長生村一松丙、県道123号線沿いの三角地に鎮座される「一松(ひとつまつ)神社」。 御祭神は『高皇産靈尊(たかみむすびのみこと)、神皇三靈尊(かみむすびのみこと))、建御名方命(たけみなかたのみこと)』
一の鳥居から二の鳥居へ、若草の優しい緑を見ながら歩く境内は、とても清々しく、心地よい気分にさせてくれます。
由緒「もと「第六天、諏訪両社」といい、「第六天神」は寛治2年(1088)の創建と伝えられ、天正の末年ごろ、「諏訪神社」を合祀したといわれます。社殿は、慶長 19年(1614)11月再建し、延宝のころから『地頭:内藤式部小輔正勝』の守護あつく、寛保元年(1741)9月、内藤下総守大願主となり、『神官:狩野播磨守保信』のとき、社殿を造営しました。大工棟梁は一松の『長左衛門』、屋根棟梁は江戸の『一左衛門』でした。」
ご本殿の屋根に見えた御神紋は「上諏訪梶の葉紋」。かっての諏訪社の名残と思われます。
文化の初頭に拝殿、幣殿を消失。現在の拝殿、幣殿は、文政2年(1819)9月の再建。
千鳥破風つき権現造りの拝殿の懸魚には羽を広げる「翼龍」。四神龍の中心にされる黄龍で、高みから神域を守護されます。
向拝には「力神」を始めとした精巧な彫刻が沢山見られ、一つ一つが素晴らしい作品ばかり。 かなりの数があり、どれをとっても外せない作品ばかりだったので、明日まとめての紹介で。
拝殿内に奉納されていた絵馬は「伊勢詣道中記」で、長生村の有形文化財に指定。 長生村文化財マップに「この絵馬は、全国的飢饉にあえいだ天保 7(1836)年一松郷内の人々、驚村東間茂左衛門ほか17人が、「伊勢皇太神宮」に詣で、道中つつがなく帰村し、報恩感謝の心をもって、遊歴の『絵師:春渓』に、道中姿を板に描かせ、九月、「第六天、諏訪両社(一松神社)」へ奉納した小絵馬である。。幕末のころ、国学が盛んとなり、『平田篤胤』に国学、神道を学んだ、『神官:狩野伊豆守保村』の教化であろうか。五穀豊穣、家内安全を祈ったのであろう。時代世相を反映し、旅装束の手甲、脚絆、紺の股引き、すげ笠は、その頃の風俗を知る上で、歴史的絵馬として貴重である。」
拝殿前より神域を守護されるのは、大正9年(1920)11月建立の江戸流れっぽい狛犬さん一対。 流れ独特の尾ではありませんが、それは多分に彫が浅いと感じた所為かもしれません。
顔立ちがとても人懐こそうに見えるのは、なんとなく太ましい😅四肢のせいかも。 コロンと丸っこい体は、我が家で帰りを待つ愛猫に似て、思わずその背を撫でてやりたい気持ちにさせます。
境内の一画にある小さな建物には、一松神社の神占い「御的神事」の的が立て掛けられています。 この「御的神事」が最初に行われたのは、天文3年(1534)正月4日といわれており、それは今も途絶えることなく現在に至っています。
【和紙28枚を張り合わせて作った直径90センチのお的には、白と黒の六重の丸を描いたものを3 本の竹で支えます。弓を射るのは神主で、お的を15メートルくらいのところから射ます。第1の矢は、この年の吉凶(神の矢)、第2の矢は、早生稲の豊凶(早生の矢)、第3の矢は(中生の矢)、第4の矢は、晩生稲の豊凶(晩生の矢)。これらの神占により作柄を予想して種蒔きをします。神社の年の初めに行われる神事の一つで、現在もそれぞれの子孫が受け継いでいます。】境内案内より
参道の途中には、祖国を守って殉じられた長生村の方々の「忠魂碑」が建立されています🙏🙏
参拝日:2019年3月9日
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