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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

與杼(よど)神社 in 京都府京都市伏見区淀

2025年08月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

伏見区淀本町に鎮座される「與杼(よど)神社」。御祭神は『高皇産靈神(たかみむすびのかみ)・豐玉姫命(とよたまひめのみこと)・速秋津姫(はやあきつひめのかみ)』。乙訓郡 十九座の一社で式内社。元は桂川の対岸の水垂町に鎮座されていましたが、淀川改宗工事に際して淀城跡北の現在地に移転、「淀姫さん」として親しまれています。

由緒「僧の千観内供が応和年間(961~963)に肥前国佐賀郡河上村に鎮座の與止日女(ヨドヒメ)神社より、淀大明神として勧請したのに始まるとある。しかし、延喜式第9巻「山城国乙訓郡」中に、與杼神社の名がある処からみて、応和年間より以前に鎮座していたと考えられます。桂川河川敷の拡幅工事の実施に伴い、本殿以下の建物は明治35年6月21日、現在の淀城址内に遷座されました。」公式HPより抜粋

鳥居を潜ってすぐに左に折れる参道、その正面に一対のイチョウの木。注連縄で結ばれた木は〆鳥居の役目も果たしているようです。

〆鳥居の前より神域を守護されるのは、厳つい顔立ちの浪花タイプ狛犬さん一対。「淀姫さん」の鎮座地を守護されるには、これくらいの迫力は必須ですね。

拝殿は慶長十二年(1607)の建築で国指定重要文化財。かつては本殿も同年代の建立で同じく国重文に指定されていましたが、昭和五十年に中学生の花火が原因で焼失。その後現在の本殿が再建されています。

本殿前より御神域を守護されるのは、玉とり・仔連れの狛犬さん一対。吽形さんは愛らしい仔狛を右足に縋らせ、阿形さんは優しい笑顔で飾毬を前足の下においています。

「摂社:長姫社」。御祭神は『長姫弁才天』

「摂社:豊丸大明神」。御祭神は『豊丸大明神』

朱塗りの鳥居の中ほど、金網で囲まれた台座より神域を守護される神狐さん一対。という事は・・こちらの「豊丸大明神」は稲荷の神様と言うことでしょうね。

「摂社:川上社」。御祭神は『川上大明神(與杼比売命)』。川上大明神とは「海神の娘・豊玉姫命」とも、また「神功皇后の妹」とも云われます。

絵馬に描かれているのは「秋の大祭・みこし渡御」

境内の南側、日当たりのよい場所に置かれた「神心石」碑 。これが何を表しているものなのか、そもそも何とお読みするのか・・幾つか調べてみましたがわかりません。

参拝日:2010年2月24日


神川(かむかわ)神社 in 京都府京都市伏見区

2025年08月03日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

京都市伏見区羽束師鴨川町に鎮座される「住吉大明神:神川(かむかわ)神社」。御祭神は『底筒男命・中筒男命・上筒男命・表津少彦命』。難船防止の祈願の神社とされ、鳥居には「住吉大明神」の額が揚げられています。

社伝によれば「当地は鴨川と桂川の合流する右岸にあたり、船の往来に度々難があったため摂津の「住吉大社」から住吉神を勧請したと伝えられています。」

本殿は昭和57年の火災によって焼失。RC造の一間社流造の本殿は、浄財を募って翌年に再建。木漏れ日を受けて深い森に抱かれるように鎮まる御本殿、真正面に立つと、心の中がふわっと軽くなるような感覚。

御本殿の中より神域を守護される神殿狛犬さん。金と銀の華やかな色合いが不思議な雰囲気をかもし出しています・・・それにしても随分と楽しそうなご様子。どんな良いことが有ったのでしょう?

鉄筋コンクリート造の本殿前より神域を守護されるのは、ゆったりした体格の浪花型狛犬さん一対。二度と神域を毀損されないようしっかりと目を光らせてくださいね。

参拝日:2010年7月20日


三栖(みす)神社 in 京都府京都市伏見区

2025年08月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

京都市伏見区三栖向町に鎮座される「三栖(みす)神社」。御祭神は『天武天皇 応神天皇 伊弉諾尊』

「創建の詳細は不明であるが、旧下三栖村の産土神として古くからこの地で信仰を集めていた。現在の社殿、拝殿は慶長八年(一六〇三年)九月に旧幕臣角倉了以、加藤清正公の家臣横地助之丞、三栖の郷士藤林時次の三氏等氏子が戮力協心して造営したものである。本社の例祭に炬火祭がある。神幸祭の宵には,宇治川に自生する葭で作られた大炬火に火を灯し,神輿巡幸の先導として竹田街道を巡行する。この行事は約千三百年前,壬申の乱において大海人皇子(天武天皇)が近江朝廷との決戦に向かう途中,三栖地域を通過された際に住民がかがり火を灯し,暗夜を照らして歓迎したと言う伝承に因むものである。戦後一時途絶えたが,1989年より再興され,京都市登録無形民俗文化財に選定されている。」境内案内より

案内の記載から見れば、壬申の乱は飛鳥時代の出来事・・・むろんその当時にこの神社があったとは思えませんが、その歴史にちなんでの例祭である事を考えれば、歴史のある神社と思われます。

拝殿前より神域を守護されるのは巷によく見かける狛犬さん一対。いわゆるコピータイプと比べると、多少オリジナリティがあるように思えるのですが・・・

境内一面に敷き詰められた銀杏の黄色。もう少し季節が早ければ、空を覆うほどの鮮やかな黄色が見られのにね😊

「三栖神社」に程近く、濠川沿いに鎮座される三栖神社御旅所「金井戸神社」。御祭神は『天武天皇』

鳥居の内より神域を守護されるのは頭頂部の毛がベレー帽のようだと噂される狛犬さん一対。一番最初にそれを指摘した時のご亭主殿の反応が・・・今思い出しても新鮮に笑えます😆

「御旅所」とは、神幸祭において御神体が巡行の途中に御休憩される場所の事をいいます。たいていの場合、御神体は御神輿に遷されてお渡りされます。

お旅所の内より神域を守護されるのは、扁平頭に獅子顔の「ええとこのボン」タイプの狛犬さん一対。この「ええとこのボン」と言うニュアンス、最近の私のお気に入り😄

御祭神碑が建立された濠川沿い、眼前に広がる鮮やかな秋の色。

参拝日:2009年12月15日


御香宮神社~其の二:摂社編 in 京都府京都市伏見区

2025年08月02日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

「御香宮神社」の境内にはとても沢山の境内社が祀られており、それら全てを網羅は出来ませんでした。ここでは本殿から社務所の前を抜けて北門へと至る道すがらに参拝させていただいた境内社・他を紹介します。

まずは「神馬舎」、奉納されている白馬はとても美しく気品に溢れています。

神馬舎の右手に並ぶのは、朱塗りの鳥居が色鮮やかな「境内社:稲荷社」

こちらの 御祭神は『菊姫大明神』。京都市内には「菊姫稲荷大神」を祀る社が幾つか点在しており、その勧進の謂れなど調べてみるのも面白いかもしれません。

鳥居から社殿へと続く参道両脇、降りしきる落ち葉の中に埋もれるように小さな狛狐さんが守護の役目を果たしておられます。

続いて境内社「東照宮」。御祭神は「御香宮」に縁の深い『徳川家康』

朱塗りの高欄の前、華麗な装飾扉の前で守護を担うのは、笏谷石の白山神殿狛犬さん一対。超強面の顔に似合わず、クレオパトラカットのストレートヘアーがとてもキュートです。

境内社「松尾社」は、酒の神とされる『大山咋神』。伏見は酒どころとしても有名で、それに大きく貢献しているのが、御香水と同じ水脈を持つ「伏し水」

社殿の彫刻は松の大樹の下、巨大な甕を横に置いて喜びの舞を舞う貴人・・・のように見えますが、実際のところは不明。酒の神を祀る社からの連想。

社殿の左右より神域を守護されるのは、明治二十年(1887)十月奉納の京浪速の狛犬さん一対。扁平な頭にはんなりした顔立ちは、いかにも京都らしい優しさです。

境内社への参拝を終えた二人。もと来た道を引き返し、次なる神の社へとむかう事にしましょう。

参拝日:2009年12月1日


御香宮(ごこうぐう)神社~其の一 in 京都府京都市伏見区

2025年08月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

伏見区御香宮門前町に鎮座される「式内社:御香宮神社」。御祭神は『神功皇后』。相殿神 に『応神天皇、仲哀天皇、仁徳天皇、高良大明神、宇倍大明神、瀧祭神、河上大明神、菟道稚郎子尊(うじのわきいらつこのみこと)、白菊大明神』を奉ります。

通称を「御香宮、御幸宮(ごこうのみや、ごこうぐう)」とも言い、伏見地区の産土神として、また『神功皇后』の神話における伝承から「日本第一安産守護大神」として信仰を集めています。

由緒に「創建年は不詳。初めは『御諸神社』と称したが、約1150年前の平安時代貞観四年(862)九月九日に、この境内から「香」の良い水が涌き出たので、 清和天皇よりその奇端によって『御香宮』の名を賜った。」HPより

表門は、元和8年(1622)に徳川頼房が伏見城の大手門を拝領して寄進したもので、正面には中国二十四孝を彫った蟇股があり、重要文化財の指定を受けています。

京都府指定有形文化財の拝殿は、寛永2年(1625)に『徳川頼宣』の寄進によって建立。

中国の登龍門の故事に基づいた極彩色の唐破風彫刻。正面軒唐破風は五三桐の蟇股や大瓶束によって左右に区切られ、極彩色彫刻が施されています。
向かって右は『鯉の瀧のぼり』、左は琴高仙人が鯉に跨って瀧に昇る光景が描かれています。この美しさ・・「百聞は一見に如かず」、是非実物を見て欲しいと思います。

拝殿左右より神域を守護されるのは、文化十三年(1816)九月建立の狛犬さん一対。石工の名は不詳ですが、京都市内の古社では比較的良く見られる「はんなり京都風」の顔立ち。

本殿前の手水舎からは、伏見七名水の一つ「伏見の御香水」が途切れることなく湧き出ています。伏見の酒とも深い関わりがあり、またこれを飲めばあらゆる病気が平癒すると伝えられ、今もペットボトル持参の参拝客が訪れるそうです。

重要文化財指定の本殿 は、慶長10年(1605)に『徳川家康』の命で建立。1990年の修理の際に、極彩色の彫刻が復元されました。

本殿階段の上より神域を守護されるのは、今までお目にかかった事の無いタイプの木製神殿狛犬さん。慶長四年(1559)の奉納だそうです。

矢大臣よりも更に御神体近くに控えた姿は、精悍ながらもゆったりとした体つき。真っ白で丈夫そうな牙と、負けないくらい白目勝ちの目がとても際立っています。

「ガハハッ」と豪快な笑い声が聞こえてきそうな阿形さん。う~~~ん足元の供物の山が折角のお姿を隠してしまって、狛犬ファンとしてはかなり残念。

最後の一枚は御香宮北門前、篆(てん)書体による陰刻の文字で刻まれた社号表。碑の裏側には建立年と思われる「明治十四年六月九日」の文字が刻まれています。

明日は広大な敷地に鎮座される、代表的な「摂社:末社」の紹介です。

参拝日:2009年12月1日&御朱印:2015年1月2日

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御神名一口メモ

「菟道稚郎子尊(うじのわきいらつこのみこと)」、「応神天皇」の末の皇子。「日本書紀」では、応神天皇四〇年に太子に立てられたが、天皇の死後、兄の「大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)(仁徳天皇)」に皇位を譲るため、自殺したとされる。


伏見稲荷大社~其の二 in 京都府京都市伏見区

2025年08月01日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

二日目の「伏見稲荷大社」は、伏見稲荷大社:社前町に建つ北鳥居からの紹介。

玉山稲荷からそのまま左手に進み北鳥居を横目に進むと、木々の茂る参道が見えてきました。こちらは比較的人が少なく、のんびりとした雰囲気。

御幸道と呼ばれる裏参道入り口より神域を守護されるのは、昭和五十八年建立のブロンズ製の神狐さん一対。阿は稲穂を、吽は固く口を閉ざしていますが首元に本物の稲穂が下げられています。

神狐さんの後方には、立派な玉垣付きの高い台座の上から神域を守護される狛犬さん一対。稲荷の社で狛犬さんに出会えるなんてちょっと意外ですが、ご亭主殿は確実にテンションが上がった様子。

奉納の時期は不明ですが、吽形の角の大きさなどから見ても結構古いもののように見えます。とても罰当たりなのは承知で・・・首もとの赤い前垂れがちょっとばかり邪魔かも・・・・

狛犬さんの向かいに立つのは「納札所」。伏見稲荷様で授与された古い御札、御守をお納めするところです。間違っても人形とか飾り物とかを投げ入れてはいけません。

木々に囲まれた裏参道はとても静かで、殆ど誰かに出会うということはありません。何より嬉しい事に、歩く先々で素敵な神狐さんに出会えたりもします。

明治十三年(1880)建立の神狐さん。阿形さんは宝珠を、吽形さんは鍵をそれぞれ口に咥えています。切れ長な目元は、いわゆる神狐界のイケメン的存在😀

神狐さんに別れを告げ、朱塗りの橋を渡った先に、「稲荷大神」の鳥居額が架けられた鳥居群が見えてきました。ここからいよいよ千本鳥居です!

何処までも続く朱の道は、人々の願いの道であり、稲荷大神の“御霊”へ続く祈りの道。何十年、何百年も前から奉納されてきた鳥居の下を歩いていると、まるで異世界に踏み込んだような、もしかしたらこのまま別の世界に踏み込んでしまうのでは無いかと・・そんな錯覚さえ覚えます。だからふっと・・・鳥居の中から抜け出し、そこにいつもの風景を見て何故か安心しているのです。

元来、稲荷の鳥居は社殿と同じく「稲荷塗」といわれ、「朱(あけ)」をもって彩色するのが慣習となっています。「あけ」は、赤・明・茜など、すべてに明るい希望を語感にもつとされ、生命・大地・生産の力をもって稲荷大神の「みたま」の働き、信仰が宿るとされます。

千本鳥居の半ばより神域を守護される神狐さん。阿は宝珠を、吽は巻物を咥えています。こちらの神狐さんも参道の神狐さんに負けずのイケメン。

心も体も朱に染まりながら千本鳥居をぬけ、通称「命婦谷」に鎮座される「奥社奉拝所」にきました。

一般には「奥院」の名で知られており、稲荷山三ケ峰はちょうどこの社殿の背後に位置しています。

奥社奉拝所にのみ置かれている「キツネ絵馬」。目鼻が書き足された絵馬もありましたが、実際のところは描くのが正解なのか、描かないのが正解なのかわかりません。でも私の腕ではどう頑張ってもイケメンさんにはかないそうにありません。

ここまで頑張りましたが、流石に稲荷山三ケ峰の各所を参拝するなんて、無謀の極み。人間なんでも引き際を心得ていないと後で絶対に泣きを見ます😅という事でもう一方の千本鳥居を抜け、奥宮横の参道へと向かいます。

千本鳥居の神域を守護される神狐さん。阿はギザギザの歯で宝珠を噛み締め、吽は片方の端が折れてしまった巻物を咥えています。

千本鳥居を出て最初の分岐点にある狐像。二匹の狐が手を繋いで作った輪の中にお賽銭を投げ、見事通過すれば願いが叶うといわれているそうです。

分岐点を過ぎ、石段を折りきったところにも神域を守護される神狐さんがいます。阿は宝珠を、吽は巻物を咥えながら微笑を浮かべている・・ちょっと不思議な顔立ちをされています。

参拝日:2009年12月15日


伏見稲荷大社~其の一 in 京都府京都市伏見区

2025年08月01日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

京都市伏見区深草藪之内町に鎮座される「伏見稲荷大社」。御祭神は『宇迦之御魂大神・佐田彦大神・大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)・田中大神・四大神(しののおおかみ)』。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社で、旧社格は官幣大社。全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社。重要文化財の楼門は三間一戸、入母屋造で、屋根は檜皮葺。天正17年(1589)、豊臣秀吉の造営とされます。

「京都盆地東山三十六峰最南端の霊峰稲荷山の西麓に鎮座する稲荷信仰の御本社。その信仰は稲荷山の三つの峰を神そのものとして崇拝したことを源流とする。平安時代、東寺の鎮守社となるや、真言密教と結び付いてその信仰を拡大、次第に神位を高めて『延喜式』名神大社に列し、天慶5年(942)に正一位の極位を得た。その後応仁の乱にてすべて焼亡。明応8年(1499)に至って遷宮を迎えた。」Wikipediaより

楼門前より神域を守護されるのは、稲荷の御眷属とされる青銅の神狐さん一対。阿は宝珠を、吽は鍵を咥えています。宝珠は稲荷神の「霊徳の象徴」、鍵は宝蔵を開く「秘鍵(ひけん)の象徴」とされています。

重要文化財の外拝殿(舞殿)は江戸時代末期、天保11年(1840)の造営。桁行五間、梁間三間、一重、入母屋造で、屋根は檜皮葺。

軒下四周に吊るされた12基の鉄製灯篭には、黄道(こうどう)12宮の透かし彫りがあり、画像は獅子宮。他に白羊宮、金牛宮、双児宮、巨蟹宮、処女宮、天秤宮、天蝎宮、人馬宮、磨羯宮、宝瓶宮、双魚宮があります。

外拝殿から本殿正面前に所在する内拝殿。真っ直ぐ先に本殿が一直線に続きますが、一般の参拝者はこの内拝殿の前から参拝をします。

重要文化財の本殿は室町時代後期、明応3年(1494)の造営。五間社流造で屋根は檜皮葺、「稲荷造」と称されています。本殿の背後には、斎場と千本鳥居から続く稲荷山の神蹟群が鎮座。

本殿近くにて神域を守護されるのは、明治三十三年九月奉納の神狐一対。稲を加える阿と、固く口を閉ざす吽。稲穂は五穀豊穣、「稲が生る」を現しています。

本殿の左後方に所在する重要文化財の「権殿」。江戸時代前期、寛永12年(1635)の造営で、五間社流造、屋根は檜皮葺。本殿を修理する時に一時的に御神体をお移しするための社とされます。12月も半ば、そろそろ初詣の準備でしょうか。この状態で正面に回る事は出来ませんでした。

権殿の北側に建つ丹塗りの鳥居、そこから奧宮への石段参道があり、上末社と呼ばれる「長者社」「荷田社」「五社相殿」(いずれも国の重要文化財)と、「両宮社」「玉山稲荷社」が鎮座されています。

鳥居の前より神域を守護されるのは、明治二十八年(1895)建立の神狐さん一対。阿は宝珠を、吽は巻物を咥えています。巻き物は「知恵の象徴」とされています。

画像左手前に見えるのは、元禄7年(1694)に奉祀された「五社相殿」。五間社流見世棚造、檜皮葺の社殿には「八幡宮社、日吉社、若王子社、猛尾社、蛭子社」が鎮座されます。東端には元禄7年(1694)建立の「両宮社」。二間社切妻見世棚造、檜皮葺の社殿には『天照皇大神と豊受皇大神』が鎮座されます。正面左手にあるのは「供物所」と呼ばれ、稲荷山に鎮まる神々にお供えをする建物です。

石段正面に唐破風の向拝が設けられた「玉山稲荷社」。御祭神は『玉山稲荷大明神』。社殿は一間社流造、檜皮葺。宮中鎮守としてこの稲荷社から勧請(分霊)されたのですが、明治維新で東京遷都となり、社のお世話をすることが出来なくなった為、明治8年(1875)にこの地に遷座され末社となったそうです。一度分霊されたものは、同じ霊の中に戻らず、別の神霊となるのです。

本殿内にて神域を守護される白狐さん一対、吽は総角(あげまき)結びに紫房のついた巻物、阿は宝珠を咥えています。

玉山稲荷社の前を右折すると昭和13年に創建された。入り母屋作りの「神馬舎」。驚いた事に神馬の足元には膨大な数の名詞が投げ込まれていましたが、これって成田山新勝寺:出世稲荷の絵馬の名刺と同じ趣旨なんでしょうか👀

「神馬舎」左手側に幅の広い石段があり、一段高い境内地に、いずれも重要文化財の「白狐社」「奧宮」が鎮座されます。「奧宮」は三間社流造、檜皮葺で、身舎側面は二間、向拝三間で天正年間(1573-1592)の建立。「この社殿は、本殿と同様の流造で建てられ、摂社でも末社でもなく稲荷大神を祀ることから、他の境内社とは別格の社である。『明応遷宮記録』(1499)には西側に八間の廻廊があったことが記されているが、この廻廊は現存していない」現地案内より

石段上より奥宮の神域を守護されるのは、文化財指定の神狐さん一対。江戸時代初期の作で、「勧進社」に祀られていたものと説明がありました。さすがに文化財指定とあって、華麗な稲荷塗りの個室にそれぞれ鎮座し、阿は稲穂を、吽は固く口を閉じています。

ここからそのまま千本鳥居を経て奥所遥拝所へと向かうのですが、今回は元来た道を引き返し本殿北側から納札所へと向かう道を進みました。という事で続きは明日の「伏見稲荷大社~其の二」で。

参拝日:2009年12月15日


城南宮(じょうなんぐう)~其のニ in 京都市伏見区

2025年07月31日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

駐車場から城南宮東参道へ。正面石の鳥居に掲げられた扁額は、「有栖川宮幟仁(たかひと)親王」の御染筆。 また鳥居は、柱の刻銘から文久元年(1861)9月に兵庫津の北風氏の寄附である事が明記されています。

東参道を真っ直ぐに進むと、右手に朱の鳥居がたちその奥に「真幡寸(まはたき)神社」。御 祭神は『真幡寸大神、応神天皇』。延喜式神名帳に、『山城国紀伊郡 真幡寸神社二座』とある式内社とされます。

「当初、深草の地にあった式内社「真幡寸神社」。その始まりは、『神功皇后』三韓征伐の際に船上に立てた旗と、神功皇后・八千戈神(大国主神)の神霊を添えて藤森の地に奉斎したのに始まると伝える。永享10年(1438)、稲荷山の山頂にあった稲荷の祠を麓の藤尾に遷座(現、伏見稲荷大社)し、その地にあった藤尾社を藤森に遷座(現、藤森神社)。そのため、藤森の地にあった「真幡寸神社」を現在地に遷座したという。」新たに「真幡寸神社」が作られたのは昭和43年になってからの事です。

さらに参道を進み、右手に「境内社・唐渡天満宮」。御祭神は『菅原道真公』。

【東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ】

小さなお社を包み込むように、境内には沢山の梅が植えられています。

沢山の梅と言えば、ここ城南宮は 京都屈指の梅の名所”として知られています。まだ肌寒い二月の下旬から三月の初旬にかけ、神苑内にある鳥羽離宮遺構の築山と伝わる「春の山」で催される「しだれ梅まつり」

約150本の紅白のしだれ梅が織り成す世界はひたすらに美しく、馥郁たる香りに包まれて、それはもう・・・ただただ春の夢。

梅園を抜け本殿の後方から「平安の庭」へ。柔らかく木々の影を写す池には中ノ島があり、段落ちの滝から清流が注ぎ、2筋の遣水(やりみず)が流れています。

僅かな水音に耳を澄ませながら歩くと、やがて「曲水の宴」が催される苔の庭にいたります。目を閉じれば、遣水の辺(ほとり)には色とりどりの平安装束を身につけた貴族たちの姿が・・まさに平安絵巻の一コマ。

一度境内を出て通路の向いに設けられたゲートを入ると、室町時代の様式でつくられた池泉回遊式庭園「室町の庭」。池の中央には不老長寿を象徴する松の蓬莱島があり、その対岸の3っの石(三尊石)は三体の仏を表し浄土の理想の世界を象徴しています。

城南宮の一帯が最も華やかであった平安時代後期の様子を表す枯山水の「城南離宮の庭」。平らな石を敷いた苑路は鴨川を、敷き詰められた白い石は離宮の池を、緑の草は陸地を、そして岩組みは殿舎を表します。

気が付けば予定していた時間はとっくにオーバー😅 といっても時間の制約なんて無いのですが・・最後は城南宮に残る旧跡を二つ。「鳥羽伏見の戦跡」と題された札には「鳥羽伏見の戦いは、ここ城南宮の参道に置かれた薩摩藩の大砲が轟いたことから始まった・・・」と仔細が記されています。

もう一つの札には「熊野詣出立の地」と題され、白河上皇の熊野御幸、鳥羽離宮の精進屋出立、難行苦行であった熊野詣、蟻の熊野詣の事などが記されています。

最後は西参道に建立された鳥居。文久元年(1861)、氏子の寄進によって建てられたもので、「関白九条尚忠」の書による扁額が架けられています。

参拝日:2006年3月12日

観梅:2010年2月24日


城南宮(じょうなんぐう)~其の一 in 京都府京都市伏見区

2025年07月31日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

京都市伏見区中島鳥羽離宮町に鎮座される「城南宮(じょうなんぐう)」。御祭神は『息長帯日売命(神功皇后)・八千歳神(やちとせのかみ)・国常立尊(くにのとこたちのかみ)』。【方除の大社】として知られます。

歴史「延暦13年(794)の平安京遷都に際し、都の安泰と国の守護を願い、国常立尊を八千矛神と息長帯日売尊に合わせ祀り、城南大神と崇めたことが城南宮のご創建と伝え、城南宮とは平安城の南に鎮まるお宮の意味です。平安時代後期、白河上皇や鳥羽上皇によって、城南宮を取り囲むように城南離宮(鳥羽離宮)が造営されて院政の拠点となると、城南宮は離宮の鎮守として一層崇められました。また、熊野詣の精進所や方違(かたたがえ)の宿所にも充てられ、方位の災厄から無事であるよう祈願されました。」公式HPより

参道正面に朱塗りの城南宮鳥居。正面には、神功皇后の御座船の旗印に由来する「太陽と月と星」を組み合わせた「三光の御神紋」

鳥居から真っ直ぐに「祈祷殿」

「祈祷殿」と一直線に、桧皮葺の屋根が美しい「前殿」。左右に翼廊を持つ前殿に架けられた注連縄は、下の稲藁が端から端まで密に下げられた独特の形。謂れ等を調べてみましたが判らないままです。

前殿の前より広大な神域を守護されるのは、嘉永2年(1849)建之のスマートな狛犬さん一対。大口をあけて笑う阿形さん、たしなめる吽形さんは下唇を噛んでしかめっ面。

本殿・前殿・向拝・翼廊からなる素木造りの社殿。屋根の緩やかな勾配や軒端の反り、棟の両端の獅子口と呼ばれる瓦、斗栱、懸魚、蟇股、餝金具。全てにおいて平安時代後期の建築様式で昭和53年に造営。その姿の美しさは、神社建築好きな人間には眼福。

御本殿が鎮まる翼廊の内、右手前より「春日社」「大国主社」「庚申社」「金比羅社・妙見社・天満宮社」。さらに反対側には「稲荷社」「厳島社・住吉社・兵主社」「粟島社」が鎮座されます。

鳥居の内、境内右手の建物は「神輿舎」。城南祭で引き出されれる「御輿」が収められています。五彩の旗の中央、真紅の旗にあるのは鳥居にあるのと同じ「三光紋」

「神輿舎」と並ぶのは、平安時代の貴族邸宅「寝殿造り」を模して建てられた1996年築の「神楽殿」

鳥居の右手に立つのは、歴代の絵馬が奉納された「絵馬殿」。いずれも興味深い絵馬ばかりですが、特にお気に入りの二点。

右京区:高山寺に伝わる「鳥獣人物戯画」から、「亀と相撲をとる兎」。美術の教科書にも登場する有名な一コマ。

境内に続く馬場を使って、競馬や流鏑馬が行われている様子を描いた「城南祭」絵馬。

前殿の参道左右、狛犬さんよりも前に陣取って並んでいるのは・・そう、お伽噺に登場する「一寸法師」。実は一寸法師がお椀の舟に乗ってたどり着いた鳥羽の津は城南宮の南にあり、淀川を通って都へ行き来する船の港になっていたのです。

手水舎にあふれる清らかな水は「菊水若水」と呼ばれ、霊験あらたかとして知られる霊水。江戸時代の初め、霊元法皇が「菊水若水」を飲まれると痛みが治ったという記録が残されています。

まだまだ沢山の見所がある「方除大社:城南宮」、この続きは「城南宮(じょうなんぐう)~其の二」で。

参拝日:2006年3月12日

ご朱印:2015年1月6日


大原野(おおはらの)神社 in 京都府京都市西京区

2025年07月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

京都市西京区大原野に鎮座される「大原野(おおはらの)神社」。御祭神は『武御賀豆智命(たけみかづちのみこと)・伊波比主命(いはひぬしのみこと)・天之子八根命(あまのこやねのみこと)・比咩大神』。二十二社(中七社)の一社とされます。

奈良の春日社(現:春日大社)よりの勧請を受けて創建された事から、「京春日(きょうかすが)」の別称を持ち、また女性の守り神ともされています。「奈良の春日大社」、「京都の吉田神社」と並び「藤原氏の氏神三社」のひとつに数えられています。

由緒に「延暦3年(784)、『桓武天皇』が長岡京へ遷都した際、皇后の『藤原乙牟漏』が藤原氏の氏神である奈良春日社の分霊を勧請して、しばしば鷹狩を行っていた大原野に祀ったのに始まるとされます。」HPより

京都市指定文化財の本殿は一間社春日造の社殿が4棟並ぶ形式で、春日大社と同様となっています。擬宝珠に文政5年(1822)の銘があることから、この時期に再建されたか大改修を受けたと考えられています。

とある紅葉情報に掲載されていた「大原野神社」。バイクタンデムも充分可能と言う事での参拝でしたが、予想以上に素晴らしい紅葉に出会う事が出来ました。

一の鳥居から二の鳥居、三の鳥居へと石段を登るたびに、紅葉は鮮やかさを増して行きます。日曜祭日ともなれば、参道は紅葉狩りの人々で賑わうそうですが、今は私たちだけ、まるっと貸切状態😄

手水舎で私たちを出迎えてくれたのは「吐龍」ならぬ「吐鹿」。経典を口に咥えてゆったりと寛いでいます。

朱塗りの三の鳥居、その先に見える京都市指定文化財の中門、いずれも鮮やかな紅葉に飲み込まれる事なく、その存在を示しています。

中門の左右より神域を守護されるのは、狛犬ならぬ「狛鹿」。手水舎もそうでしたが、鹿を神使(しんし)とする春日神社ならではの守護獣。一対は阿吽では無く、巻物を咥え角を持つ牡鹿と雌鹿で表されています。

奉納絵馬にも、中門を背景に、ゆったりと草や木の実を食む鹿の姿。

一面の落ち紅葉が敷き詰められた境内、小さなお社はいずれも鮮やかな朱をまとっていますが、それぞれに祀られている神々の御名は確認し忘れたようです。

人気の無い神社の境内、聞こえるものと言えば僅かに木々に触れる風の音・・と、「凄いね~!綺麗だね~!」と、ヒソヒソと興奮気味の私達の声だけ。帰路の手水舎の近く、古歌に詠まれた「瀬和井(せがい)の清水」が朱の玉垣の中にあります。

瀬和井の清水は「清和天皇産湯の清水とも伝えられ、古来歌枕にあがり、数々の和歌に詠まれて名高い」と説明に有り、四首の古歌が記されています。中で、心に残った『大伴家持』の一首。【大原や せがいの水を手に結び 鳥は鳴くとも 遊びてゆかん】

瀬和井から少し先に、『文徳天皇』が奈良の猿沢池をまねて造ったとされる「鯉沢の池」。水面に浮かぶ睡蓮が花開く時期は、また格別の趣があることでしょう。

境内の外れに建立されていた『五島茂:美代子』夫妻の歌碑 。 右に【まさかりを 過ぎしもみじ葉ためいろの くれなゐ霧らし 夕日かがよふ】左は妻:美代子氏で【目さむれば いのちありけり露ふふむ 朝山ざくら 額にふれいて】

崩れかけた土塀の屋根にも通路にも、紅葉は降り積もり、辺りの景色を塗り替えています。

そう言えば、「源氏物語・行幸の巻」に、『冷泉帝』がこの地を訪れるくだりが描かれています。紫式部はここ「大原野神社」を氏神と崇めており、生前に自ら撰んだとされる家集「紫式部集」に【ここにかく 日野の杉むら埋(うづ)む雪 小塩(おしお)の松に 今日(けふ)やまがへる(日野岳の杉林は、雪に深く埋れんばかり。こんな日は、都でも小塩山の松に雪が降っている事でしょう)。と詠んでいます。

参拝日:2009年12月7日

「大原野神社」に隣接した「正法寺」。境内入り口の「春日不動尊」一帯は、季節になればさぞかし見事であろうと思われるしだれ桜が、堂宇を覆い尽くしています。この日は時間切れとなりましたが、何時の日か参拝できることを願って・・