特捜最前線日記

特捜最前線について語ります。
ネタバレを含んでいますので、ご注意ください。

第359・360話 哀・弾丸・愛 七人の刑事たち!についての感想の続き

2007年11月07日 00時44分45秒 | Weblog
『哀・弾丸・愛』前後編の余韻に浸ったままで、録画したままの第361話をなかなか見る気になりませんが、改めて前回の投稿を読み返して見ると、とにかく長すぎ。「誰が読むねん。こんなもん」と自分でツッコミを入れてしまいました。しかし、それでもなお語り足りないので、もう少し語らせてください。
前回の感想はおやっさん主体でしたが、タイトルに「七人の刑事たち!」とある以上、他の刑事たちについても触れる必要があるでしょう。とはいえ、実際には七人に等しくスポットライトが当てられたとは言い難いのですが、その辺の事情を私なりに推察してみました。

本編における各刑事たちの描かれ方を考察する前提として、次のことを押さえておく必要があります。本編のテーマは、刑事という仕事に対するおやっさんの苦悩であり、他の刑事たちの役回りも、そうした苦しみに対する理解度によって決定せざるを得ない、ということです。

まず、最も印象の薄かった桜井および橘ですが、二人とも、おやっさん同様に刑事であることの辛さを知り尽くした人間であり、それゆえに、おやっさんの苦悩が痛いほど分かる。分かるがゆえに、安易に掛ける言葉を持たず、憂い顔で見守る他はありません。そうした微妙な立ち位置ゆえに、スポットを当て辛かったのではないでしょうか。(もちろん、桜井には強盗の恋人を気遣って紅林にコートを貸すよう促すシーン、橘には警備員をかばい続ける強盗の態度に「(警備員は)奴がこの世で一番信じている人間だ。悔しいね。こういう人間をパクらにゃならん」と呟くシーンなど、わずかながらも見せ場は与えていますが・・・)

一方、この二人以上に刑事であることに苦しみ続けている神代は「それでも、やめてはいかん」と、おやっさんに逃げることを許しません。それは「刑事という仕事から逃げ出した後に、おやっさんに何が残るのか?」という危惧であると同時に、「俺を置いて一人だけ逃げるのか?」という寂しさでもあったのでしょう。刑事であり続けることを強いる残酷さを自覚していてなお、引き止めずにはおられない神代。それゆえに、神代のおやっさんに対する態度は揺れ動きます(引き止めておきながらも、無理に捜査に戻そうとはせず。出動させておきながらも、弱音を吐いて車内に残るのを認める、というように)。ラストで警備員を射殺し、再び修羅の道に戻らざるを得ないおやっさんに対して、神代が抱いた想いを察するだけで、胸に迫るものがあります。
なお、ドラマ中で語られなかった警備員の真の動機は、自分をお払い箱にした警察に対する復讐ではなかったのかと思われますが、神代は警備員自身が気付いてなかったかもしれない(おそらくは認めたくもない)動機を洞察し、おやっさんが警備員の二の舞になることを案じていた、と察するのは、慰留する際の長台詞を聞く限り、そう穿った見方ではないのではないかと思います。

神代らの対極にあるのが、まだ刑事という仕事の真の辛さ、醜さ、哀しさを知らない若手たちです。叶や紅林は、自らを唾棄すべき存在だと考えているおやっさんに対し、尊敬の念を抱き、その想いを素直にぶつけてきます。もちろん、息子のように目をかけてきた後輩に慕われ、目標とされることを喜ばない者はいません。しかし、慕われる自分、目標とされる自分の醜さを知り尽くしているがゆえに、そしてそんな後輩たちが可愛いだけに、彼らの言葉がおやっさんを追い詰めていったのではないでしょうか?おやっさんが彼らに望むこと、それは「俺のようになるな!」ということであり、自分の仕事に誇りをもちながらも、後輩に対してはそう言わずにいられない哀しさも、おやっさんの心を「ボロ雑巾のように」してしまった要因の一つではないでしょうか?

では、なぜ叶や紅林よりも付き合いが古く、最もおやっさんの薫陶を受けてきたはずの吉野だけが、彼らと異なる位置づけなのでしょうか?決して塙氏が吉野の存在を叶や紅林よりも軽くみていたわけではないでしょう(それならば『張り込み 閉ざされた唇!』や『東京犯罪ガイド!』のような話は書けないはず)。塙氏の理解する吉野、そして私たちが愛する好漢・吉野は(演じる誠直也のパーソナリティーの影響も大きいと思いますが)自己嫌悪や自己矛盾とは無縁の古き良き九州男児。そして、人一倍悪を憎み、決して甘えを許さない男です。これまでの吉野を振り返ってみれば、悲しい事情を背負った犯罪者の甘えを許さないのはもちろん、子供の甘えも、父親の甘えも、自分の甘えも許さない男として描かれてきました。そんな吉野にとっては、おやっさんの苦悩も「甘え」であり、特命課の中でただ一人おやっさんの弱さを糾弾する立場に回ります。おやっさんを擁護する場合でも「強盗は射殺して当たり前」すなわち「刑事として犯人を撃つことに迷う必要はない」というように、おやっさんの苦悩に対する対立概念として描かざるを得ないのです。
刑事であることに悩まない、という吉野のキャラクターは、ある意味で損な役回りと言えますが、しばしば悩める刑事たちの対立概念として描かれる彼の存在があってこそ、特捜というドラマが成り立っている側面もあります。つまり、「七人の刑事たち」というタイトルに象徴される集団劇としての魅力も、吉野という存在があってこそだと言えるでしょう。塙氏は、そうした吉野の役回りを理解しているがゆえに、あえて損な役回りを任せる一方で、負傷した幹子を気遣い、見舞いすら拒否する元婚約者の名を騙って花を送り続けるという、吉野ならではの見せ場を用意したのでしょう。

長坂秀佳と並び「特捜の歴史を支えた両輪」と称される塙五郎氏。七人の刑事それぞれに対する塙氏の理解、そして愛情が、今回の前後編には余すところなく表現されているのではないか、と私は思います。今後も塙氏の描き出す奥深い人間ドラマを、心して味わいたいものです。

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
改めて観て (特オタ)
2007-11-14 23:51:09
やはり面白かった。
もう、悩みをふっきったおやっさんに躊躇いは無かった。
返信する
3度観ました (袋小路)
2007-11-16 01:58:59
録画したビデオは永久保存とし、時折見返したいと思います。

コメントは中西良太を落とすシーンのことですよね。反論というわけではないのですが、悩みをふっきったというより、悩みつつも卑劣な手段を取るしかなかった、とは解釈できないでしょうか?
悩み苦しみつつも「刑事として生きる限り、手段を選ぶような甘えは許されない」と覚悟を決めたというのが、私なりの解釈です。

刑事であり続ける限り、おやっさんは悩み続ける。ラストの表情を見ていると、私にはそう思えてなりませんでした。
返信する

コメントを投稿