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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

月讀(つきよみ)神社 in 京都府京都市西京区

2025年07月29日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

「松尾大社」の南約400メートル、京都市西京区松室山添町に鎮座される「境外社・月讀(つきよみ)神社」。式内社(名神大社)で松尾大社摂社とされます。

御祭神は『月読尊』。海人の壱岐氏(いきうじ)によって祀られた「海の干満を司る神・月神」とされています。また別の神格として、壱岐氏が卜部を輩出したことから亀卜の神とする説もあります。

この「月讀神社」と同じく境外摂社である「櫟谷社」に、本社:松尾大社を合わせて「松尾三社」。さらに境外末社「宗像社・三宮社・衣手社・四大神社」を加えた7社で「松尾七社」と称します。いずれも広範囲にわたって鎮座されており、参拝を果たしていません。

市の指定史跡である「月讀神社」の境内は、「松尾大社」とは対極の静かさで、他に人影はありません。おかげで一つ一つの建物の佇まいをゆっくりと拝観でき、心置きなく参拝することができました。

本殿の隣に鎮座される「月延石(つきのべいし)」は 「安産石」とも呼ばれ、安産の神として信仰されています。『雍州府志』所載の伝説では、この石は元は筑紫にあり、神功皇后が応神天皇を産む際にこの石で腹を撫でて安産し、のち舒明天皇の時に月読神社に奉納されたと伝えられています。

末社「聖徳太子社」。御祭神は「聖徳太子」。月読尊を崇敬した太子の霊を祀ったものと伝えられます。

ここに来るまでに幾つかの神社に立ち寄り、思いがけず長い時間を費やしたようです。あたりはすっかりと夕方の気配。さぁ、渋滞の道路をすり抜けながら、とっとと家路に急ぐとしましょう😊

参拝日:2009年11月15日


松尾(まつのお)大社 in 京都府京都市西京区

2025年07月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

西京区嵐山宮町に鎮座される「松尾(まつのお)大社」。式内社で、二十二社(上七社)の一社。標高223メートルの松尾山を神体山とし、御祭神は『大山咋神、中津島姫命』。

「太古より、松尾山の山霊でもある「大山咋神」を頂上に近い大杉谷の上部の磐座(いわくら)に祀って、生活の守護神として尊崇したのが始まりと伝えられる。大宝元年(701)に勅命によって秦都理(はたのとり)が現在地に社殿を造営し、松尾山の磐座から神霊を同地へ移したのが創建とされる」

また酒神としての信仰も篤く、狂言「福の神」によると、松尾神は「神々の酒奉行である」とされ、現在も神事に狂言「福の神」が奉納されるほか、「日本第一酒造神」として酒造関係者の信仰を集めています。

そうした信仰の篤さは、神輿庫に積み上げられた奉納菰樽の山からも容易に察する事ができます。

境内入り口、二の鳥居には『有栖川宮幟仁親王』御宸筆の額が架けられ、貫には「脇勧請」が下げられています。脇勧請とは榊の小枝を束ねたもので、これは鳥居の原始形式を示すものと伝えられています。またこの束の数にも決まりがあり、平年は12本、閏年は13本吊り下げる慣わしとなっています。

その鳥居脇より神域を守護されるのは大正14年(1925)建立の浪速狛犬さん一対。見上げる位置にあり、その形相はかなりのいかつさ・・小さな子供さんだと泣いてしまうかもしれません。でも本当はすっごく優しいんだけどね・・

参道正面に建つ高さ約11メートルの入母屋造檜皮葺の楼門は、寛文7年(1667)の棟上げ。

中門正面にある檜皮葺・入母屋造の拝殿は広場の中央に位置し、大祓式のほか各種神事でも使用されます。

本殿は応永4年(1397)に再建されたのち、天文11年(1542)に大改修されました。形式は桁行三間・梁間四間、一重、檜皮葺。屋根は側面から見ると前後同じ長さに流れており、この形式は「両流造」・「松尾造」とも言われる独特のもので、国の重要文化財に指定されています。

松尾大社では神使(しんし)を亀とすることが知られており、境内の様々な場所で、神使いである亀さんに出会う事ができます。最も代表的な場所では手水舎の亀、こちらは玄武と呼ばれるタイプ。

じかにその体にふれる事で願いをたくす「撫で亀さん」。撫でやすいように甲羅はなめらか。天満宮の「撫で牛さん」と同じですね。

社殿の背後にある松尾山からの湧水「亀の井」。この水を酒に混ぜると腐敗しないといわれ、醸造家がこれを持ち帰って混ぜるという風習が現在も残ってます。松尾大社が酒の神として信仰されるのも、この亀の井に由来するものです。

もちろん、ここでも神使いの亀さんが、吐水の役を果たされています。

「亀の井」の名称は、松尾大社の神使が亀であることに由来するとされます。神社文書によれば、松尾神は大堰川を遡り丹波地方を開拓するにあたって急流では鯉に、緩流では亀に乗ったといい、この伝承により鯉と亀が神使とされました。

滝御前の後方には「霊亀の滝 」と呼ばれる滝があります。水量は豊とは言えませんが、流れ落ちる水は決して枯れる事はないそうです。

4月の第四日曜日に行われる「神幸祭(おいで)」では、大社を出た六基の神輿が桂離宮の西方に着き、川幅約200mの桂川を、手漕ぎでゆったりと渡る船渡御(ふなとぎょ)が行なわれます。

境内の一画に保存されていた「駕輿丁船(かよちょうふね)」。こういうのを見てしまうと、お祭りに参加したい!!という思いがふつふつと湧いて来ます。

参拝日:2009年11月15日


東福寺塔頭:天得院 in 京都府京都市東山区

2025年07月28日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

東福寺塔頭寺院「萬松山天得院(ばんしょうざんてんとくいん)」。桔梗の寺として名高く、京都屈指の花の寺として知られます。

「東福寺第三十世住持『無夢一清(むむいっせい)禅師』によって、正平年間(1346〜1370)開創。東福寺五塔頭の一つとして隆盛を誇るも、年とともに荒廃。中興の祖『大機慧雄(だいきえゆう)禅師』により再興され、慶長十九年(1614)東福寺第二二七世『文英清韓(ぶんえいせいかん)長老』が住持となる。清韓は『豊臣秀吉、秀頼』の五山の学僧として寵遇され、秀頼の依頼により、方広寺の鐘銘を撰文したが、銘文中の「国家安康、君臣豊楽」の文字が徳川家を呪うものとして『徳川家康』の怒りを招き、天得院は取り毀されたと言われる。」公式HPより

あの有名な、家康の難癖、嫌がらせの舞台であったことに、かなり驚いた私・・そうか・・ここだったんだ。

と・・カルチャーショックの件はおいといて、私たちが東福寺に来たのは、そもそも、この天徳院の苔の庭に咲く桔梗が目当て。

枯山水庭園は桃山時代に作庭されたものと言われ、瑞々しい緑の杉苔に、美しい花々が四季を彩ります。

びっしりと杉苔に覆われた庭園に凛と咲く桔梗の青・・・白。その美しさに時間も暑さも忘れてただ魅入る私。

方丈の花頭窓から見る苔の庭の美しさは、また格別の趣があり、この景色を見るために行列ができていました。実際は、若いカップルが後に並ぶ多くの参拝者をガン無視し、一等席を占領したまま動こうとしなかったのが原因👊・・実は私・受付の方にこっそり耳打ちしちゃいました😅

二十五か寺の塔頭のうち、私たちがきちんと拝観したのは桔梗の寺:天得院だけでしたが、後のそぞろ歩きで立ち寄った塔頭「虚霊山・明暗寺(みょうあんじ)」

時代劇の舞台そのままの苔の庭・・尺八を吹く虚無僧の姿がここにあってもきっと誰も驚かないだろう・・

ちなみに虚無僧が「明暗」と書いた偈箱(げばこ)を下げていますが、あれは単に寺の名前。「私は明暗寺の所属である」という、名札のようなものです。

小野小町ゆかりの寺で、長州藩の陣が置かれた「退耕庵」。雪舟作の名庭を伝える「雪舟寺」。虹の苔寺で知られる「光明院」。毘沙門天の寺として知られる「勝林寺」・・・どう考えても時間が足りない😅

参拝日:2007年6月30日


慧日山東福寺(とうふくじ) in 京都府京都市東山区

2025年07月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

京都市東山区本町に門を構える臨済宗東福寺派大本山「慧日山東福禅寺(えにちさん とうふくぜんじ))」『釈迦如来』を本尊とします。京都屈指の紅葉の名所として知られ、京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄え、今なお25か寺の塔頭(山内寺院)を有する東福寺。国宝の三門は、応永32年(1425)足利義持により再建、現存する禅寺の三門としては日本最古のものです。

「摂政九條道家が、奈良における最大の寺院である東大寺に比べ、また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で、「東」と「福」の字を取り、京都最大の大伽藍を造営。嘉禎2年 (1236)~建長7年(1255)までの19年を費やして完成。その後火災や兵火などにより幾度となく焼失するも、都度再建がなされ、大正6年(1917)より本堂(仏殿兼法堂)の再建に着工、昭和9年(1934)に落成した。」公式HPより

入母屋造、裳階付きの本堂は、仏殿兼法堂の形式を持ち、高さ25.5メートル、間口41.4メートルの大規模な堂で、昭和期の木造建築としては最大級のもの。

本堂内正面には本尊である「釈迦三尊像(中尊は立像、脇侍は阿難と迦葉)」。明治14年の火災後に塔頭万寿寺から移されたもので、鎌倉時代の作とされます。

天井の「蒼龍図」『堂本印象』の筆になるもの、これほどの距離を持ってもその迫力が薄まることはありません。

三門の向かって右手に伸びる「五社大明神」への石段。中ほどまで登った左手に、藤原家の先祖である比良の魔王(比良明神:天狗)を祀る「魔王石堂」。その横に、 比良明神のお告げで 康永2年(1343)に九条道家が造立した重要文化財の「十三重石塔」。魔王道の扁額に不思議な玉響(たまゆら)が・・

石段の先には、寛元元年(1243)に法性寺成就宮を東福寺の鎮守とした「五社成就宮」が鎮座。『石清水八幡・賀茂・稲荷・春日・日吉(山王)神』が奉られます。

三門向かって右手に重要文化財の「浴室」。前面を入母屋造、後方を切妻造にした単層本瓦葺の建物で、国内では最大。東大寺の湯屋に次いで古く、長禄3年(1459)に建てられた京都最古の浴室建築の遺構として知られます。

三門の正面に「思慮池」、蓮の花は盛りを過ぎていましたが、それでもこうした場所には最もよく似合う花です。

「思慮池」の左手に「勅使門」

正面前庭、「通天橋」へと至る「方丈唐門 」は昭憲皇太后より下賜されたもので、明治42年(1909)の造営。後方に見える屋根は「方丈」。

方丈唐門から回廊を進むと、通天橋拝観受付に至ります。

庫裏より塔頭龍吟庵・即宗院に至る三ノ橋渓谷に架かる単層切妻造・桟瓦葺きの木造橋廊「偃月橋(えんげつきょう)」。慶長8年(1603)に再建、1967年に重要文化財に指定され、日本百名橋にも選ばれています。

一般の人はむろん、自転車まで渡れる「臥雲橋」。この橋の中ほどから見える東福寺の通天橋・・紅葉の季節はそれは凄いだろうと容易に想像できます。

仏殿から常楽庵に至る渓谷・洗玉澗に架けられた橋廊「通天橋」。天授6年(1380)に春屋妙葩が谷を渡る労苦から僧を救うため架けたと伝えられます。1959年に台風で崩壊しましたが2年後に再建、その際橋脚部分は鉄筋コンクリート造となりました。

参拝日:2007年6月30日


泉涌寺 ・塔頭寺院 in 京都府京都市東山区

2025年07月27日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

規模の大きな寺院には「塔頭(たっちゅう)」と呼ばれる小規模な寺院が存在します。元々「塔頭」とは禅宗寺院において、祖師や門徒高僧の死後にその弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄り添って建てた墓塔や庵などの小院を指したものですが、時代と共にその形も変遷していきます。今回の「泉涌寺」参拝では、道すがらに点在する幾つかの「塔頭寺院」にも参拝しました。

最初に尋ねたのは、泉涌寺塔頭寺院「法音院(ほうおんいん)」『不空羂索観音』を本尊とします。

「洛陽三十三所観音霊場第二十五番札所」。「泉山七福神巡り第七番(寿老人)札所」としても知られ、この日も多くの七福神巡りの方で賑わっていました。

続いて「戒光寺(かいこうじ)」。正式名称を「戒光律寺」とし、運慶・湛慶父子の合作である『丈六:釈迦如来立像』を本尊とすることから、親しみをこめて「丈六さん」と称されます。

「京都十三仏霊場第三番札所」であり、「泉山七福神巡り第二番(弁財天)札所」としても知られます。

深い緑の中に映える朱塗りの鳥居橋を渡った先に「今熊野観音寺」。正式には「新那智山:観音寺(かんのんじ)」とし、「十一面観世音菩薩(秘仏)」を本尊とします。

由緒に「大同2年(807)、東山から光が出ているのを見つけた空海が当地にやってきたところ、老人の姿をした熊野権現が現れ一寸八分の十一面観音菩薩像を手渡し、この地に一宇を建ててこの観音菩薩を祀り、衆生を救済するようにと告げます。そこで空海は自ら一尺八寸の十一面観音菩薩像を刻み、授かった一寸八分の像を体内仏として中に納め、この地に一宇を建てて奉安しました。」

「西国三十三所第十五番札所」。境内には「東山大師」と呼ばれる大師堂があり、多くの参拝者の姿がありました 。

境内の一画に、1200余年の長きに渡って清水が湧き出すと云う井戸が有ります。その昔、弘法大師が当山を開かれるときに錫杖をもって岩根をうがたれたところ霊泉が湧出。大師はこれを観音御利生の水として崇め「五智水」と名付けられました。その五智水が井戸水として湧き出しているのが「五智の井」です。

「明応山:来迎院(らいごういん)」『阿弥陀如来』を本尊とする塔頭寺院です。寺伝に「大同元年(806)、空海が唐で感得した「三宝荒神像」を安置して開創」とあり、「泉山七福神巡り第4番(布袋尊)札所」としても知られます。

赤穂浪士で有名な「大石内蔵助縁の寺」としても知られ、吉良邸の討ち入り成就を祈願した念持仏「勝軍地蔵尊」や、内蔵助が建立した茶室「含翆軒」が現存。軒下には内蔵助の書による「含翠」の扁額が見えます。

境内の一画にある「独鈷水」。たまたまだったのか、それとも水枯れしたのか、水はありませんでした。

真言宗泉涌寺派・泉涌寺塔頭寺院の最後は「善能寺(ぜんのうじ)」『聖観音』を本尊とし、「洛陽三十三所観音霊場第十八番札所」として知られます。弘仁14年(823)に空海がこの寺に「荼枳尼天」を祀って寺の名称を善能寺に改めたと伝えられており、稲荷大明神(荼枳尼天)を日本で最初に祀った寺ともされます。

建築家『大森健二氏』によって昭和47年に造営された本堂「祥空殿」。昭和46年に北海道横津岳で遭難した航空機「ばんだい号」の犠牲者が善能寺と縁があった事から、遺族の寄進によって「すべての航空殉難者の慰霊と事故の絶無」を祈願し建立されました。

参拝日:2007年11月17日


泉涌寺(せんにゅうじ) in 京都府京都市東山区

2025年07月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

紅一色の紅葉も見事で美しいものですが、常緑が混在する紅葉は、また格段の趣があります。今回は、東山三十六峰の南端:月輪山の山麓に広がる「泉涌寺(せんにゅうじ)」への参拝です。

京都市東山区泉涌寺山内町に門を構える真言宗泉涌寺派総本山「東山(とうざん)または泉山(せんざん):泉涌寺」『釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来』の三世仏を本尊とし、皇室の菩提寺(皇室香華院)である事から「御寺(みてら)」と呼ばれます。

伝承によれば、斉衡3年(856)、左大臣藤原緒嗣が、自らの山荘に神修上人を開山として草創。当初は法輪寺と称し、後に仙遊寺と改めたという。また別の伝承では、空海が天長年間(824~834)に、この地に草創した法輪寺が起源であり、斉衡2年(855)藤原緒嗣によって再興され、仙遊寺と改めたとするとあります。空海による草創年代を大同2年(807)とする伝承もあり、この寺院が後の今熊野観音寺(泉涌寺山内、西国三十三所観音霊場の第15番札所)となったとも云います。

重要文化財の「大門」は、慶長年間(1596~1615)造営の御所の南門を、寛永年間(1624~1645)に移築。

伽藍の中心をなすのは重要文化財の「仏殿」。寛文8年(1668)に『徳川家綱』の援助で再建されたもので、内部には過去・現在・来世を表す三体の如来像が安置されています。

仏殿の背後に建つ「舎利殿」は、釈迦の歯(仏牙舎利)を奉安する霊殿。慶長年間に京都御所の建物を移築改装したもので、仏殿と同時代に現位置へ移されました。

これらの背後に聳えるように行く手を遮るのは「霊明殿唐門」。霊明殿には『天智天皇と光仁天皇から昭和天皇』に至る歴代天皇皇后(南北両朝の天皇も含む)の尊牌(位牌)が安置されています。

霊明殿の東、ひっそりと人気の無い参道の先に「月輪陵」への門が見えてきました。

「月輪陵(つきのわのみさぎ)」には、歴代天皇二五陵、五灰塚、九墓が営まれています。また「後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)」は孝明天皇陵として築造。

境内一画に「楊貴妃観音堂」。唐の玄宗皇帝の妃・楊貴妃の等身坐像をかたどった『聖観音像』が奉られているとの事ですが・・何故こんなに人気があるのか不思議😅

最後は「水屋形」の左手に昭和49年に建立された『清少納言』歌碑。枕草子の作者として名高く、一条天皇の皇后宮:藤原定子に仕えた清少納言。晩年は、定子が眠る鳥辺野近くの東山月輪に隠棲したと伝えられています。

【 夜をこめて  鳥のそら音は はかるとも  よに逢坂の 関はゆるさじ

参拝日:2007年11月17日


広隆寺(こうりゅうじ) in 京都府京都市右京区

2025年07月26日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

京都の不思議ミステリーに触れた後は、京都最古の寺院「広隆寺(こうりゅうじ)」に向かいます。『聖徳太子』に仕えた『秦河勝』が京都太秦に創建した「蜂岡寺」。古くは「山背国葛野郡太秦」と呼ばれ、秦氏の本拠地であったと伝えられています。「太秦」とは「大いなる秦」の地という事でしょうか。

京都市右京区太秦蜂岡町に門を構える真言宗系単立寺院「蜂岡山広隆寺」。「蜂岡寺、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺」などの別称があり、秦氏の氏寺とされてきました。

蜂岡寺の創建は、『秦河勝』が『聖徳太子』より賜ったとされる「弥勒菩薩像」を本尊として、秦氏の本拠地である太秦に創建したのが初めとされています。その後、平安遷都前後から「薬師如来」を本尊とする寺院となり、薬師信仰と共に聖徳太子信仰を中心とする寺院と変わってゆきます。広隆寺の本堂でもある「上宮王院(太子堂)」には、「聖徳太子像」が、本尊として安置されています。

楼門を入り、参道を進むと右手に重要文化財指定で永万元年(1165年)再建の講堂があります。一般拝観者の入堂はできませんが堂外から美しい如来坐像のお姿を見る事ができます。

中央に本尊阿弥陀如来坐像(国宝)、向かって右に地蔵菩薩坐像(重要文化財)、左に虚空蔵菩薩坐像(重要文化財)を安置。

講堂の向かいに建立されているのは「薬師堂」。平安時代前期の作とされる木造薬師如来立像(吉祥薬師像)が安置されます。

「広隆寺」と言えば、何をおいても真っ先に挙げられるのが「弥勒菩薩半跏像」。歴史や美術の書籍では何度も目にしましたが、実際に自分の目で見た事は一度も無かった私たち。ご亭主共々、人生初の経験となりました。

もちろん写真撮影は禁止!。ここから先の画像はありません。ですが二十年近くの時を経ても、対面したその瞬間の息が止まるような感動は忘れられません。国宝の弥勒菩薩像2体、十二神将像・・・それらを前にした時の体の中を貫くような不思議な感覚・・仏教に特別帰依しているわけでもない・・・なのにあの鳥肌が立つようなあれは一体なんだったのでしょう。

この画像は、広隆寺の山門近くの掲示板の中にあったもの。釈迦入滅後、慈愛を持って衆生を救う為に修行をされている菩薩、その期間、56億7000万年😔   ・・・何と言うか、その時に救うべき衆生がこの世界に存在しているのかどうか、お釈迦様なら答えられるのでしょうか。

参拝日:2007年10月13日


木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社 in 京都府京都市右京区

2025年07月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

京都市右京区太秦森ケ東町に鎮座される「木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社」。御祭神は『天御中主命、大国魂神、穂々出見命、鵜茅葺不合命・瓊々杵尊』。通称「木嶋神社・蚕の社(かいこのやしろ)」と称され、秦氏の氏神として崇敬されました。

本殿東隣に鎮座される「蚕養(こかい)神社」。御祭神は『保食神、蚕の神、木花咲耶姫命』

「創建は不詳。一説に、推古天皇12年(604)に広隆寺創建に伴い勧請されたともいわれる。史料からは大宝元年(701)の記事以前の祭祀の存在が認められている。『延喜式』神名帳における祭神の記載は1座。同帳では「木嶋坐天照御魂神社」と記載されるが、この社名は「木嶋(地名)に鎮座する天照御魂神の社」という意味であるため、本来は「天照御魂神(あまてるみむすびのかみ)」を祀った神社とされる。」ikipediaより

古くから祈雨の神として信仰された「木嶋神社」。境内の北西隅には「元糺の池(もとただすのいけ)」と称する神泉があり、その中に京都三鳥居の一つとされる石造りの「三柱鳥居」があります。

「三柱鳥居」は、正三角形平面に三本の柱が組み合わされ、隣り合う鳥居同士が柱を共有。笠木は井桁状に組まれ、貫は柱を貫かず、笠木には曲線が施こされています。現在の鳥居は天保2年(1831)の再建ですが、三柱の起こりや謂れについては、謎のまま。京都御所の敷地内にある「厳島神社:唐破風鳥居」、北野天満宮境内にある「伴氏社鳥居」と共に京都、三珍鳥居とされる「三柱鳥居」。三鳥居の中では、この三柱鳥居がもっとも珍しい形状と言えるかもしれません。

境内の入り口近くに鎮座される「境内社・稲荷社」、見目の麗しい神狐さんが神域を守護されています。

神狐さんに守護される稲荷社。そのうちの一社は洞窟のような中に鎮座されています。どのような経緯で建立されたのか不明ですが、洞内はとても静かで穏やかな空気が流れています。

渡来人であった秦氏は、日本の各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を伝えました。その技術は朝廷でも重く用いられるようになり、やがては聖徳太子と秦河勝との関係に至ります。
秦氏が氏神とする「蚕養(こかい)神社」には、織物の始祖とされる『蚕の神』が祀られており、それゆえに「蚕ノ社」とも呼ばれました。

参拝日:2007年10月13日


蓮華寺(れんげじ)~御室八十八ヶ所霊場 in 京都府京都市右京区

2025年07月25日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

仁和寺東門を出た先に、真言宗御室派別格本山「五智山蓮華寺(ごちさんれんげじ)」。近畿三十六不動尊霊場十五番目、『阿弥陀如来』を本尊とします。

「天喜5年(1057)、後冷泉天皇の勅願により、藤原康基が開創。1467年応仁の乱の兵火にあい、蓮華寺は鳴滝音戸山の山上に移され、長い荒廃の時代が続いた。伊勢国生まれの江戸の豪商出身の常信(樋口平太夫家次)が寛永18年(1641)に再興し、仁和寺の覚深法親王より改めて五智山蓮華寺の号を賜る。昭和2年、住職慈海大僧正により寺院は現在の御室に移される。昭和33年、離散していた五智如来を始め、石仏群を収集し修復をして境内に遷座安置される。」公式HPより

五智如来石像《大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来、宝生如来、薬師如来》は、寛永18年(1641)の伽藍堂宇再興の際、常信が木食僧坦称に依頼して作成させたもの。

坦称上人はこの彫刻にあたり信州・浅間・紀州那智三山で各百日の荒行を遂げ、現在の石仏を完成させたといいます。桜の花の下、静かに笑みを浮かべる如来のお姿は穏やかに優しく、佇む私に・・何かを語りかけてくる気がします。

「土用丑 弘法大師 難病を救い給う きゅうりふうじ」公式HPに きゅうり封じとは弘法大師が一切衆生病苦・悪業の根を断ち切って病苦を和らげ、業病・難病からのがれ丈夫で長生きし、安楽に往生できるようにと、その願を込めて五智不動尊を創祀せられた際に残された秘法。土用丑の日は年1回の秘法厳修の日です。とあります。

地蔵菩薩の両脇で手を合わせるのは、亡き父母の姿だろうか・・きっと境内に座す十一坐像・石像に、人は自ら望む人の面影を重ねて、そうして祈るのかもしれない。

境内に建立されていた碑。案内も無く、読み解けないのが悔しくはあるけれど、それも仕方ないかな。

御詠歌【つみとがも  やきほろぼさん ちかいにて  ほのほのなかに  たちませるみを】

蓮華寺を辞して向かった先は、四国八十八箇所霊場を小規模に再現した巡礼地「御室八十八ヶ所霊場」。途中に、「宇多天皇 大内山陵(おおうちやまのみささぎ)参道」の碑。地図で見ると、「大内山陵」は、仁和寺金堂から見て真北に位置しています。

御室八十八ヶ所案内に寄れば「文政10年(1827)当時は本四国(四国八十八ヶ所)への巡拝が困難であった為、時の仁和寺29世門跡済仁法親王の御本願により四国八十八ヶ所霊場のお砂を持ち帰り、仁和寺の裏・成就山の約3kmにわたる山道の裏山に埋め、その上にお堂を建てたのが御室八十八ヶ所霊場の始まりです。・・流石に私の足で3kの山道は無謀以外の何者でもない。でも折角来たのだから一箇所くらいは・・。まずは、弁天池の前に朱の鳥居・・派手さはありませんがしっとりとよい雰囲気。

石柱に囲まれたこの碑は何だろう?「三浄浴」と読めたように思うのですが、確信は持てず・・札所に関わりのある碑なのか、全く別個のものなのか・・知識不足です・・ハイ😔

そしていきなり、八十七番「長尾寺」『聖観音』を本尊とします。堂の手前には「光明真言貳(二)千萬遍供養塔」「お地蔵様」

という事で、本当に一番から八十六番迄すっ飛ばして、八十八箇所結願の「大窪寺」。ご本尊は『薬師如来様』。不信心不心得は十分承知の上で・・・・わたし達に繋がるすべての命が恙なく幸せでありますように。

南無大師遍照金剛🙏 南無大師遍照金剛🙏 南無大師遍照金剛🙏

参拝日:2008年4月19日


仁和寺(にんなじ)と御室の桜 in 京都府京都市右京区

2025年07月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

京都市右京区御室大内に門を構える真言宗御室派:総本山「大内山仁和寺(にんなじ)」『阿弥陀如来』を本尊とします。皇室とゆかりが深く、出家後の宇多法皇が住んでいたことから、「御室(おむろ)御所」と称されていました。

「仁和2年(886)第58代光孝天皇によって「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願されたことに始まります。しかし翌年、光孝天皇は志半ばにして崩御されたため、第59代宇多天皇が先帝の遺志を継がれ、仁和4年(888)に完成。寺号も元号から仁和寺となり、後に宇多天皇が出家し仁和寺第1世 宇多(寛平)法皇となります。以降、皇室出身者が仁和寺の代々住職(門跡)を務め、平安〜鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保ちましたが、応仁の乱で一山のほとんどを兵火で焼失。そのような中、本尊の阿弥陀三尊をはじめ什物、聖教などは仁和寺の院家であった真光院に移され、法燈とともに伝えられていきました。『仁和寺御伝』によれば、寛永11年(1634)7月、第21世 覚深法親王は、上洛していた徳川家光に仁和寺再興を申し入れ、承諾されるのです。さらには慶長度の御所造替とも重なり、御所から紫宸殿(現 金堂)、清涼殿(御影堂)など多くの建造物が下賜され、正保3年(1646)に伽藍の再建が完了。ようやく創建時の姿に戻ることが出来たのです。」公式HPより

参拝者を出迎えてくれるのは、京都では珍しく道路に面した「二王門」。高さ18.7m、重層、入母屋造、本瓦葺。寛永18年(1641)から正保2年(1645)の建立とされ、京都3大門のひとつとも言われています。

門正面の左右に阿吽の二王像

後面には同じく左右に木造の神殿狛犬一対が安置。

仁王門を潜って左手に見えてくるのは、『亀岡末吉』の設計によって大正2年(1913)に建立された「勅使門(登録有形文化財) 」。檜皮葺屋根の四脚唐門で前後を唐破風、左右の屋根を入母屋造としています。

鳳凰の尾羽根、牡丹唐草、宝相華唐草文様、雅であり荘厳でも有る彫刻装飾の数々・・・見飽きる事はありません。

「拝殿中門(重要文化財)」は寛永18年(1641)から正保2年(1645)の建立。切妻造・本瓦葺・柱間三間の八脚門で、側面の妻部には二重虹梁蟇股が飾られています。

中門、向かって左側。「龍神、富単那」を従え邪鬼を踏みつけるのは、西牛貨洲を守護する「広目天」。右側に「乾闥婆、毘舎闍」を従え、東勝神洲を守護する「持国天」

中門内の西側一帯は、大正13年に国名勝に指定された「御室桜」。実は今日の参拝はこの桜がお目当てだったのですが・・いくら遅咲きで有名とは言え流石に四月も半ばを過ぎると・・😓

江戸時代の儒学者『貝原益軒』が書いた「京城勝覧」に「春はこの境内の奥に八重桜多し、洛中洛外にて第一とす、吉野の山桜に対すべし、…花見る人多くして日々群衆せり…」とあるそうですが、確かにこんな状況でも「花見る人多く」・・😅

ちなみに背丈の低い事で知られる「御室桜」。俗謡に「わたしゃお多福御室の桜 鼻が低ても人が好く」、背丈の低い桜を鼻の低さに掛け合わせるなんて、何と洒落た事。ついでに物凄く親近感😊

散りての花はともかく、境内の建造物はいずれも国宝・重要文化財に指定されており、それらを拝観できるだけでも、足を運んだ甲斐が有るというもの。まずは国宝指定の「金堂」。慶長18年(1613)に建立された京都御所・紫宸殿を移築、現存する最古の紫宸殿です。

宮殿から仏堂への用途変更に伴い、檜皮葺から瓦葺に変更された屋根の上。下界を見下ろす鬼はさすがの迫力!

と共に、何とも不思議な飾瓦を見つけて、しばらくはその正体の詮議に花を咲かせました。結局、玄武の背中の人物は「蓬莱山(ほうらいざん)」に住むと言う仙人の誰か・・という事で一件落着。

金堂の西に建つのは、重要文化財の「鐘楼」。入母屋造、本瓦葺の 建物で、階上は朱塗で高欄を周囲に廻らせ、下部は袴腰式と呼ばれる板張りの覆いが特徴。

鐘楼の左手に建つのは、「御影堂中門」「御影堂」。いずれも重要文化財の指定。

檜皮葺の小堂は、慶長年間造営の内裏 清涼殿の一部を賜り、寛永年間に再建されたもの。「宗祖:弘法大師」、「開基:宇多法皇」、「仁和寺第2世:性信入道親王」の像を安置します。

金堂の東に建つのは重要文化財の「経蔵」で、寛永〜正保年間の建立。宝形造、本瓦葺。正面に両開きの板唐戸、左右に花頭窓を付け、禅宗様で統一されています。

重要文化財:五重塔は寛永21年(1644)建立。塔身32.7m、総高36.18m。東寺の五重塔と同様に、上層から下層にかけて各層の幅にあまり差が見られない姿が特徴的です。

初重西側に掛けられた『大日如来』を示す梵字の額。

すっきりと美しい塔形にしばし時を忘れて。

五重塔裏手には仁和寺の伽藍を守る「九所明神」が鎮座。こちらの社殿もまた、重要文化財の指定。今回は時間の関係で参道半ばからの参拝となりました。

社殿は本殿・左殿・右殿の三棟。『八幡三神』を本殿に、東の左殿には『賀茂上下・日吉・武答・稲荷』を、西の右殿には『松尾・平野・小日吉・木野嶋』の計九座の明神が祀られます。

明日は蓮華寺~御室八十八ヶ所霊場の紹介です。

参拝日:2008年4月19日