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アマテラスオオミカミとは?

2025年07月23日 | これから何が起きるのか?

 実は中津川市周辺には、前回書いたダビンチコードのように、不思議な古代史の鍵がたくさん眠っている。
 一番凄いのは、たぶんアマテラスオオミカミの出生地ということだ。

 これは、正規の歴史文書ではなく、江戸時代に作られた「ホツマツタエ」という「偽書?」に書かれていることだ。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%84%E3%83%9E%E3%83%84%E3%82%BF%E3%83%B1

 ウィキ解説=ホツマツタエ(秀真伝)とは、「ヲシテ」文字(「神代文字」の一種)で記された「ヲシテ文献」のひとつであり、日本の偽書とされている。
 学術的には18世紀後半に活動した修験者・伊保勇之進による偽作とされ、近世の思想史や文学の資料として扱われている。五七調の長歌体で全40アヤ(章)から成る「古史古伝」のひとつである。

 戦後に松本善之助が『ホツマツタヱ』を再発見し、日本書紀の原史料であると評価したことから、一部の研究者や愛好家が「ヲシテ文献」の研究を続けており、『古事記』『日本書紀』の原書説を主張している。しかし、現存する最古の写本は安永4年(1775年)制作のもので、それ以前の写本は確認されていない。
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 引用以上

 伊保勇之進の活動した時代は、本居宣長や賀茂真淵、平田篤胤らの国学の勃興した時代で、国学の古代史文献を創作し、日本の古代史を修飾する目的で書かれたような気がする。
 というわけで、この伝説は、作られてから250年しか経ていない、歴史文献というより、江戸時代の空想小説として、馬琴の里見八犬伝程度の意味しか持っていないかもしれない。

 しかし、この創作された伝承を信じている人は多く、アマテラスという超大物が地元と関係あることを喜んで、これを真実と受け取り、アマテラスオオミカミ出生の因縁地として、中津川市や恵那市では、史跡として整備されている。
 私の住む恵那盆地では、恵那山が胞衣山からきていて、アマテラスの胞衣を奉納した山という伝説から恵那と名付けられたという説が広く伝わっている。

 しかし、エナの呼び名は、律令制における五街道の最大街道、東山道の通過地として、奈良からみて鄙びた処という意味から、ヒナ→エナとなまったという説がある。
 この東山道は、古代における日本最大の街道であり、京都・奈良から岩手県に至る内陸の核心的街道であった。
 後に、1600mを超える御坂峠の冬季困難な通過を避けて、江戸初期に木曽街道に道が付け替えられ「中山道」になった。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E9%81%93

 古代では、普通、内陸部の原生林地帯の通過は困難を極めたので、沿岸部の船による移動の方が多かったはずだが、どうして、あえて内陸部に主要街道が設けられたのかといえば、それは奈良時代、政権の主役が騎馬民族であり、馬を通すのに内陸の安定した道が必要だった事情があったように思われる。

 騎馬民族は、朝鮮半島の百済から日本列島に大規模に移住したが、このとき釜山から対馬、隠岐の島を経由し、海を渡って馬を移動させるのに安定した双胴船が使われたと考えられる。
 それでも、馬は基本的に海洋の渡航が苦手で、内陸部を通過する必要があった。古代律令街道には、馬を通すため、駅馬施設が約16Km毎に設けられた。中津川の場合、大井に大規模な駅馬があったと記録されている。御坂峠を越えた阿智には、30頭の駅馬が配置されていた。
 http://www.kmatsum.info/Sinsyu/uma/horse2.html

 これを深堀する理由は、ホツマタエに恵那山界隈がアマテラスの出生地と書かれた理由が、神武以前の時代ではなく、東山道開通後の時代に、アマテラスとされた女性がこの地で産まれたことを意味しているからだ。
 東山道が開通したのは奈良時代初期であり、古事記に描かれた神武王朝時代とは何の関係もない。すなわち、ホツマタエのアマテラスが実在するとすれば、それは、畿内から東国に向かう騎馬民族の一団における特別な存在であった。

 ただ、ホツマタエが空想的な偽書という位置づけだと、それが誰であったのかを追求することは無意味である。
 もしも、日本国の創立にかかわる重大人物であったとしたら、それは騎馬民族天皇家(秦氏=継体天皇)のなかの女性天皇ということになる。
 それは、もしかしたら推古天皇を意味したのかもしれない。

 実は、中津川周辺の神社が、ほとんど八坂神社であることを前に書いた。
 https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6206695.html

 八坂神社は、京都祇園に総本社があり、全国に2300社があるとされる。すべてスサノヲを祭神とし、神仏分離令まで祇園社(シオン社)だった。
 八坂神社をヘブライ語でヤーサカ(神よ!)とし、ユダヤ神社であるとする日猶同祖論の支持者が多い。
 https://www.historyjp.com/article/578/

 現代のイスラエル、アミシャーブ・プロジェクト機関(失われた十支族をシオンに戻すプロジェクト)でも、天皇家など騎馬民族を、ユダヤの失われた十支族と認定している。
 https://www.historyjp.com/article/185/

 そして、スサノヲを祀る八坂神社は、日本に渡来した古代ユダヤ人を守護する神社である。
 八坂神社は、全国にあるが、東山道の界隈に集中しているともいわれる。今では名前を変えている神社も多い(蛭川では安広見神社)ので、地元の人でも知らない者が多い。

 不思議なことに、八坂神社ばかりの隣村、黒川の上にある八百津町から、ユダヤ人を大量に救った杉原千畝が出ている。
 私の調査では、八坂神社と明智光秀の関係も浮かんでいる。森蘭丸も関係している。まだ詳しいことは書けないが…。

 ちなみに、わが蛭川村の開闢は、南北朝時代、この東山道を使って京都に出て、南朝に与した新田一族の拠点が開かれた場所だといわれる。
 開祖は林三郎太郎という人物だという。彼の墓標? らしきものが、私の住むすぐ近くにあり、どうも私の住んでいる土地も林三郎太郎が開拓したものらしい。ためしに敷地を掘ってみたら40センチくらい下に大昔の開墾地と思われる黒土が出てきた。

 ここは黒瀬街道に沿っていて、八百津金山城や明智菩提の天竜寺とつながっている。おそらく南北朝時代、南朝武士たちが、後醍醐天皇支援のために使った街道だと思う。
 (東山道の本道は、足利尊氏の代理人だった土岐氏に支配され、南朝武士を排除していたので、裏街道として黒瀬街道が使われた)

 その主役は新田氏だった。実は、私がこの地に来た理由も、600年前の歴史=過去生が関係しているかもしれない。
 父親の先祖地を調べていたら、群馬県の新田郡であることが分かり驚かされた。新田郡と、当地は、東山道で直結されていたのだ。

 てなわけで、私は、地元の史跡を調べていて、まるでダビンチコードのように、不可解な歴史が、一本の線につながる不思議な感動を味わっている。
 当地の支配者は、室町時代から遠山氏という一族が異動もなく権力を掌握し続けてきた。なかには江戸屋敷に「遠山の金さん」が登場している。
 また、「ナンジャモンジャ」を江戸に移入したことも知られている。

 遠山氏の支配地域は、恵那盆地だけでなく結構遠方まであって、飯田市や遠山郷まで関係している。いずれも鍋蓋の家紋を使用しているので同じ一族だろう。
 東山道は、京都を発し、御坂峠を越えて飯田市に出たら、伊那谷を北上し、群馬県に向かい、最終的には青森県にまで至っている。
 日本最長の内陸街道で、総延長は1200Kmを超えた。中山道に代わってからは、江戸で止まることになった。

 もしも、ホツマタエに描かれたアマテラスが、私の推測通り、推古天皇であったなら、なぜ、母親が畿内から東山道を通ったのかが謎だ。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%A8%E5%8F%A4%E5%A4%A9%E7%9A%87

 両親は、欽明天皇と蘇我堅塩媛であり、推古は額田部王女ともいわれた。もちろん天皇という呼称は、天武天皇以降なので、当時は王君だった。
 すでに駅馬制が確立していたと思われ、京都から馬で東国に向かう途中に、産んだのだろう。神武九州王朝の時代に、御坂峠を通るルートなど存在したはずがない。

 ウィキに以下の記述がある。
 586年(用明元年)夏5月、敏達天皇の殯宮に異母弟の穴穂部皇子が皇后を「おか(姧)」そうとし、殯宮に入ろうとするという事件が発生した。
 この時、敏達天皇の寵臣であった三輪逆は門を固めて穴穂部を入れず、穴穂部が7度に渡って門を開けるよう要求しても応じなかった。穴穂部は三輪逆が自分の入場を阻止したことは無礼であると怒り、蘇我馬子、物部守屋両名もこれに同意した。

 その後、穴穂部は物部守屋と共に兵を率いて三輪逆を討伐すべく「磐余の池辺」を囲んだが、三輪逆はこれを察知して「後宮きさきの宮」(額田部の「別業(なりどころ)」の「海石榴市宮(つばきちのみや)」)に隠れた。しかし、同族によって密告され、三輪逆は最終的に穴穂部の命を受けた物部守屋によって殺害された
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 これを読んでいて、私は「アマテラスの天岩戸伝説」を想起したのだが、これが推古=アマテラス説のヒントになった。読者はどう思うだろう?

 なお、アマテラスの体を洗ったという場所は、「血洗い池」といわれ、史跡になっている。現場は駐車場もない二車線の道路脇で、なかなか見つけるのが大変だ。
 胞衣を奉納したというのは恵那神社であり、こちらは、それほど苦労することもなく行ける。恵那山の古い登山道脇で、なかなか神秘的な風格の、趣ある神社で、行くだけの価値はある。

以下は、20年くらい前、ヤフーブログに書いたものだが、廃止されて失われていたと思っていたら、誰かが転載してくれていた。感謝
 http://toukaiama.qp.land.to/ama/hirukawa2.htm

 https://ameblo.jp/tokaiama20/entry-12693790484.html

https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5827635.html


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