「鍍金」読めたら超スゴい!
https://news.yahoo.co.jp/articles/43e9389eab1fa893cfda0b4ee98097c2fdd7237a
これを見て「えっ!」と驚いたのは私一人ではないだろう。
「鍍金=ときん=メッキ」なんて言葉は、私の辞書のなかでは、せいぜい当用漢字であって、こんな優しい言葉を知らない人がいることが信じられなかったからだ。
まさか、最近の若い衆は、安倍や麻生なみに日本語について無知になってしまっているのか? というのが私の驚きであった。
私は、「鍍金」という語を見た瞬間に、工場内の電解槽や金属部品や青酸カリや、その臭いまで瞬時に浮かび、メッキ工場から盗まれた青酸カリで、どれほどの殺人事件まで起きたのか、までゾロゾロと記憶が連なって出てくる。
まあ、「難読クイズ」を出されたら、長年生きている私でも、せいぜい半分くらいしか正解できないのだが、年をとるということは、日本語のなかに、歴史や体験が凝縮されて、一つ一つの言葉の厚みが増してゆくということでもある。
https://news.yahoo.co.jp/articles/e1c0fd252eef4213368fc474a4095cda9d94b3da
難読クイズが読めない理由も、過去に、その言葉を使ったことがあっても、その記憶が、「アレアレ、ソレソレ」と指示代名詞しか出てこなくなる加齢性認知症によることが多い。
我々が文章を書いたり、言葉で話しかけたりする場合、老人というのは、その言葉の背後にぼってりと連なった自身の長い歴史、体験がこびりついているのだ。
だから年寄りの文章というのは、自分の人生のなかからしみ出してくる体験に裏打ちされている……と、勝手に思いたい。
私は、幸い、父親が本好き、というより「蔵書を人に見せびらかしたい」という名誉欲への執念もあったかもしれないのだが、数千冊の本があったから、私も小学生の頃から、興味本位で片っ端から読みあさった。
代表的な全書が揃っていて、未だに日本を代表する知識人の著作が、応接間にホコリを被って放置されている。大半は、結局、ゴミとして処分するしかないものだ。
もう、60年以上前に集めたものばかりだから、多くは古典に属するものばかりで、今の若い人には、読む気力を失わせるような語彙が多いので、誰にも読んでもらえぬまま、哀れ煙となる運命が待っている。
私が、小学生のころ夢中になって読みあさったのは、古典的な単行本だった。
未だに心に刻まれているのは、例えば、プルタークス英雄伝。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E6%AF%94%E5%88%97%E4%BC%9D
これは、もう人類の宝というか、人類標準の基礎教養書である。プルタークス英雄伝を知らなければ西洋史を語ることをできないばかりでなく、古今東西の比喩を理解することもできにくい。
今でも、世界中の文学や、ニュースにですらカエサルの「ルビコン河を渡る」とか、「ブルータスお前もか」とか、世界の誰でも知ってる故事と、会話の前提にされる例えが、日常生活レベルでもいっぱい出てくるので、これを読んでないと基礎的な常識、国語力が世界標準に追いついてゆかないのだ。
そもそも、ギリシア・ローマ時代の故事が、西洋文明の基礎にあって、例えば、美術室に置いてある石膏像、カエサルやアグリッパや、デメトリオスなんてのは日本中にあるのだから、それが、どのような人物なのか、故事を知らなければデッサンの表現力にも差が出てくるだろう。石膏像も墓石程度の興味しか持てないだろう。
だが、今では、小中学校の教師でも、読んだことのない人が大半だろう。それは受験に出てこないからだ。
だから国語の指導でも、「ジークフリートの木葉」の意味も理解できていない人が、それを教えなければならない。
ジークフリート(シグルズ)は北欧・ゲルマン神話だが、西洋史においては、以下のウィキの膨大な記述のように物語は厚く、語り継がれてきた。ゲルマン文学の大切な土壌である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88
龍を殺して全身に血を浴びたジークフリートは無敵の皮膚を持ち、誰も体に傷をつけることさえできなかった。だが、菩提樹の木葉が一枚、背中に張り付いていて、そこだけ龍の肌に変えることができなかった。
王妃に恨まれたジークフリートは、奸計にはまり木の葉痕を突かれて死んだ。
この故事は、ゲルマン民族や北欧に広く語り伝えられていて、あらゆる例えに話に使われているので、これを知らなければ深い会話はできないのだ。
例えば、私が夏の山を歩くとき、必ずハッカ油スプレーを全身にかけてから歩き始めるのだが、それでも虫に刺されるとき、それはハッカ油を塗り残した「ジークフリートの木の葉」なのである。
人が何か失敗すると、その原因になった「ジークフリートの木葉」がなんであったのかと探すのがゲルマン民族の思考原則である。
この基礎教養が、どれほど大切なものか、分かるだろう。
西洋的な思考法では、「ルビコン河」や「ジークフリートの木葉」を知らなければ、基礎教養のない人間と思われてしまって、会話が成り立たない。
だから、プルタークス英雄伝なんかは、子供のうちから教科書に載せて子供たちが読むべき教養なのである。
ゲーム三昧の子供たちに、褒美で吊ってでも読ませるべきものだ。読後に、内容をクイズにすれば、世界の基礎教養についてゆけるようになるだろう。
ついでに言えば、ユダヤ教徒は、13歳になるまでに、旧約聖書のトーラー五編を完全暗唱する義務がある。ラビや自分の家族の前で、これを間違いなく語ることができて、はじめて一人前と認められる元服式のようなものだ。
ユダヤ人は超高知能で知られるが、実は、この習慣こそが、ユダヤの本当の秘密である。悪い意味では、陰謀の教科書を刷り込まれる。
だから、ユダヤ人の、あらゆる発想、行動の根源に旧約聖書がある。
日本の場合は、江戸時代初期に朱子学が入ってきて、徳川幕府は、各藩に、これを学ぶよう強制して、当時、世界最高の就学率を誇った日本中の藩校・私塾・寺子屋で、これを教えた。
使われた教科書は、庭訓往来・今川状・大學・中庸・實語教・論語・商賣往来・孟子・童子教・孝経五経などで、いわずとしれた儒教、孔子文学ばかりだ。
司馬遷の史記も、常識的教養に含まれていた。
この思想的影響は、非常に巨大で、だから明治維新後の新政府でも、儒教由来の国家主義が圧倒的に流行した。私は、太平洋戦争の遠因として捉えている。
過去、何度もブログに書いてきたが、孔子の基本原理は、「知らしめるべからず、依らしめるべし」という民主主義の対極にある権力主義である。
江戸時代から明治時代は、上の儒教的思考法が、あらゆる日本人の基礎教養としてすり込まれてきたから、日本的な反民主主義価値観の根源地といえなくもない。
私も、プルタークス英雄伝とともに、史記から派生した、さまざまな物語にも夢中になった。
とりわけ、中島敦に首ったけになって読みあさった。今考えると、あんなに難しい表現を、ろくに漢字も知らない小学生の私が、よく読めたものだと感心するのだが、私は、「李陵」や井上靖の「天平の甍」なんかを読んで、なぜか涙がこぼれ落ちた。
もしろん、三国志や水滸伝も繰り返し読んだから、中国への関心は深い。
鴎外の舞姫も、文語体でありながら、もの凄い感情移入をしたことを記憶している。私は、未だに官僚の存在が許せないのは、あの大田原のせいではないかと思っている。
文語体のリズムは、ちょうど和歌や俳句のようで、リズミカルなテンポが、心に染み入ってきた。
意味も分からないはずの難解な漢字の羅列のなかに、ポロポロ涙した不思議な体験は、今だに何だったのか理由が分からないが、小学生から我が家の書庫を夢中になって読みあさったおかげで、私の歴史や国語の成績は、いつでも学年トップクラスだった。
ただし、嫌いな教師の科目は、まるでダメオだったが。
とりとめもなく書き進んできたが、何を言いたいかというと、子供時代には、一生を左右する基礎教養を身につけておかないと、人類に生まれた意味を理解できない大人になってしまう。
私は、今の若者たちの多くがネトウヨのような軽薄な思考法をする理由は、たぶん、必要な時期に必要な教養を身につけなかったせいではないかと思っている。
私がタクシー運転手時代の体験をブログに書いたりすると、「たかがタクシー運転手風情で、偉そうにしやがって」などと反応する馬鹿が無数に出てきて、下劣なコメントを書き殴って、私を見下し、嘲笑して喜んでいる。
だが、その語彙の貧弱さ、無教養にの情けなさに絶望するしかない。
医師という職業の者まで、常軌を逸した下劣な反応で、私を嘲笑することに全精力を費やしている者さえいるのだ。
この男は、医学の知識以外に、何一つ人生を知らないのかと呆れ果てている。
結局、これも、教養を貯めるべき大切な時期に、人間としての基礎知識を学ばなかったせいだろうと思っている。
子供たちを塾に通わせ、競争に勝たせることしか考えず、貧弱なゲームをやらせておく前に、プルタークス英雄伝や、三国志、史記列伝などを買い与えることも大切なのではないだろうか?
「読むはずがないって……」 嗚呼……
https://news.yahoo.co.jp/articles/43e9389eab1fa893cfda0b4ee98097c2fdd7237a
これを見て「えっ!」と驚いたのは私一人ではないだろう。
「鍍金=ときん=メッキ」なんて言葉は、私の辞書のなかでは、せいぜい当用漢字であって、こんな優しい言葉を知らない人がいることが信じられなかったからだ。
まさか、最近の若い衆は、安倍や麻生なみに日本語について無知になってしまっているのか? というのが私の驚きであった。
私は、「鍍金」という語を見た瞬間に、工場内の電解槽や金属部品や青酸カリや、その臭いまで瞬時に浮かび、メッキ工場から盗まれた青酸カリで、どれほどの殺人事件まで起きたのか、までゾロゾロと記憶が連なって出てくる。
まあ、「難読クイズ」を出されたら、長年生きている私でも、せいぜい半分くらいしか正解できないのだが、年をとるということは、日本語のなかに、歴史や体験が凝縮されて、一つ一つの言葉の厚みが増してゆくということでもある。
https://news.yahoo.co.jp/articles/e1c0fd252eef4213368fc474a4095cda9d94b3da
難読クイズが読めない理由も、過去に、その言葉を使ったことがあっても、その記憶が、「アレアレ、ソレソレ」と指示代名詞しか出てこなくなる加齢性認知症によることが多い。
我々が文章を書いたり、言葉で話しかけたりする場合、老人というのは、その言葉の背後にぼってりと連なった自身の長い歴史、体験がこびりついているのだ。
だから年寄りの文章というのは、自分の人生のなかからしみ出してくる体験に裏打ちされている……と、勝手に思いたい。
私は、幸い、父親が本好き、というより「蔵書を人に見せびらかしたい」という名誉欲への執念もあったかもしれないのだが、数千冊の本があったから、私も小学生の頃から、興味本位で片っ端から読みあさった。
代表的な全書が揃っていて、未だに日本を代表する知識人の著作が、応接間にホコリを被って放置されている。大半は、結局、ゴミとして処分するしかないものだ。
もう、60年以上前に集めたものばかりだから、多くは古典に属するものばかりで、今の若い人には、読む気力を失わせるような語彙が多いので、誰にも読んでもらえぬまま、哀れ煙となる運命が待っている。
私が、小学生のころ夢中になって読みあさったのは、古典的な単行本だった。
未だに心に刻まれているのは、例えば、プルタークス英雄伝。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E6%AF%94%E5%88%97%E4%BC%9D
これは、もう人類の宝というか、人類標準の基礎教養書である。プルタークス英雄伝を知らなければ西洋史を語ることをできないばかりでなく、古今東西の比喩を理解することもできにくい。
今でも、世界中の文学や、ニュースにですらカエサルの「ルビコン河を渡る」とか、「ブルータスお前もか」とか、世界の誰でも知ってる故事と、会話の前提にされる例えが、日常生活レベルでもいっぱい出てくるので、これを読んでないと基礎的な常識、国語力が世界標準に追いついてゆかないのだ。
そもそも、ギリシア・ローマ時代の故事が、西洋文明の基礎にあって、例えば、美術室に置いてある石膏像、カエサルやアグリッパや、デメトリオスなんてのは日本中にあるのだから、それが、どのような人物なのか、故事を知らなければデッサンの表現力にも差が出てくるだろう。石膏像も墓石程度の興味しか持てないだろう。
だが、今では、小中学校の教師でも、読んだことのない人が大半だろう。それは受験に出てこないからだ。
だから国語の指導でも、「ジークフリートの木葉」の意味も理解できていない人が、それを教えなければならない。
ジークフリート(シグルズ)は北欧・ゲルマン神話だが、西洋史においては、以下のウィキの膨大な記述のように物語は厚く、語り継がれてきた。ゲルマン文学の大切な土壌である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88
龍を殺して全身に血を浴びたジークフリートは無敵の皮膚を持ち、誰も体に傷をつけることさえできなかった。だが、菩提樹の木葉が一枚、背中に張り付いていて、そこだけ龍の肌に変えることができなかった。
王妃に恨まれたジークフリートは、奸計にはまり木の葉痕を突かれて死んだ。
この故事は、ゲルマン民族や北欧に広く語り伝えられていて、あらゆる例えに話に使われているので、これを知らなければ深い会話はできないのだ。
例えば、私が夏の山を歩くとき、必ずハッカ油スプレーを全身にかけてから歩き始めるのだが、それでも虫に刺されるとき、それはハッカ油を塗り残した「ジークフリートの木の葉」なのである。
人が何か失敗すると、その原因になった「ジークフリートの木葉」がなんであったのかと探すのがゲルマン民族の思考原則である。
この基礎教養が、どれほど大切なものか、分かるだろう。
西洋的な思考法では、「ルビコン河」や「ジークフリートの木葉」を知らなければ、基礎教養のない人間と思われてしまって、会話が成り立たない。
だから、プルタークス英雄伝なんかは、子供のうちから教科書に載せて子供たちが読むべき教養なのである。
ゲーム三昧の子供たちに、褒美で吊ってでも読ませるべきものだ。読後に、内容をクイズにすれば、世界の基礎教養についてゆけるようになるだろう。
ついでに言えば、ユダヤ教徒は、13歳になるまでに、旧約聖書のトーラー五編を完全暗唱する義務がある。ラビや自分の家族の前で、これを間違いなく語ることができて、はじめて一人前と認められる元服式のようなものだ。
ユダヤ人は超高知能で知られるが、実は、この習慣こそが、ユダヤの本当の秘密である。悪い意味では、陰謀の教科書を刷り込まれる。
だから、ユダヤ人の、あらゆる発想、行動の根源に旧約聖書がある。
日本の場合は、江戸時代初期に朱子学が入ってきて、徳川幕府は、各藩に、これを学ぶよう強制して、当時、世界最高の就学率を誇った日本中の藩校・私塾・寺子屋で、これを教えた。
使われた教科書は、庭訓往来・今川状・大學・中庸・實語教・論語・商賣往来・孟子・童子教・孝経五経などで、いわずとしれた儒教、孔子文学ばかりだ。
司馬遷の史記も、常識的教養に含まれていた。
この思想的影響は、非常に巨大で、だから明治維新後の新政府でも、儒教由来の国家主義が圧倒的に流行した。私は、太平洋戦争の遠因として捉えている。
過去、何度もブログに書いてきたが、孔子の基本原理は、「知らしめるべからず、依らしめるべし」という民主主義の対極にある権力主義である。
江戸時代から明治時代は、上の儒教的思考法が、あらゆる日本人の基礎教養としてすり込まれてきたから、日本的な反民主主義価値観の根源地といえなくもない。
私も、プルタークス英雄伝とともに、史記から派生した、さまざまな物語にも夢中になった。
とりわけ、中島敦に首ったけになって読みあさった。今考えると、あんなに難しい表現を、ろくに漢字も知らない小学生の私が、よく読めたものだと感心するのだが、私は、「李陵」や井上靖の「天平の甍」なんかを読んで、なぜか涙がこぼれ落ちた。
もしろん、三国志や水滸伝も繰り返し読んだから、中国への関心は深い。
鴎外の舞姫も、文語体でありながら、もの凄い感情移入をしたことを記憶している。私は、未だに官僚の存在が許せないのは、あの大田原のせいではないかと思っている。
文語体のリズムは、ちょうど和歌や俳句のようで、リズミカルなテンポが、心に染み入ってきた。
意味も分からないはずの難解な漢字の羅列のなかに、ポロポロ涙した不思議な体験は、今だに何だったのか理由が分からないが、小学生から我が家の書庫を夢中になって読みあさったおかげで、私の歴史や国語の成績は、いつでも学年トップクラスだった。
ただし、嫌いな教師の科目は、まるでダメオだったが。
とりとめもなく書き進んできたが、何を言いたいかというと、子供時代には、一生を左右する基礎教養を身につけておかないと、人類に生まれた意味を理解できない大人になってしまう。
私は、今の若者たちの多くがネトウヨのような軽薄な思考法をする理由は、たぶん、必要な時期に必要な教養を身につけなかったせいではないかと思っている。
私がタクシー運転手時代の体験をブログに書いたりすると、「たかがタクシー運転手風情で、偉そうにしやがって」などと反応する馬鹿が無数に出てきて、下劣なコメントを書き殴って、私を見下し、嘲笑して喜んでいる。
だが、その語彙の貧弱さ、無教養にの情けなさに絶望するしかない。
医師という職業の者まで、常軌を逸した下劣な反応で、私を嘲笑することに全精力を費やしている者さえいるのだ。
この男は、医学の知識以外に、何一つ人生を知らないのかと呆れ果てている。
結局、これも、教養を貯めるべき大切な時期に、人間としての基礎知識を学ばなかったせいだろうと思っている。
子供たちを塾に通わせ、競争に勝たせることしか考えず、貧弱なゲームをやらせておく前に、プルタークス英雄伝や、三国志、史記列伝などを買い与えることも大切なのではないだろうか?
「読むはずがないって……」 嗚呼……