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なぜ冤罪が起きるのか?

2025年07月05日 | これから何が起きるのか?

 袴田事件・財田川事件・免田事件・松山事件は冤罪被害者が処刑台から寸前で解放された。大崎事件や名張事件は、まだ真相が解明されず未解決だ。
 静岡県における冤罪の原因は、静岡県警の紅林浅雄という警察官が、手柄と出世欲しさに、ろくな捜査もしないまま、自分が怪しいと睨んだ無実の関係者を勝手に犯人と決めつけて拘束起訴し、真贋を判定する司法組織が事件を安易に片づけようとし、ろくな審議もしないまま冤罪被害者を有罪にして、処刑させようとしたことだ。

 一連の冤罪に共通するのは、警察官、捜査官の硬直した「先入観」である。 それは私のケースでも同じだった。
 自分が勝手に思い描いた軽薄な想定を真実と思い込み、それを権力を利用して死守する姿勢があるのだ。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E6%9E%97%E9%BA%BB%E9%9B%84

 私自身が、近所のAという老人に、さまざまな嫌がらせや泥棒に入られて、それを蛭川駐在(加藤博也)に訴えても、先入観によって「全部ウソ」と決めつけられ、挙句、精神病者と決めつけられて精神病院に強制入院させられそうになった。
 https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5987976.html

 このとき、中津川警察署は私を「問題を起こした」と、法的根拠もないまま私を私の家から追放し、私がいない間に、令状もないまま私の家に侵入し、証拠になる動画(私がAの妻を問い詰めている場面)を勝手に削除していった。証拠を隠滅したのだ。
 というのも、私が「Aの妻をナタで脅した」というのが私を自宅から追放する容疑になっていたのだが、実際には盗品探索で藪を切り開くために持っていただけだった。監視カメラ動画記録は、私が脅していない明確な証拠だったのだ。

 国家権力というのは、表向き、遵法や正義を装っていても、自分たちのメンツのためなら、どんな非合法なことでも、人権侵害でも平気でやるのだと思い知らされた。

 この問題を、私は①岐阜県公安委員会 ②中日新聞社 ③岐阜県警監察課 ④日弁連 ⑤国家公安委員会などに訴えたが、一切相手にされず、すべて即時却下となった。
 結局、最後の手段は、この事実を広く知ってもらうしかないと出版公開と、蛭川全世帯への無償配布を予定しているのだが、200万円という私費出版資金の壁と、費用対効果の問題に躊躇している。だが、私は諦めるつもりは、まったくない。

 私は、中津川警察に、もう20年も前に、滋賀県豊郷町に住むYから、殺害予告を含む、数千回の嫌がら電話を受けた事件で、被害届を受理してもらい、結局Yが起訴され、50万円の罰金判決を受けた件で、とても感謝していた。
 この事件を担当してくれた刑事は、後に桑名警察で、轢き逃げ捜査にあたっているドギュメンタリー番組が放映され、とても信頼できる人物だったと思う。

 このことがあって、信頼感があったのだが、その後、私への嫌がらせを告発しようとしても、一切被害届を受理しなくなった。
 もしかしたら、私が名古屋時代に公安から「赤軍派シンパ」とマークされていたことが原因かもしれないが、事実は、反原発活動家ではあるが、赤軍派とは無関係だ。(知人に人民新聞主宰者がいたことだけ)
 そして、上に述べた、蛭川駐在が、私の訴えを理由もないまま嘘と決めつけ、ひどい人権侵害を平然と行うようになった。

 私の印象として、前世紀までの警察は、政治的に右傾化している問題はあったが、末端レベルでは、「住民に人間の心で寄り添う」姿勢が残っていたと思う。
 ところが、自民党(とりわけ安倍晋三)が、警察や司法機関を反対派弾圧の道具に使うようになり、住民に人情で対する姿勢が失われたように思える。

 今や、住民の訴えを聞く代わりに銃を向ける警察官が大量に登場しているような気さえする。一つには、中国人やクルド人など暴力的な問題を起こしている外国人移住者が激増していること、それを自民党政権が支援していることなどが背景にあると思える。
 しかし、住民の訴えに寄り添えないロボットのような高圧的姿勢の警察官など、社会秩序を破壊するものでしかない。

 外国人への異常な優遇を示した外免切替免許証問題は、国民を激怒させている。私も大型二種免を取得するのに、どれほど苦労したか考えると、絶対に許せないものだ。わずか10問のペーパーテストで運転されたらたまらない。
 これを指揮しているのは、公明党が独占している国土交通省だといわれる。公明党は、もともと、中国や韓国とずぶずぶの政党なのだ。

 「警察官の質が落ちた」
 これは、私自身がひどい目に遭っていて確信するしかない問題だ。
 社会全体が、「人情」を否定する新自由主義時代に入って、根底から崩壊が始まっているような気さえする。
 右を向いても、左を見ても、「他人に共感できないサイコパス」ばかりの時代と言いたくなる。
 問題の本質は、他人に優しくなれる社会体制を復活させることなのだ。

 今回は、現代ビジネスに載った冤罪問題の記事を紹介する。
 
 2025.07.05 「袴田事件」からみえてくる「冤罪」や「再審」の問題……法制度の改革に追い風を起こすのは圧巻のミステリ小説
 https://gendai.media/articles/-/154420?page=1

 無実でありながら、捏造された証拠によってあわや死刑に処せられていたかもしれない袴田巖さんが、事件から58年も経ってようやく再審無罪になるという衝撃の事実によって、市井の人々が冤罪の恐ろしさを実感し、再審制度の不備についても注目するようになった、まさにこのタイミングでリリースした渾身の新作が『神都の証人』である。

 ときは戦時体制下、治安維持を最重視する国家権力が刑事司法の公正公平を駆逐し、拷問により搾り取った自白で多くの無辜(無実の人)が処罰された時代。
 本作は、その真っ只中の1943(昭和18)年に無実の罪で逮捕され、その後死刑が確定した父親と、当時8歳だった娘のために、世代を超えた闘いを繰り広げる、多数の弁護士たちと一人の検察官の、83年間にわたる壮絶なドラマを描いたリーガル・ミステリーである。

 もちろん本作はフィクションである。しかし、決して現実離れしたファンタジーではない。作中の冤罪事件「谷口事件」の再審請求の経緯の中で登場する様々な場面に、現実の再審請求事件が直面した幾多の理不尽な実態がちりばめられている。
 例えば、捜査機関が握っていた重要な物証の存在が、事件から何十年もたってようやく明らかになる(袴田事件など)、警察が検察に送らずにいた証拠が再審開始、再審無罪への原動力になる(日野町事件第2次など)、地裁・高裁が重ねた再審開始決定を最高裁があっさり取り消して再審請求を棄却する(大崎事件第3次)などのエピソードがそれである。

 また、作中では1985(昭和60)年頃の出来事として、登場人物が「再審法制定も遅々として進まない」と嘆く場面、その37年後にあたる2022(令和4)年の場面として、シンポジウムで再審法の問題点や法改正の必要性について訴える場面が登場する。
 事実、本作で描かれている戦前から現代に至るまでの80年余りの間、有罪判決が確定した無実の人を救済する最後にして唯一の手段である再審手続に関する法や制度は、現実社会においてもほぼ変わっていない。

 有罪となったもともとの裁判で裁判所に提出されず、捜査機関の手の内に残された証拠を再審請求の段階で開示させるルールがないことや、「法的安定性」(三審制のもとで確定した以上、安易に判決を覆すべきではないという考え方)を盾に、なかなか再審を認めようとしない裁判所、ようやく裁判所が覚悟を決めて再審開始決定をしても、これを不服とする検察官が抗告することで審理が長期化し、開始決定が取り消されればさらに長期化するという実情を、登場人物たちはビビッドな言葉で糾弾する。

 「まずは無実だって新証拠を裁判所に出さないといけない。それを元に開示の必要性が認められて、ようやく出してもらえるかどうかってとこや。しかも余程のことがないと認められん」

 「意味わからんわ。あっち(引用者注:捜査機関のこと)が証拠を全部握っとるのに、新しい証拠をまず出せやって? 飛車角落ち、いや、王さんと歩だけで戦っとるようなもんやないか」

 「冤罪の被害を受けた者からしたら、誤審を受け入れるいわれなどありません。そんなものはただの人柱です。法的安定性? あほちゃうか。アホちゃいまんねん、パーでんねん。そう言いたくもなるというのが正直なところです」

「検察側としては即時抗告するのは公益のためであるといいます。ですが公益って何なん? 皆さんにも考えていただきたい。再審制度は冤罪救済を目的とし、ここでいう公益とは人権侵害をうける側のもんなんです」

 加えて、1980年代に4人の死刑囚が相次いで再審無罪となったいわゆる「死刑4再審」のうち、免田、財田川、松山の3事件の再審無罪後に最高検察庁が極秘裏に内部検証を行い、これまで確定審での不提出記録を幅広く開示してきたことを自己反省して「再審請求の理由として主張されている事実との関連性を問うことなく、不提出記録の全部を開示するようなことは許されない。

 特に、請求人が不提出記録から何か自己に有利な証拠を探そうという証拠漁りを許すようなことがあってはならない」と申し合わせていたことが後に明らかとなった。
 これについて、作中で登場人物が「検察上層部は躍起になっている。次席検事会議でも再検討がなされていたよ」「次長検事が言うたんでしょう。弁護士の証拠漁りを許さないようにって」とやりとりをするくだりがあり、作者がわが国の再審をめぐる歴史的経緯について、きわめて詳細な調査を行っていることにも驚嘆する。

 しかし、この作品が読む者の心をこれほどまでに激しく揺さぶり、惹きつけるのは、このような史実や事実を下敷きとしつつ、極上のエンターテインメントに仕上がっているからである。
 ミステリー作家としての大門氏の真骨頂である「読者の想像のはるか斜め上を行く大どんでん返し」は本作でも健在である。そして何より私の魂が共鳴するのは、第一部、第二部、第三部それぞれの扉に記された3人の主人公、吾妻太一、本郷辰治、伊藤太一が全人格を賭けて死刑冤罪(特に第二部以降は死刑執行後の再審請求という、事実上もっともハードルの高い再審請求)の雪冤に挑む、その姿である。

 筆者は、弁護士登録から20年以上、大崎事件という鹿児島の再審請求事件の弁護人を務め、そこで味わった圧倒的な理不尽から、ここ10年は再審法改正の実現に向けた活動にも心血を注いできた。
 すると、「どうしてそこまで熱を入れているのですか」と問われることがある。筆者は「最初から再審弁護人を目指していたわけではありません。
 でも、偶然、無実を叫びながら長年闘っている原口アヤ子さんという女性を知ったんです。

 知ってしまった以上、もはや放っておくことなんかできませんよね」と答える。同じことを、映画『それでもボクはやってない』の周防正行監督もおっしゃっていた。
 「何で痴漢冤罪の映画を一本撮ったぐらいで、そこまで刑事司法の問題にのめり込むの? って訊く人がいるんだよね。逆に、何で俺にそれを聞くの? って思うんだよね。だって俺は知ってしまったんだよ。知らなかった頃には戻れないじゃないか」——。

 吾妻太一は、翼賛政治の中で弁護士としての役割を見失いそうになっているさなか、死刑囚となった父の無実を訴える谷口波子と偶然出会い、雪冤のために立ち上がる。元浮浪児で非行歴のある本郷辰治も、波子に出会ったことで検察官になって再審請求を行おうとする。
 伊藤太一は、道半ばで病に倒れた父の「宿題」を受け継ぐべく弁護士となり、再審弁護団に加わる。彼らも皆、最初から冤罪の救済や再審を目指していたわけではない。「知ってしまった以上、命を懸けるしかない」のだ。

 なお、日本では、死刑執行後に再審無罪となった事件も、検察官が死刑囚のために再審請求を行った例も、未だ現実には存在しない。
 しかし、日本をお手本に刑事司法制度を構築した台湾では、世論の盛り上がりを背景として、2014年、2019年の2度にわたり再審法が改正された。この改正が、法曹3者の意識改革をもたらし、その後検察官が死刑囚のために自ら再審請求をした2件について、再審無罪が確定している。

 袴田さんの事件を契機として、わが国でも再審制度を改革すべきとの気運が高まっている。ついに今国会(第217回)の会期末ぎりぎりのタイミングで、野党6党による再審法改正案が議員立法で国会に提出され、秋の臨時国会で審議される見通しとなった。
 しかし、超党派の議連で多数を占める与党は提出に加わらなかった。これまで再審法改正に極めて消極的だった法務省が、法制審での議論を経て内閣提出法律案として提出すべき、との意向に転じ、与党はこれに忖度したものと考えられている。

 日本の有罪率が99%を超えるのは「検察の優秀さ」ではなく「刑事司法の異常さ」を示しているという「驚愕の事実」
 https://gendai.media/articles/-/148505

 「一度も無罪判決を書いたことがない」裁判官がいるという「驚愕の事実」…なぜ刑事系裁判官は無罪を出すのに躊躇するのか?
 https://gendai.media/articles/-/148472

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 引用以上

 司法問題の本質は、自民党・維新・公明党政権が、国家権力を自分たちの利権に利用するため、警察官や司法官僚たちに思想的偏向を強いていることが根底にある。
 その自民・維新・公明の議員たちは、ほぼ全員、竹中平蔵の新自由主義=グローバルスタンダード戦略に薫陶、洗脳されていて、立憲や社民まで例外ではない。

 新自由主義社会は、ものすごい格差社会を生み、金持ち、権力者の「強者の国」を作り出す。底辺の弱者は、強者のための奴隷身分(ゴイム)に転落させられてゆくのだ。
 日本は弱者を踏み台にして、強者の利権ばかり追求する国になりつつある。

 警察は弱者を敵視する組織に変貌しつつある。底辺の人々の心に寄り添おうとしない。だから警察体制に幻滅した若い警察官たちが、平気で性犯罪や窃盗殺人まで犯すようになった。

 日本は、本来、鎌倉仏教の聖たちが全国を行脚し、釈迦の因果応報の教えを広めて回った。人間にとって一番大切なことは、人を思いやることのできる人情であると教えた。
 人情こそ日本社会の本質だったのだ。
 他人の悲しみ苦しみを思いやる心があれば、決して冤罪など起きない。
 冤罪は、司法関係者の利己主義、他人に共感できないサイコパスから起きるのだ。

 私は、もうすぐこの世から出てゆくが、若者たちが目指すべき国家は、「人情社会」しかないと確信している。
 人情のない国は滅亡するしかないのだ。金持ちや権力者の利権のために、大地を取り返しのつかないほど汚染し、人を住めなくしてしまう放射性廃棄物が大量に作られている。
 これも、人々の心を思いやれない利己主義が生み出したものであり、新自由主義の必然なのだ。

 冤罪を語るうえで、私は制度上の問題よりも、警察官や司法官僚が、人情に何の関心も持たない、この社会体制が、社会に冤罪のような地獄をもたらしていると思う。
 幼いころから競争を通じて、自分が他人を押しのけて高い地位や蓄財を求めることが正義だと洗脳されてしまっている社会だ。
 人間性よりも学歴や地位のような虚構が社会を支配している。

 こんな社会だから、権力者の序列とメンツを守るために、冤罪が限りなく再生産されれゆくのだ。
 メンツや地位や蓄財には何の価値もない。本当の価値は、その人の人間性と人情なのだ。この真実を見失う人が多いほど、冤罪解決の道が遠くなるのである。
 我々が必要としている人は、権力者ではない。人格者である。
 


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