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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

北山鹿苑禅寺:金閣寺 in 京都府京都市北区

2025年07月24日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

京都を代表する名所は、あまりにも数が多すぎて、これ!と言い切る事が出来ません。それでも前日紹介した「銀閣寺」と対を成す形で紹介される「金閣寺」は、誰もが聞いたことがあり、京都の観光名所としては最も有名と言っても過言では有りません。

私たちがここを訪れたのは2004年、何ともう二昔以上も前!😲! 当時はデジカメもそんなに機能の良いものでは無く、メディアの容量も微々たるもの。したがって手元にある思い出の画像は十枚ほどですが、そこは間違いなく、ご亭主殿に助けられ、手を借りながら自分の足で行った場所。
鏡湖池に影を映す金閣・・被写体が完璧だと、誰が写しても綺麗な写真になってくれます😄

京都市北区金閣寺町に門を構える臨済宗相国寺派寺院「北山鹿苑禅寺(ほくざんろくおんぜんじ)」『聖観音』を本尊とします。一般的に金閣と言えば、建物の内外に金箔を貼った3層の楼閣建築「舎利殿」を指します。

「元は鎌倉時代の公卿、西園寺公経の別荘を室町幕府三代将軍の足利義満が譲り受け、山荘北山殿を造ったのが始まりとされています。金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世にあらわしたと言われ、有名な一休禅師の父である後小松天皇を招いたり、中国との貿易を盛んにして文化の発展に貢献した舞台で、この時代の文化を特に北山文化といいます。義満の死後、遺言によりお寺となり、夢窓国師を開山とし、義満の法号鹿苑院殿から二字をとって鹿苑寺と名づけられました。」公式HPより

舎利殿の右手、池に突き出したように見える切妻造、吹き放しの建物は「漱清(そうせい)」と呼ばれる釣殿。かってここを訪れた故ダイアナ妃は、漱清からの眺めにとても感動したと言われています。

舎利殿の後方に2.3メートルの「龍門の滝」。滝を登り切った鯉は龍に成るといわれる中国の故事・登竜門。滝壷に斜めに傾いた動きのある石は、その鯉に因んだ「鯉魚石(りぎょせき)」。今まさに跳ね上がらんとする鯉の姿だと・・言われてみればそう見える。

龍門の滝を横目に高台を登っていくと、南天の床柱と萩の違い棚で有名な3帖の茶室「夕佳亭(せっかてい)」があります。江戸時代、傾きかけた金閣を復興し、池泉庭を修復した『鳳林承章』。彼が、後水尾上皇の為に茶道家:金森宗和に造らせたのが夕佳亭です。宗和が好んだ数奇屋造りの茶席で「夕日に映える金閣が特に佳い」ということからこの名が付けられました。

夕佳亭の近く、金閣の北側にある池は「安民沢(あんみんたく)」。どんな日照りにも涸れない池と言う事で、雨乞いの場として用いられたと伝えられています。別名、雨賜沢(うしたく)・望雲沢(ぼううんたく)ともよばれ、池中の小島には「五輪の石塔:白蛇塚」があり、西園寺家の鎮守などとも伝えられています。

高台を降りきった場所に祀られる「不動堂」。空海作と伝えられる『石不動明王』を本尊とします。天正年間、宇喜多秀家の再建とされ、金閣寺境内に現存する最も古い建物です。

参拝日:2004年5月29日


東山慈照禅寺:銀閣寺 in 京都府京都市左京区

2025年07月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

左京区銀閣寺町に門を構える臨済宗相国寺派寺院「東山慈照禅寺(とうざんじしょうぜんじ)」。相国寺の境外塔頭で、室町時代後期に栄えた東山文化を代表する建築と庭園が有名で、一般的には「銀閣寺」の通称で知られています。

門の内側に見えているのは、総門から中門に至る参道に造られた「銀閣寺垣」と呼ばれるもの。下から石垣、竹垣、椿の生垣で構成されており、花の季節にはまた格別の美しさであると言われています。

観音殿・銀閣は、室町幕府八代将軍『足利義政』が、鹿苑寺の金閣を模して造営した楼閣建築。義政公は自らの宗教観を託し、一層を心空殿、二層を潮音閣と命名しました。唯一現存する室町期の楼閣庭園建築の代表的建造物として国宝に指定されています。ちなみに銀閣の由来は江戸時代になっての事で、相国寺の境外塔頭として「金閣寺」があるから、それに対しての「銀閣寺」・・と聞くと、何だか拍子抜け。

特別名勝である「錦鏡池」を中心とする池泉回遊式庭園の中に建つ姿は、金閣とはまた別の美しさ。あちらが真夏の降り注ぐ太陽なら、こちらは、真っ白に降り積もった雪を照らす、月光の赴き。

銀閣の前に広がる二つの砂盛りは「銀沙灘(ぎんしゃだん)」「向月台」

向月台は白砂を円錐状に盛り上げて頂部を水平に。俗説によれば、この上に坐って東山に昇る月を待ったのだとも云われています

銀沙灘は白砂を壇状にし、表面に波紋を表現した直線の縞模様を付けたもの。これら二つの砂盛りに関して、室町時代まではとうてい溯り得ず、近世以後の発想ではないかと言われています。

二つの砂盛を正面に見る「方丈(本堂)」は江戸中期の建造。『釈迦牟尼仏』を本尊とします。

東山殿の建物の群の中で、銀閣と共に現存する当時の建物が「東求堂(とうぐどう)」。一重入母屋造檜皮葺きに、組物は舟肘木を用いており、義政の持仏堂として建立されました。

「東求堂」とは「東方の人、念じて西方に生ずるを求む」を出典とした命名。銀閣寺(観音堂)と共に、国宝の指定です。

東求堂の裏手から続く道を進むと、まるで箱庭のように銀閣の建物が見えます。折からの紅葉に彩られたそれは、まるで古い絵葉書のように・・悪目立ちすることなく、穏やかに優しく。

室町時代の創建当時の石組みが残された「お茶の井」。義政が銀閣寺の造営に着手したのは応仁の乱の直後。疲弊していた庶民に段銭(臨時の税)や夫役を課し、東山殿の造営を進める傍ら、書画や茶の湯に親しむ風流な隠栖生活を送ったと言います。

崩れかかった石組・泉・水流の跡が残された「漱蘚亭(そせんてい)跡」。義政が「絵師:相阿弥(そうあみ)」に、苔寺(西芳寺)の庭園を模して作庭させたと言われていますが、江戸時代に山崩れで埋没したと言われています。

庭園の片隅にひっそりと鎮座される「八神社」。銀閣寺の鎮守社とされる「八神社」からの分詞でしょうか?

美しい場所と言うのは、何度見ても新しい美しさが生まれて、中々に其処から立ち去る事ができません。同じ建物、同じ景色のはずなのに振り向く瞬間ごとに、色や形を変えて見えるのです。

ずっと昔、金閣には金箔が貼られている。だから銀閣には銀箔が貼られているのだろうと、そんな風に勘違いした外人さんが結構いると聞き、「単純に考えれば、確かに」と思ったものです。侘び・寂びの概念を表す外国語なんて、世界中のどの国を探しても見つからないでしょうから。

大文字山の麓、左京区銀閣寺町に鎮座され、銀閣寺の鎮守社とも言われる「八神社」。銀閣寺に行った折、たまたま見かけた神社ですが、頼りない足の都合で二の鳥居まで。
御祭神は『高御産日神、神産日神、生産日神、足産日神、玉積産日神、大宮売神、御食津神、事代主神』の八柱。かってこの社は「八所神社」と呼ばれていました。

鳥居の左右より神域を守護される狛犬さん一対。この頃の御亭主殿はまだ「狛犬」に目覚めておらず、画像は私が写した二枚のみ。でも、思わずデジカメを向けただけ有って、柔らかそうな巻き毛に覆われたしなやかな体。雅さと力強さを併せ持った素敵な一対。嵌め込まれた「玉眼」の所為か、今にも飛び降りて足元にすり寄ってくれそうな期待を抱かせてくれました😄。

参拝日:2005年12月3日


三千院(さんぜんいん) in 京都府京都市左京区

2025年07月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

京都~大原~三千院♪・・・なんて歌、知ってる人はどれ位いるのでしょう。でも「三千院」というと、速攻でこの音楽が頭の中を駆け巡るくらい、私には馴染みの深い曲。
大原三千院と言えば、京都の紅葉の名所としては超がつくほど有名なところ。一度は行かなければ!と言うことで、渋滞の車の列に押しつぶされそうなバイクの「後部座席!にふんぞり返って」😆、はるばる大原の里に連れてきてもらいました。

京都市左京区大原来迎院町に門を構える天台宗寺院「魚山三千院」。「三千院門跡」とも称し『薬師如来』を本尊とします。貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里にあり、特に女性には人気の地。境内全域は広く杉苔でおおわれ、往生極楽院や、宸殿、客殿などの建物が残されています。

ある程度の予想はしていたつもりですが、それ以上、もっと遥かに人気の観光地・・何台もの観光バスが、大勢の観光客を運んできます。うっかりすると観光客の人並みに飲まれて、ご亭主殿とはぐれてしまいそうで・・そんな状態なので、門の前なんかで写真なんて、とても、とても😥

それにしても、京都の有名社寺の紅葉は、本当に!!力こぶ付きで言いたいくらい「綺麗」です。人がこぞって訪ねたくなるのも当たり前、いくら混雑しようと、どんな渋滞に巻き込まれようと、まるで神の手で織り成されたような、この錦の様を見たら、全部許せる気がします。

錦の色に染まった木々の向こうに見える、杉苔の「聚碧園」、もはや言葉が見つけられません。

格子窓の向こうに見える景色は、ほんの少し非日常な感じがして、出来れば何時までも眺めていたいのですが・・限られた時間が心を急かします。

はらはらと、散華のように舞い散る、紅や黄の落ち葉は、どんな花も及ばないあでやかさ。横目に見つつそのまま進んでいけば、杉苔でおおわれた瑠璃光庭に建つ、往生極楽院に出ます。

今回は特別御開帳の日とあって付近は長蛇の列。しかも進まない・・・。行列に並ぶ時間が惜しく、本尊の「阿弥陀三尊」を拝観するのは諦めました。

阿弥陀様は拝めませんでしたが、杉苔の緑の褥に埋もれるように、童地蔵さんがいらっしゃいました。きっととても長い時間をここで過したのでしょう・・・童地蔵のお体は柔らかな杉苔にくるまれています。

何と優しい笑顔、何と愛らしい微笑み・・・じっと見ていると訳もなく涙がこぼれそうになります。何故だろう・・こんなに愛らしいのに涙が出るなんて・・

奥まった一画で出会った石仏は、紫陽花苑内を流れる律川の畔に安置される「売炭翁石仏」。鎌倉時代中期の石仏と伝えられ、俗に「大原の石仏」さんと呼び親しまれているそうです。

不動堂、観音堂、慈眼の庭と、何処まで歩いても、錦の色はより濃く深くなるばかり。このまま彷徨っていたら、きっと体中が紅葉に染まって、見分けが付かなくなるかもしれません。

帰路の渋滞は絶望的なほど過酷😱。ただでさえ狭い道に、市街に向かう車が延々と続き、しかも大型バスが多いので、バイクと言えどもすり抜けなんて、危険すぎて出来ません。
流石にこの時ばかりは、二度と大原の紅葉を見たいなんて言わない!と誓って・・以来、移動手段が車になってしまった今に至るも、一度も訪ねていません。

参拝日:2006年11月


もみじの永観堂~ in 京都府京都市左京区

2025年07月22日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

京都市左京区永観堂町に門を構える「聖衆来迎山:無量寿院:禅林寺(しょうじゅらいごうさんむりょうじゅいん ぜんりんじ)」。第七世永観律師にちなみ「永観堂」と通称され、『阿弥陀如来(みかえり阿弥陀)』を本尊とします。
古くより「秋はもみじの永観堂」と讃えられ、紅葉の季節の「永観堂」は、それはもう最高!と・・紅葉特集の旅番組や、旅のチラシに絶賛されていた事もあって、渋滞をかき分けてやってきました。

創建は貞観五年(863)、清和天皇より「禅林寺」の勅額を賜った時とされます。が・・事実上の創建は、空海の高弟である『真紹(しんしょう)僧都』が、都における真言の道場の建立を志し、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)と四方四仏を本尊とする寺院を仁寿3年(853)に建立したのが始まりとされます。
総門から「薬医門」と呼ばれる中門(延享元年(1744))へと進みます。

薬医門に続く庫裏「鶴寿台」。実はご亭主殿の大好きだった祖母殿のお名前が『鶴寿』さん。それだけの事なのですが、不思議な縁を感じました。

室町時代の永正年間の(1504~11)に後柏原天皇によって建立されたと伝えられる書院造の「釈迦堂(方丈)」。ここでは沢山の人が縁の近くに集まって、唐門の前に盛られた小判型の盛砂にカメラを向けています。盛砂は唐門から入ってきた勅使が、身を清めるために踏んだ砂と言われます。

桧皮葺の屋根を持つ唐門は「勅使門」とも呼ばれ、天皇家よりの使者が出入りする為の門として用いられました。文政13年(1830)の建築で、京都市指定文化財に登録されています。

唐門から千佛洞までの間は、季節の移ろいを思わせる諸行無常の風情がたっぷりの苔庭。この少し小さな門は、閉ざされてから久しいのでしょうか・・敷石の道は落ち葉に埋もれています。

長い歴史の中で受け継がれてきた景観と言うのは、たとえ枯れた芒一本でも深い味わいがあるもの。有るか無きかの風にふわっと揺れた穂先の柔らかさに心が和みます。

「みかえり阿弥陀」の名で親しまれる「木造阿弥陀如来立像」。平安後期~鎌倉初期の作と伝えられ、国重要文化財に指定されています。みかえり阿弥陀の名の由来は「永観が日課の念仏を唱えつつ、阿弥陀如来の周囲を行道していたところ、阿弥陀如来が須弥壇から下り、永観と一緒に行道を始めた。驚いた永観が立ち止まると、阿弥陀如来は振り返って一言、「永観遅し」と言い、以来首の向きが元に戻らず、そのままの姿なのです。」振り向いたその優しいお顔立ち、是非とも現地で拝観してください。

御影堂、阿弥陀堂と、どの場所からも色鮮やかなもみじの歓待を受け、気分はすっかり秋の色。紅葉の美しさに甲乙など無いのですが、やはり周囲の景観と手入れの有無がこれだけの美しさを見せ付ける所以かもしれません。

向こうの山手に見えるのが「開山堂」、その上に見えるのが昭和3年(1928)建立の「多宝塔」。阿弥陀様に見送られるような感じに名残を惜しみつつ、開山堂に至る臥龍廊の階段を登ります。

龍が臥せるに似た・・とは、よくも言ったもので、この急勾配の急カーブ、建築技術の確かさ、見た目の美しさ・・もう凄いとしかいえません。半分くらいの所から振り返って、改めて足裏のむず痒さに冷や汗。

多宝塔から見る京都市内、残念ながら何所がどの辺りとか全く説明できなくて・・と言うより、はっきり言って高所は泣くほど怖いと言う私には、景色の良さを楽しむ余裕は無く、ひたすら前方だけを見ています😣 

帰路の一枚は、たまたま歩き疲れて座り込んでいた私を写したものですが、まるで空中浮遊をしているように見えます。それだけこの階段が急だという事なのですが、記念すべき面白い一枚となりました。

一通りの参詣を終えたところで境内の散策。幼稚園を経営されている関係からか、「和の道」と名づけられた一画に可愛いお地蔵様が置かれています。

秋真っ盛りの鮮やかさ、溢れるような錦の色の洪水。何故だろう? 我が家の近くの山だって、秋が深くなれば木々は色づき鮮やかに染まるのに、この特別感は何なのだろう?あたりの景色?苔の庭?統一され、手入れされた木々の配置?  多分、何もかも全部ひっくるめて特別なんだろうね。

秋の色に酔ってしまった気分を冷ます為に「哲学の道」まで歩いて見ることに。途中に「冷泉天皇稜」への道しるべを見つけました。今から約千年前に崩御された方ですが、京都の市内は何処に行っても、こんな風にいずれかの天皇陵への案内碑を見かけます。

哲学の道は、「熊野若王子神社」から「銀閣寺」付近白川通までの琵琶湖疏に沿った歩道。まだ私が旧姓だった頃、友人たちと着物姿で歩いた懐かしい思い出の道です。あれから自分でも驚くほどの時間が流れて、記憶の中の優しい道はすっかり様変わりしていました。でもそれはこの道の所為ではなく、自分たちが重ねてきた歳月の所為なのでしょう。

訪問日:2007年12月8日


南禅寺と琵琶湖疎水 in 京都府京都市左京区

2025年07月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

この美しい煉瓦のアーチは、観光パンフレット等でもよく目にする「南禅寺境内の水路閣」。紅葉が見どころのこの季節、特に「南禅寺」と水路閣辺りは素晴らしいと聞き、出かけてみました。噂になるだけ有って物凄い車の大渋滞、バイクで出かけた私たちは、もしかして勝ち組?😊

左京区南禅寺福地町にある日本最初の勅願禅寺「南禅寺」。開基は『亀山法皇』とされ、京都五山・鎌倉五山の上におかれ、日本の禅寺の中では、最も高い格式を持ちます。
南禅寺三門は、歌舞伎の『楼門五三桐』の二幕目返しで、『石川五右衛門』が「絶景かな絶景かな……」と名科白を言う舞台ですが・・実際の三門は五右衛門の死後30年以上経ってからの建築なので、史実では有りません。

しかし流石は京都を代表する観光名所、何処を歩いても観光客で一杯。人の波を避けて何も無い静かな場所へと逃げ出しても、問題なく絵になる美しさです。

だからと言って、庭ばかりを歩くのも芸が無い😅  続いては明治42年(1909)に再建された「法堂」。漆喰の壁の色に、橙がかった紅葉の赤が映えます。で、この法堂、何で再建されたかと言うと、明治28年(1895)に炬燵の不始末で焼失したからだそうです。火を使っての暖房は殆ど見られなくなりましたが、この季節、火の扱いにはくれぐれもご用心。

白壁の向こうに見える桧皮葺の屋根は、国宝に指定されている「大方丈」「小方丈」

大方丈は天正年間建設の旧御所の建物で、慶長年間の御所建て替えに際して下賜されました。方丈前の枯山水庭園は『小堀遠州』作といわれ、通称「虎の子渡しの庭」と呼ばれています。

「南禅寺」塔頭のひとつ「慈氏院(じしいん)」。通称:達磨堂。南北朝時代に臨済宗の僧『義堂周信(ぎどうしゅうしん)』が『足利義満』から土地を譲り受けて創建したと伝えられます。

一般的に坐像の達磨大師が多いなかで、ここでは立ち姿の石造達磨大師像が奉祭されています。達磨大師の御足がある・・おあし(金銭)があるという事から「おあしがよる大師」として信仰を集めているのだとか😄。

境内池の周りには大小の地蔵様が思い思いの形で置かれており、鮮やかな紅葉が優しく陰を作っています。

さて!!、当初の目的である「南禅寺境内の水路閣」・・・ 渋滞をものともせず来た甲斐がありました😄😄 水路閣は、明治21年(1888)に完成した琵琶湖疎水の支線の一部となるレンガ造りの橋。琵琶湖の湖水を京都市へ流すために作られたものです。

水路の為の橋ですが、その造形美は多くの観光客の眼をひきつけて止まないようで、色んな方たちからシャッター係りを仰せつかりました😅 確かに見上げる煉瓦の壁はエキゾチックで不思議な美しさに満ちています。

絵になる世界・・・そんなに長い距離ではない筈なのに、何時の間にか見知らぬ異空間に迷い込んだような不思議な錯覚に囚われそうになります。

それにしても今でも水路閣の上を疏水が流れているのですから、黎明期の日本の技術に賞賛、かつ驚愕です。しかもその様子を、普通に目にすることが出来るというのも、驚き・・と言うか、感動でした。

この素晴らしい現役の歴史遺産を伝えているのが、南禅寺近くに有る「琵琶湖疏水記念館」。展示されている数々の資料を見ていると、当然の事ながら、幾多の尊い犠牲や艱難辛苦の上に、「琵琶湖の水」という得がたい宝を手にした経緯が、はっきりと伝わってきます。
今更ながら、「今以上に、もっと水を大切にしなければ」と、心に言い聞かせました。

さて、大事業であった「琵琶湖疎水」、興味を持たれた方は、是非、疎水記念館へ!!もう一つ、琵琶湖疎水には水の確保の為だけではなく、もう一つ重要な役割がありました。それが大津から宇治川に至る20.2キロの舟運ルートの充実。特に落差の大きい蹴上と伏見にはケーブルカーと同じ原理の傾斜鉄道が設置されました。

船が上がれない急な坂を、貨車を使って引っ張り上げたインクライン、それも又凄い技術です。南禅寺の直ぐ側には、「蹴上インクライン」の一部の設備が、静態保存されています。

最後に、琵琶湖疎水とは関係の無いものですが「歩行者専用通路:ねじりまんぼ」。「まんぼ」と言うのはトンネルを意味する方言。アーチ式の天井はレンガが巻き貝のように螺旋状に組まれており、捻れて見えることから「ねじりまんぼ」と呼ばれています。

実はこの工法、トンネルの強度を増すためのもので、今も現役で生活に根付いています。明治21年(1888)の建設で、東西入口には第三代・北垣京都府知事の揮毫による「雄観奇想」「陽気発処」の扁額。

訪問日:2005年11月26日


貴船(きふね)神社 in 京都府京都市左京区

2025年07月21日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

青々とした木々の中、 鴨川の源流貴船川に誂られた川床は、貴船の夏の風物詩として有名です。手を伸ばせば届きそうな近くに水面があり、川床をすり抜ける風は、真夏には最高の贅沢。
とは言え、贅沢は「(ス)テキ」😓な二人には、縁の無い光景、さっさと奥に進むことにしましょう。

京都市左京区鞍馬貴船町に鎮座される式内社「貴船(きふね)神社」。御祭神は『高龗神(たかおかみのかみ)』。水の神であることから、濁らずに「きふね」と呼びます。下八社の一社、古代:祈雨八十五座の一座とされ、古くから祈雨の神として信仰されてきました。

鳥居の画像はバイクの後部座席から捉えたもの。下車もせず一気に奥に進んだため、貴船神社の画像は奥の院参道からというお粗末さ・・もちろん、本殿への参拝はしておりません😔 この当時の私は、五分間の距離を歩くのが精一杯。御亭主殿は徒歩の距離を縮める為、可能な限り最目的地の近くまで私を運んでくれました。

そんな訳で、笑ってしまうほど画像は少ないのですが、私にとっては忘れ難い場所と言う事でブログにしました。さて、奥宮の入口にある鳥居の横に「つつみが岩」と名札のある巨岩が有ります。高さ4.5m、胴回り9m、鼓の形に似ていることから名づけられたそうですが・・どのあたりが似てるのでしょう?😅?

さて、貴船と言うと、水の神よりも「呪咀神」としての「丑の刻参り」が、良く知られています。現代の時間で言えば午前一時から三時・・まさに真夜中の時間帯。まさかその所為では無いのでしょうが、朱塗りの御神門の画像はまるで赤絵のようにおどろおどろしく・・

流石にカメラを向ける気にはなれませんでしたが、実際に奥の宮の後方にある木には、五寸釘を打ち込んだと言われる跡が残っていました。昼間でも決して明るいとはいえない奥の院。川のせせらぎは日差しの下でこそ優しいものですが、暗闇の中ではそれさえも恐怖になります。髪を振り乱しながら、憎い相手に見立てた藁人形に釘を打ち込む・・その姿は、ひたすら悲しく恐ろしく・・・ただ、ただ哀れです。

私たちが立つ奥宮は、本宮の上流側700メートルの場所にあり、以前はここが本宮だったそうです。桧皮葺の美しい神楽殿は、巫女による雨乞いなどに使われたのかもしれません。

苔に覆われ注連縄が張られた「御船型石」。案内には「玉依姫命が乗った黄船を、人目につかないように小石を積んで囲んだもの」とあります。
社伝によれば「神武天皇の母である玉依姫命が、黄色い船に乗って淀川・鴨川・貴船川を遡って当地に上陸し、水神を祭ったのに始まる」とあり、貴船の由来は「黄船」に因るとされています。また一説には、「気の産まれる根源」が転じて「気生根」になったとも言われています。

古来より貴船神社では、晴れを願う時には白馬、雨を願う時には黒馬が奉納されていたといいます。やがて馬を奉納できない者は、本物の馬に代わって板に描いた馬の絵を奉納するようになり、それが「絵馬」の発祥といわれています。

参拝日:2004年8月8日


京都府立植物園と半木(なからぎ)神社 in 京都府京都市左京区

2025年07月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

京都市左京区下鴨半木町、日本で最初の公立植物園として大正13年(1924)1月1日に開園した「京都府立植物園」。昭和21年(1945)から12年間は連合国軍に接収され閉園を余儀なくされましたが、昭和36年(1961)4月に再開。建物は1992年3月、当時日本最大級となる観覧温室として作られたもので、外観は池に浮かんだ金閣寺と、北山連峰のシルエットを取り入れた優雅なデザインとなっています。

展示植栽植物は約4,500種類・25,000本。国内初展示、初開花の植物も数多く、夏の訪問では、空想の花と思っていた「バオバブ」も、固い蕾の状態でしたが生で見る事ができました。

「バオバブの花」京都府立植物園公式HPより

花が咲く時期は担当者でも直前にならないとわからず、見られた人はラッキーだそうです。でもって翌年の春に「バオバブ」が初めて結実したと聞き再度の訪問。よい事がありそうな気にさせてくれました。

園内には観覧温室のほか、正門花壇、はす池、ばら園など20ほどのエリアがあり、面積24ヘクタールの広大な敷地にテーマ別に約12000種類、約12万本の植物が植えられています。

注意書きがなければ絶対に見落としていた「幻の園芸植物 センノウ」。鎌倉時代の末から室町時代の初めごろに、中国から渡来した多年草。の花ここに開花という事で、これを見られたのはラッキー?!

春の植物園では何と言っても桜が主役。初めてこの「大枝垂桜」を見た時は、感動して涙ぐみそうになったほどです。

園内には桜だけで実に130もの品種があり、3月上旬から様々な品種の桜が順次開花します。

端正にして華麗な姿はまさに神々に愛でられた美しさ。そして、眠りから覚めたばかりの若葉の上に降り注ぐ花びらの儚い淡さ、それはとても幻想的な世界。

植物園西側の賀茂川東側堤防沿い。約0.8キロにわたり、八重紅枝垂れ桜がトンネルのように咲き誇る「半木の道」が整備されています。顔も体も淡いピンクに染まった人たちが、ゆっくりと行き交い、すれ違います。

その昔、植物園の敷地は上賀茂神社の境外末社である「半木(なからぎ)神社」と、その鎮守の森を中心とした、田園地帯であったと言います。

由緒に「御祭神:天太玉(あめのふとだま)命。西賀茂の浮田の森にあった「流木神社」の三座の内の一座が賀茂川の増水で流失してこの地に漂着したことから創建され、その後「流木」が「半木」に転じたといわれる。」

面積24haの広大な敷地内の半木の森は、古代の山城盆地の植生を残す貴重な自然林として、そのままの形で活用するよう設計がなされています。合計で三度の植物園訪問でしたが、全部を見てまわれたかどうか・・自信ありません。

訪問日:2007年7月28日&2008年4月12日&2009年3月29日


北野東向観音寺 in 京都府京都市上京区

2025年07月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

京都市上京区観音寺門前町に門を構える真言宗泉涌寺派寺院「北野東向観音寺」。菅公御作の『十一面観世音菩薩』を本尊とし、洛陽三十三所観音霊場 第三十一番札所として知られます。

京都市指定有形文化財の本堂は、慶長12年(1607)北野天満宮本殿の再建の折、片桐且元を奉行とし豊臣秀頼公によって再建。
寺伝によると「延暦25年(806)に桓武天皇の勅を奉じて藤原小黒麿らが皇城鎮護のために建立。当初は朝日寺と呼ばれていた。天暦元年(947)に朝日寺の僧、最鎮らが天満宮を建立した後の応和元年(961)、筑紫の観世音寺より菅原道真公御作の十一面観世音菩薩を請来し安置。応長元年(1311)、無人如導宗師が中興し、花園・後醍醐・光厳・光明の四天皇信仰深く筑紫の観世音寺に擬して観世音寺または観音寺と改称し、天満宮御本地仏・北野神宮寺または、奥之院とも称した。本堂が東を向くことから東向観音と称されるようになる。」公式HPより

北野天満宮への参拝時に偶然見かけた「柴燈護摩供(さいとうごまく)」の案内。予定外の幸運に興奮を抑え切れない二人。時間を見計らって参加させていただきました。

「柴燈護摩供」とは、護摩木を焚いて加持祈祷する密教の秘法。何しろ初めての経験なので、目の前に展開される何もかもに興奮のしっぱなし😄

修験僧の法螺貝の音で儀式が始まり、まずは東西南北・天に向かって破魔矢を放ち結界を張って中央にある護摩壇に火がつけられます。この時放たれた矢を手にした人は、持ち帰る事ができるそうです。

修行僧の唱える真言の中、炎の中に次々と投げ込まれる護摩木は時折火の玉を舞い上がらせ、やがて炎は煙となって天に吸い込まれていきます。護摩木を投げ入れるお役を頂いた私、緊張してロボットみたい・・😣

「柴燈護摩供」が終了した処で境内の散策。こちらの「岩雲弁財天」は東向観音寺の鎮守神とされ、豊臣秀頼が、本堂を再建した際に奉納した弁財天が安置されています。普段は秘仏とされ、毎年12月1日の柴燈護摩供の折に御開帳されます。

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4メートルを超える巨大な「伴氏廟」は菅原道真公母君の御廟と伝わる石造五輪塔。元は、隣接する北野天満宮の三の鳥居西側に位置し、洛中洛外図などにもよく描かれていましたが、明治の廃仏毀釈で当寺に移されました。古来より、忌明にこの塔に参詣する風習があり「忌明塔」とも称されています。

また境内の奥には、『源頼光』を悩ました蜘蛛が棲息していたといわれる「土蜘蛛塚」があります。明治時代になって土蜘蛛の祟りがあったとされた折に、東向観音寺に奉納。傍らの由来書に「この蜘蛛灯籠は、もと七本松通一条にあって、源頼光を悩ませた土蜘蛛が棲んでいた所といわれた。明治年間に、この塚を発掘した処、石仏や墓標の破片した物が出土し、何等参考となる物は無かった。その時の遺物が、ここにある「火袋」で(・・・中略・・・)なお「土蜘蛛」とは我が国の先住穴居民族で、背が低い、まるで土蜘蛛の様だったといわれる。」 

「土蜘蛛」とは朝廷に従わない先住民たちの呼称であり、見つからないようにと密かに洞窟や横穴などに隠れ住んでいたと云われています。背が低く、その姿はまるで土蜘蛛のようだったとか。中世には人の怨霊が化けた妖怪として伝えられるようになります。ちなみに私の大好きな神楽の演目にも「土蜘蛛」が登場。宿敵「頼光」と、壮絶な戦いを繰り広げます。

参拝日:2007年12月1日


御土居の紅葉 in 京都府京都市上京区

2025年07月19日 12時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

「北野天満宮」の境内西側に「御土居(おどい)」と呼ばれる史跡があります。御土居は天下統一を成し遂げた『豊臣秀吉』が都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街を守る堤防として天正19年(1591)に築いた土塁です。現在市中に残る10カ所が史跡に指定。その一部が残る御土居一帯は、自生のものと後に植林されたものを含めた約350本の紅葉に彩られる「もみじ苑」として開放されています。

菅公:菅原道真公が愛でられた木といえば「梅」があまりにも有名で、どんな小さなお社にも必ず梅の木が植えられています。全国天満宮の総本社でもある北野天満宮の約2万坪の敷地には、梅の木50種約1500本が咲き競うとの事ですが・・私達が見たのはまだ蕾の芽吹きさも見えない、こんな状態でした。

話が逸れましたが、官公が「紅葉の錦」と詠んだ紅葉。想像するに満開時の梅の美しさに決して負けていない筈。

【このたびは 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに】

(今度の旅は急のことで、道祖神に捧げる幣(ぬさ)も用意することができませんでした。手向けの山の紅葉を捧げるので御心のままにお受け取りください。)

「古今集」に収録され「百人一首」にも登場するこの歌は、『宇多上皇』奈良行幸のお供をされた際、旅の安全をいのって幣をたむける山で詠まれました。

まさに神に捧げるのにこれほど相応しい錦があるでしょうか?見わたす限り一面の紅。錦秋とはよくも名づけたもので、そこに立つだけで自らも紅葉の一片になりそうな気がします。

御土居には、その昔紙漉き場であったと言う紙屋川が流れていましたが、今は殆ど水がありません。水の流れがなくなった川面に散り敷いた落ち葉は、幾重にも幾重にもふり積もって、紙屋川を朱色の道に変えています。

紅葉のスポットといえば必ず登場する朱色の欄干橋が、更に深く朱に染まり鮮やかさを競っています。

じっと見ていると、赤以外の色は見えなくなりそうな、そんな錯覚さえ覚えそうな世界。見知らぬ別の世界に迷い込んでしまったのではないかと、ともすれば心細さに泣きたくなるような気分になります。

真紅の世界から少しずつ現実の世界へ・・・赤の中に時折混じる緑がゆっくりと現実の世界へ私たちを引き戻していきます。

展望所から望むのは、色鮮やかな紅葉をまとった本殿の姿、それもまた神のまにまにでしょうか。いつかもう一度、あの紅の世界に迷い込んで見たいと思いつつ、三度目は叶わず今日まできました。もしかしたら、もう二度と行くことは無いかもしれないと・・・そんな風に思うこの頃です。

このお地蔵様たちは、御土居の土塁から出土した石仏だそうで、天満宮北門の向かいの祠に祀られていました。愛らしいお顔が描かれたお地蔵様たち・・もうずっと長い時を経て・・この場所から行き交う人たちを見守っています。

訪問日:2007年12月1日&2009年11月21日


北野天満宮~其の三 in 京都府京都市上京区

2025年07月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・京都府

昨日に続いての天満宮境内。「三光門」から真っ直ぐに伸びる参道の先、御社殿には、御祭神『菅原道真公』。御相殿に『中将殿(菅公の御子息) 吉祥女(菅公の北の方)』。社殿は本殿と拝殿、石の間、楽の間を連結した日本最古の八棟造(権現造)で国宝の指定を受けています。

何かの話の流れから、姪に質問された「石の間」。これは本殿と拝殿をつなぐ一段低い部屋の呼び名で、石造りの部屋という意味では有りません。でも石の間と聞くと、そんな風に想像しがちですよね。

社殿の後方に見える朱塗りのお社は「摂社:地主社」。御祭神は『天神地祇(てんじんちぎ)』。境内で最も古く天満宮創建以前より鎮座されており、全ての「天つ神:国つ神」が奉られています。

「摂社:地主社」の右手に延びる参道を北に進んだ先に鎮座される「文子天満宮」

菅原道真公の乳母『多治比文子』が、道真公を最初におまつりしたお社で、かつては西ノ京にありましたが、明治時代にこの地に遷宮されました。

「文子天満宮」の玉垣のうちにひっそりと置かれていた備前狛獅子さん。玉垣の外を覗いている阿形さん。吽形さんは誰も来ないように見張り役かな?

そんなおだやかな情景であればとても良かったのですが、本当は阿形さんのお顔は崩れてしまって無くなっているのです。それがわかっているからなのか、吽形さんの顔はとても寂しげに思えるのです。

2007年の参拝で見逃してしまった東門。2009年の参拝では忘れずに鳥居の外から撮影。

鳥居の左右より神域を守護されるのは、浪速型の狛犬さん一対。阿形さんがまるで白目を向いているように見えるのは何故でしょう?吽形さんは完全な逆光の為、その表情をお伝えできないのが残念。

鳥居の先に建つのは国指定重要文化財の東門。切妻造り、銅葺きの四足門で、随所に施された彫刻はいずれも見事なものです。

門の入り口にて神域を守護されるのは、おかっぱ頭が素敵な狛犬さん一対。首から流れるたてがみが、まるでスカーフのように見えて何とも微笑ましいです。

北野天満宮の最後は北門。左右には「星梅鉢紋」を染め抜いた提灯が掲げられています。

北門より神域を守護されるのは、嘉永年間建之の出雲構えの狛犬さん一対。はるばり出雲の地からここまでどんな経緯で運ばれてきたのでしょう。

門前には、西陣織りの発展に貢献した『五世:伊達弥助』を讃えた「西陣名技碑」が建立。西陣織の技術改良に貢献した伊達弥助(1838~92)の功績を讃えたもので、副碑にはその顛末が細かく記されています。

そういえば絵馬殿に奉納されていた「百人一種」の絵馬、西陣織で描かれていましたが、非常に手の込んだ細工でした。

参拝日:2007年12月1日&2009年11月21日