「岩科学校」の紹介は昨日であらかた終わりましたが、もう一つ、絶対に外せない素晴らしい物を最後に紹介します。 それは、学校の建設に当たり、名人と謳われていた「伊豆の長八」に依頼した鏝絵装飾の話。三回に分けた「岩科学校」、ラストの〆は「伊豆の長八と岩科学校」としました。
まずは正面、唐破風屋根の兎の毛通しの「龍」は、長八が、棟梁の「鑿(のみ)」を借りて彫ったもの。 頭の中に、長八が鑿を借りる場面が、ついでに渋い声で、「棟梁、ちょいとあたしにその鑿を貸しておくんなはい。」「外ならぬ長さんのこった。構わねえがなにをするんでい?」・・・なんてやり取りまで聞こえて・・ああ、重症です(笑)
お馬鹿な妄想は置いといて、何と言っても「岩科学校&入江長八」と並べば、鏝絵ファンならずとも必見の「鶴の間」。
本来は二階:西の間と呼ばれる日本間で、「作法」や裁縫の授業にも利用されていたそうです。 今どきのお子様には「お作法」なんて言葉は死語かも知れませんが、当時は学問と同等に大切なことでした。
正面の床の間は、昇る太陽を表現した紅の壁。太陽そのものでなく色のみで表現しています。
床の間から続く脇床には緑を配し、「常盤木(ときわぎ)」とも呼ばれる「松」を表します。一見、書きなぐりの幾何学模様のようにも見えますが、これもすべて鏝で丁寧に描かれています。
高さの異なる「床脇棚」には、それぞれの杉戸に趣向をこらした絵が書き込まれています。 画像では見え難いですが、「山水図」は、木地に金砂子を撒いた上に、山水の線描を鏝で描いたもの。
少し背の高い「床脇棚」には、鮮やかな色彩を駆使して、唐国の美女と取り取りの蓮の花。 いずれも長八の手になるものですが、それにしてもその多才さには心底驚嘆させられます。
江戸に出た長八は、21歳の折に『谷文兆(たに ぶんちょう)』の高弟、『喜多武清』に付き、狩野派の絵を学んでいます。
唐の佳人が蓮の花を観賞する様を描いた「美人賞蓮(しょうれん)の図」。これが鏝絵とは、言われて説明されなければきっと「素敵な絵」として見逃していたかも。もっとも、長八美術館であれだけの鏝絵を見た後なら、あえて驚くほどではありませんね。・・ってやっぱり驚愕しますよ(^^;)
床の間の端に置かれた地味な二つの壷は、漆喰粘土を使って作った長八作の花瓶。 さすがにこういった渋い作品は、骨董に造詣の無い凡人の私には、本当の良さなんてよくわからないのが本音(^^;)
そして、紅の床の間中央には、いずくかの寺社の懸魚(げぎょ)にあった、長八作の「鶴」。 大きく羽を広げた姿は、鶴の間の置物としてはこれ以上ふさわしい題材は無いかもしれません。
さらに・・・部屋を取り囲む欄間には、一羽一羽形を変えて描かれた138羽の鶴。 鶴の間と名づけられた由来は、名工・入江長八の最高傑作と称されるこの鶴の鏝絵ゆえなのです。
鶴たちが目指す先は紅に染まる日の出の空。大空高く飛翔する姿は、ここに学ぶ子供たちの姿。 138羽の鶴は、当時の生徒数に相当するそうで、そこにも長八の想いが籠められているようです。
その美しさに感動し、しばし熱に浮かされたような気持ちで、鶴たちの行方を追い続けました。 青い空の高みを目指し飛翔する鶴の姿に、目を輝かせて学びの道を行く子供たちの姿が重なり・・いつの間にかこぼれた涙にあわてて顔を振り、はるかな時代に思いを馳せ、鶴の間を後にしました。
叶うことならいつか再びこの地を訪ね、青空の中を飛翔する138羽の鶴にもう一度会いたいと願いながら。
訪問日:2011年11月9日