめったにパの試合はみない。
でも、74歳の野村監督が宙に舞う姿は、しばらく眼に焼きついた。

ベンチの中から見たリアルな監督像はどうか。

野村の自著本は、今わんさと本屋に並んでいるが、選手側からみたその人とはなんなのか。
その点に興味ありで、この本を読んだ。

● 分け隔てないから来いと誘われて
楽天イーグルスの初代監督は田尾。
プロ野球に参戦してきた新参チーム。
どう見ても未だ優勝を狙えるチームであるはずもなかった。
田尾は山崎の入団を誘い、後ろ足に重心のかかっている山崎の弱点を指摘し、打撃改造をすすめた

● 失うべき なにものもないその強さ
30代後半の年齢で新たな舞台に立ち向かう山崎の心境。
この本を読んでいると、彼の楽天性と野球そのものに向う素直な情熱が伝わってくる。
「巨人の星」の伴宙太のような感じで、熱血がたぎっている。
最もこの人も捕手の出身ではあった。

● 田尾、野村 その順番で山崎流
田尾は打撃の改造法を、野村は野球の「読み」を山崎に教えた。
この順がよかったらしい。
山崎の人柄は義理と人情を秤にかけずに大切にし、いまだ流行らぬ根性をも、また大切にする男。
当初は理論派のぼやき節監督は、煙たい存在だったらしい。
一方の野村は南海、ヤクルト、阪神、そして楽天と弱小球団を育てながら渡り歩いてきた。
この老将は野球という仕事がともかく好きで、そのために働きどおしの生涯を演じつつ楽天にやってきた。
先日、引退後のテレビを見ていたら野球をやらなかったら俳優になりたいと言っていたご本人だが、研究心、好奇心、実行力が三拍子で揃っているから、なにをやっても一角の人になったはず。
おまけに歌が上手くて声もいいことも発見した。

● 老将はチャ髪、長髪、ひげ禁止
山崎が楽天に移ったとき、イーグルスの選手の三分の一は茶髪、長髪、ひげ面の選手だったという。
これを野村は禁止した。
花の命は短いに例え野球選手の現役もサラリーマンなどと比べれば極めて短いのだ。
引退後は派手な生活はもうできない。
身なりはどうか、挨拶はどうか、あとあとのことを考えて気を配れ。

チャ髪などは、第一印象がマイナスイメージになることが多い。
悪く思われるよりよく思われたほうがいいではないか。
など規制とおしつけを嫌う若い世代を説得して導いた。
自分のことばかり考えて野球はできない。
闘いがすべてのプロ野球では狙うのは優勝。
優勝の大事に向うとき、茶髪などの小事は捨てよ。
油断するな。
野球とは個人本位ではやっていけないスポーツなのだ。

● 5席ほど空けて座ってボヤキ聞き
山崎が野村監督と出合った頃のベンチの彼の指定席。
ここからでも試合中の監督のぼやきはよく聞こえる。
若い投手や、キャッチャーに打者心理の読み解きをボソボソと言ってるのを傍らで聞き、それを打撃に応用することでステップアップしたという。
この辺りが非凡。

● 勝ち負けの5割近くはメンタルが
野村は得手、不得手のデータの読み方を教え、そしてそれを逆手に取って使えと教えた。

● 乱闘に一足早くベンチを出
ところが両軍のエキサイト場面があると、コーチより早く野村はグランドへ向うという。
理で冷めているばかりではない、年に似合わずの血のたぎりもあった。
この時、老将は闘将に変る。

● マー君の勝負どころのその一球
ベンチの中でも若い田中将大の気合はガンガン伝わってくるそうだ。
三振を取るとこの若獅子は吼えながらベンチに戻ってくる。
投手にとっても、打者にとって切羽詰まった最後の一球は、気合と根性がやはり勝負の帰趨を決める。
それが山崎の信念だから、投げるマー君をとても気に入っている。
「マーが投げる試合は何故かホームランがよく出る」とし、野村監督も、「マー君、神の子、不思議な子」「今日は悪魔の子かと思ったけど、やっぱり神の子」等と評価した。
そんなところを、固唾を吞んでファンは見たい。
筋書きのないドラマはこうした場面から生まれることが、事実多い。

● 三振のやじと罵声に免疫も
07年、山崎は43本のホームランを打ち108打点。
96年には39本を打ち、あわせて2回本塁打王に輝いている。セ・パ両リーグでの獲得は史上3人目。
だが、すべての打席が好調であるわけにはいかないこともある。 三振のやじ、罵声もいつしか免疫になっていると本人は書いている。 こういうタフネスな男でもドラゴンズとオリックスの時に監督と反りが合わず人間不信になったこともあった。
 「チームを奈落の底につき落としてしまう選手がいる」と暗に山崎を批判した中日・山田監督の言動。
オリックス時代の伊原監督の起用法からのトラブルの挙句、04年に戦力外通告を受ける。
こうして東北、新生球団楽天へ山崎は移籍する。
05年に野村監督と出会い、07年に38歳という年齢で二冠を獲る。

● リーダーの力量以上の組織なし
これが野村監督の口癖だったという。
山崎はそのリーダーだった。
 「勝ったと思ったときが一番危ない」これも老将の口癖。
勝負は下駄を履くまでわからないという古いことばも浮かんでくる。

指揮官は野球を通じて「人を生かす」術を見せ、山崎ら選手には「人として生きる」ことを教えた。
強いチームの条件とリーダーのありかたも。

● どうしても胴上げしたいこの人を
この本が書かれたのは08年2月のことで今年ではない。
その時点で山崎は野村監督の胴上げを思い描いている。
「考えて野球せぃ!」も監督の叱咤だった。
だが、理論派の老将が選手交替のときに「アイツ腐るかなあ」とその選手の気持ちを思いやり、「ここで乗り切れたら大進歩」とピーク緊張の場面であえて起用する監督術を間近で見ている。
山崎にとって野村は最初で最後の監督であり、引退しても「師匠」と呼べる人柄だとする。
そして今年、楽天はCS戦に進んだ。
だが2009年10月11日、監督4年目で新生弱小球団を2位に押し上げた監督を球団は退任を通告。

これもまた人生という筋書きのないドラマではあった。


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