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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

下宮日吉神社 in 岐阜県神戸町

2020年01月31日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

神戸町下宮に鎮座される「下宮日吉神社」。御祭神は『大山咋神、大貴己神』

境内の入り口で参拝者を出迎えてくれる三猿。「見ざる・言わざる・聞かざる」

「創建は弘仁8年(817)、伝教大師の東国巡錫を機に、この地を納めていた『安八太夫』の願いにより、「比叡坂本日吉大社」の摂社として勧請されたのが始まりです。」境内由緒より


拝殿前より神域を守護されるのは、西保城主『不破河内守光治』が寄進した、笏谷石製の狛犬さん一対。室町時代末期の石造狛犬の遺構として貴重な事から、昭和33年に岐阜県文化財に指定されています

しっかりとガラス張りの覆い屋の中にいるので、画像では詳細な姿を紹介することは出来ません。が、大切な狛犬さんを守る為であれば致し方ないこと、実物を見られるだけでも良しとしましょう。


こちらは大正7年(1918)2月建立の浪花狛犬さん一対。阿形さんの手の下では、可愛い(?)仔狛が、なぜか逆立ちをしているのがユーモラス。>

日吉さんと言えば、何と言っても「魔除けの神猿(まさる)」は、無くてはならない存在。こちらは、いかにも神様のお使い風な「神猿」と、山から下りてきたばかり風の「お猿さん」のコンビ。

ちなみに神戸町神戸には、もう一社「日吉神社上宮」が鎮座されておりますが、未参拝。そちらでは国重文の三重塔や、狛犬さん(レプリカ)が拝見できたとか・・なんで帰宅して資料を探している時になって、そんな事実が判明するのか・・😭 神戸町町役場内に展示されていたレプリカの狛犬さん。たとえレプリカのレプリカでも見られたんだから良しとしなければ。

参拝日:2018年10月11日


義円(ぎえん)公園 in 岐阜県大垣市墨俣

2020年01月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

大垣市墨俣町下宿、鎌倉街道沿いに「義円(ぎえん)公園」と名づけられた一画があります。

名は『源義円(幼名:乙若丸)』、母は『常盤御前』『源義経(幼名:牛若丸)』の兄に当る人物で、頼朝の命により援軍として陣に参加し、墨俣川の戦いで平家の家人・高橋盛綱と交戦の末に戦死しました。
享年27歳・・・僧侶として生きていた彼にとって、源氏の名の下での死は本望だったのでしょうか?

後の時代の人間が、どう逆立ちしても分かりっこない事実を前に、あれこれ言うのは実はとても不遜なのです。供養塔の近くに建立されていたお堂には、誰が奉納したものか・・「義円地蔵」の碑。

治承5年(1181)4月25日、尾張・美濃国境付近の墨俣川において行われた「墨俣川合戦」。源氏軍の大敗という結果で終わった戦でしたが、そこにも多くの物語が秘められていました。

「義円公園」には、当時の合戦の様子が詳しく語られた案内板もあり、興味深い場所ではあります。けれども源氏の武将の名を上げろと言われてとっさに出てくるのは、義経・頼朝に木曽義仲くらいというお粗末さ。
まさかこんな場所で、義経の兄「義円」の存在を知る事になろうとは夢にも思いませんでした。

そうそう、この「義円公園」、全くの下調べ無しの訪問だった為、最初は別の場所に立ち寄ったのです。そこで「史跡・伝説の案内」を見て、【あれ?ここじゃない、間違ってる】と気がつきました。
でも今になって考えれば、大海人皇子をはじめ、かなり興味ある人物の名もあり・・立ち寄らなかったのが悔やまれます。

「史跡:鎌倉街道」の碑、その後ろに見えている鳥居が、案内板に掲載されている伝説の『木花咲耶姫命』をお祀りする「不破明神」・・😥

訪問日:2018年10月11日


墨俣城(すのまたじょう) in 岐阜県大垣市墨俣

2020年01月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

 永禄9年(1566)、『木下藤吉郎(豊臣秀吉)』が一夜にして築いたと伝えられる「墨俣(すのまた)一夜城」。その城跡に、大垣城の天守を模した城郭天守「墨俣一夜城歴史資料館」が建っています。

犀川を跨ぐ「太閤出世橋」を渡ると、突き当たりで「木下藤吉郎秀吉の像」が出迎えてくれます。銅像の『木下藤吉郎秀吉』・・『藤吉郎』か『秀吉』か、どっちかにして欲しいと言うか・・・秀吉にするなら姓は『羽柴』でしょう😅

さて、一夜にして築を築くと言うと、ひどく嘘くさく聞こえますが、実際はもの凄く短い期間という意味の比喩。また、城と言う言葉で城郭を想像しますが、当時は砦のようなものと考えれば納得。
復元された「藤吉郎の馬柵」は、騎馬を防ぐためのもので、その隣に「墨俣城碑」があります。

かって竹下内閣が「ふるさと創生事業」の名の下に、全国の市町村にバラ撒いた一億円😩。 墨俣町はこの1億円を基に、当時の墨俣城とは全く別物の模擬天守の墨俣城を1991年に築きました。四層天守の上には純金のシャチホコが乗せられていましたが盗難にあい、色々と物議をかもしたものです。しかし何を考えて純金のシャチホコなんて・・・。後に破損されて発見されたそうです。

歴史資料館の北側に「墨俣築城犠牲者の墓」。戦のさなかの事、犠牲者は築城時に限らなかったと思いますが・・どのような経緯で作られたのでしょうか🙏。

資料館の一画に、「すのまた」を読み込んだ『西行法師』の歌碑😄

【 春来れば  うぐいすのまた 梅に来て  みのなりはじめ 花のおわり 】

近藤一鴻 (1912-1996) 』句碑、【 わが郷に  城跡のこり 太閤忌 】

墨俣公園内には「美濃国安八郡式内社の荒方神社」の論社、「白鬚神社」が鎮座されています。元々は、本巣郡と安八郡の境の(現在の犀川)河川敷に鎮座されていたものと伝えられ、創建時期は不明ですが、寛文年間、天和年間の書物に「白髭大明神:白髭神社」の記述があります。

御祭神は『猿田彦命 (さるたひこのみこと)』。

「白髭神社」の向かって右手には、出世の神の幟がはためく「豊国神社」が鎮座。

模擬天守が築かれた折に、大阪城公園の「豊國神社」から御祭神を分祀したそうです。

『豊臣秀吉』の馬印の瓢箪は、戦に勝つ度に瓢箪を増やした故事から「千成瓢箪」とも言うとか。願い事が記された沢山の「願かけ出世ひょうたん」。城内の売店で販売されています。

訪問日:2012年5月14日


中仙道赤坂宿界隈 in 岐阜県大垣市

2020年01月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

中山道:江戸から数えて56番目の宿場「赤坂宿」、美濃国不破郡赤坂村(大垣市)に所在し、美江寺・垂井間の宿駅として栄えてきました。川を交通の手段としていた明治30年(1900)の初期には、川港の赤坂港には500艘を超える船が往来したといわれます。

その赤坂の中心地:中山道と谷汲街道の交差点に建つ「赤坂港会館」。はじめて目にしたとき、なんて私好みの綺麗な建物と思わず小躍り😍

建物は明治8年に建てられた岐阜県警察第2区大垣出張所の第5分区屯所を復元したもの。典型的な明治初期の疑洋風建築でしたが、痛みが激しく修復が困難なため、外観を復元し「赤坂港会館」として建設されました。

頂上装飾が載り、仕上げは大壁塗りで、隅は石張り形式。建具にはガラス戸や鎧戸を配した、まさしく憧れの明治期の疑洋風建築。失われてしまった事は残念ですが・・

それでもこうして復元された建物が美しいことは事実、思わずシャッターを押し続けていて、ふと、傍らに鳥居を発見。「浅間神社」の社号標があります

『木花咲耶姫』をご祭神とする「浅間神社」。創建年紀は不詳、元「浅間権現社」とも称し、古来より「富士の宮」として親しまれていました。

文久元年(1861)、皇女和宮が降嫁の途上で赤坂宿に宿泊した際には、これに備え「お嫁入り普請」と呼ばれる家の建替えや新築が行われたと言われる赤坂宿。今もこの界隈には、当時の様子を偲ばせる建物が残されています。

「左 禅蔵寺道」と刻まれた道標、「左 たにくみ道」と刻まれた道標、いずれも中山道の賑わいを今に伝える史跡といえるものでしょう。時間が有れば、赤坂宿らしい町並をもう少し丁寧に歩いてみたかったのにと・・相も変わらずの愚痴😩

訪問日:2012年5月14日


加賀野八幡神社 in 岐阜県大垣市

2020年01月19日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

大垣市加賀野、名門後藤家の居城であった加賀野城の跡地に鎮座される「加賀野八幡神社」

御祭神は、『応神天皇・天照皇大神・豊受大神・家津御子神・速玉之男神・熊野久須美神』。本殿の左右に「熊野権現神社」「神明神社」が鎮座されます。

本殿前より神域を守護されるのは、瓦材で作られたと思われる「獅子顔の狛犬さん一対」。愛嬌のある顔で参拝者を迎えてくれます。

こちらは本殿脇障子の彫刻ですが、好みで言うなら「ごめんなさい!!。「獅子の谷落とし」の方はさほどでも有りませんが、右側の見上げる獅子の姿が何というか爬虫類っぽくて😣

創建は、康永年中と言われ、明治40年(1907)12月に「熊野神社」「神明神社」を合祀。古くは世安の荘の惣社として崇敬され、安産の神と伝えられています。

拝殿前より神域を守護される狛犬さん、こちらも😔・・・・・・

境内には、大垣の豊かな自噴水を代表するものとして2008年に環境省より「平成の名水百選」に選ばれた「加賀野八幡神社自噴井」があります。

豊かに湧き出る水は、初夏の渇いたのどに優しく染み込み、まさに水都の名にふさわしいもの。持参したペットボトルに頂いたお水は、旅の合間合間に私たちを喜ばせてくれました。

参拝日:2012年5月14日


あちこちウォッチ in 岐阜県大垣市

2020年01月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

木曽川水系の一級河川:水門川周辺には見どころが沢山あり、たとえば「大垣:桑名間汽船開通記念碑」もその一つ。水運の要路であった水門川の「大垣、桑名間」に定期汽船が開通したのは、明治16年(1883)の事だったといいます。

歴史を感じさせる円筒形の碑は、文政年間に大垣城下京口御門の南の美濃路沿いに建立された「船町道標」「左 江戸道」「右 京みち」の文字が深く刻まれており、はっきりと読み取れます。

水門川沿いに「大垣城西総門跡」まで行くと、綺麗に装飾された「京橋」が見えてきました。おそらく「鏝絵」の手法であろうと思われますが、住吉灯台と水門川の風景は特に圧巻です。

橋の反対側には、「紅葉と川を泳ぐ鯉」でしょうか?色が無いのに紅葉と思える技に感服します。

橋の内側からではなく、水門川から見る高覧部分にも、松に飛鶴や、群れを作る鶴たちがが繊細に描かれています。

人の気配が感じられない屋形船がゆったりと浮かぶ「水門川」、アーチの向こうに見えているのは「秋葉神社」のようです。

「大垣宿本陣跡」は、明治11年(1878)に明治天皇が東海・北陸御巡幸の際に御宿泊された場所です。現在は「大垣宿本陣跡附明治天皇行在所跡」として、大垣市の史跡に指定されています。

本陣跡の敷地にあった朱塗りの鳥居の「稲荷社」は、本陣に元々あった屋敷神でしょうか? 鳥居額には「元保 正一位稲荷社」と書かれており、小さいながらも手入れが行き届いています。

大垣市藤江町にある、臨済宗妙心寺派寺院「醫王山禅桂寺」。たまたま通りがかったお寺ですが、立ち寄った以上は素通り出来ない二人、「南無釈迦牟尼仏」のご挨拶で合掌🙏🙏

「金蝶園総本家」に数ある銘菓の中でも、特にお奨め度が高く美味しいと評判の「水まんじゅう」。マンホール撮影の為に来たのですが、雨の所為で持って出たのはデジカメだけ😔 傘はあるけど(お)金が無い~♬
こういう事は良くある事😅、今回は縁がなかったと言う事で、また次の機会を待ちます。

訪問日:2018年10月10日

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市内から大幅に離れて、大垣市曽根町にある「曽根城公園」。春日局ゆかりの地という事でやって来たのですが・・・😅 あったのは『春日局』の父「曽根城家老:斎藤利三屋敷跡」の碑。確かに縁の地ですが・・・、ちょっと肩透かし。

曽根城公園には「梁川星巌(やながわせいがん)と、妻:紅蘭」の銅像が建立されています。『星巌』は江戸後期の漢詩人で、後に京都に住み、勤王の志士と交わって国事に奔走した人物です。実はこの銅像の主が『春日の局』なのかと期待したのですが、そうでないとわかってかなりガッカリ😔

訪問日:2012年5月14日


大垣城公園 in 岐阜県大垣市

2020年01月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

昨日紹介した大垣城から奥に進むと「麋城(びじょう)の滝」があり、涼しげな水音が聞こえてきます。「麋(び)」は「おおじか」という意味以外に、水際、畔などのように、水辺のことをも意味しています。ここでの「麋」は、大垣城の別名である「巨鹿」と同じ意味合いかと思いますが・・さて、どうでしょう?

「麋城の滝」近くに、治山治水に一生を捧げた『金森吉次郎』氏の銅像があります。

元治元年(1864)大垣市で生まれ、明治21年(1888)7月の揖斐川洪水の際は、大垣輪中の救済委員として、明治29年の水害の際には大垣輪中堤防委員長として、一面に浸水した大垣輪中の水防のため最前線で指揮を執り、的確な決断により災害の拡大を防止しました。(大垣市HPより)

大垣城天守の石垣には、大垣の約8割が屋根まで達するという大水害時の浸水位が刻まれており、碑とともに当時の惨状を現在に伝えています。この浸水位を刻んだ石は、画像で見ると丁度碑の後ろ。角の詰石も入れると4つ目の後方です。

拡大するとこんな感じですが、石垣に刻まれた横線(→)がその時の水位を示しています。昨年・一昨年・・それ以前も含めて、日本各地に多くの被害をもたらした大型台風による水害の爪痕を思い起こす時、改めて時代によって変わらざるを得ない「治山治水」の重要性を考えさせられます。

大垣公園内の一画、古代ギリシア建築を思わせる建造物は「大垣消防組員頌徳碑」。実は、エンタシスに支えられた碑文を見るまで、これが何なのかわからず、随分場違いなものが・・と思ったのですが心得違いでした。

「麋城の滝」から更に裏手に進むと「濃飛護国神社」の社号標と鳥居が見えてきました。ここには岐阜県(主として西濃・飛騨地方)出身の戦没者・1万8900余柱が祀られています。

 いつもなら拝殿まで行って参拝をするのですが、今回は残り時間も少なく、また湿気を含んだ風も出てきた為、本殿後方からのお参りで済まさせていただきました🙏🙏。

こうして振り返ってみると、もう少し余裕があればもっと細かい場所も行けたのにと・・毎度の事ながら同じ後悔をして、まぁ、でもそれだからまた来ようとも思えるのですが。 見納めに振り返った大垣城、目の前に見えるこの城郭が、昭和42年(1976) に復元されたという乾櫓でしょうか?

訪問日:2018年10月10日


大垣城 in 岐阜県大垣市

2020年01月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

大垣市郭町に築城された「大垣城」、別名を「巨鹿(きょろく)城」とも、また「麋(び)城」とも称し、天文四年(1535)、『宮川安定(みやがわやすさだ)』によって築城。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは、西軍『石田三成』の本拠地となり、大垣市のキャラクターにもなった「おあむ物語」や「七騎多門」など、多くの歴史ドラマが生まれました。

外堀に水門川の流れを利用して築城された四層四階建ての天守は、廃城令の後国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)7月の空襲によって焼失。昭和34年(1959)に郷土博物館として鉄筋コンクリ造りで再建されましたが、その姿は当時のものとはかけ離れていたため、2010年の改修工事で国宝当時の外観に復元されました。

大垣公園内には、大垣城を背景に「美濃大垣藩・初代藩主『戸田氏鉄(うじかね)公』騎馬像」が凛々しい姿で訪れる人たちを出迎えてくれます。

東門は、かつての柳口門を移築したもので、現在は大垣城の正門として使われています。

 

四層四階建ての天守は博物館として一般開放されており、入館料は100円と格安。館内には、関ヶ原の合戦をモノローグでリアルタイムに追ったムービーや動画コンテンツ、火縄銃や槍などを実際に触ることができる展示コーナーもあります。

天守前に建つ城址碑には、明治の廃城令の後、残された天守閣と丑寅隅櫓が国宝に指定された事、しかし戦火に寄り焼失した事などが、細かく記されています。

城址碑とは反対側の、ささやかな小山状の一画に『香淳皇后』の歌碑を見つけました。昭和33年(1957)、民生委員制度の発足40周年にあたるこの年に、民生委員に賜った御歌とあります。思いがけない発見に嬉しくて思わずガッツポーズ😄 

【 さちうすき  人の杖とも柱とも  なりていたわる  人ぞたふとき 】

 

「戊辰の役顕彰碑:明治維新に当り大垣藩主戸田氏共公は家老小原鉄心の意を採り戊辰の役にその進路を誤らしめなかった。本年戊辰の年を期に大垣城跡に記念碑を建立しその偉業を顕彰する」鳥羽伏見の戦いでは幕軍として戦った大垣藩ですが、その後直ちに勤皇に転じ、藩兵千二百人を出兵させて戦功をあげた旨が記されています。

城址には他にも沢山の碑が建立されていましたが、資料も少なく何の碑なのかも不明😓 特にこの碑などは文字列が漢詩か歌碑っぽく、できれば説明が欲しかったのですが・・きりが無いので全部省略。興味ある方は是非現地で確認してください。

ここは「水之手門跡」。石段の先にあるのが冒頭にも登場した『おあむ』ゆかりの松です。

「関ヶ原合戦時、三成に属して大垣城に籠っていた山田玄暦と娘・おあむの一家が、西堀端の松からたらい舟に乗って無事脱出できた。」その時の松が「おあむの松」として残されたとかで、この松は二代目だそうです。

※『おあむ物語(おあんものがたり)』とは、『石田三成』の家臣である『山田去暦』の娘が『雨森儀右衛門』の妻となって土佐に下り、晩年に関ケ原の戦いにおける大垣城籠城の体験を追憶した話を筆録した記録です。

訪問日:2018年10月10日

 


おくのほそ道:芭蕉句碑巡り~其の二 in 岐阜県大垣市

2020年01月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

昨日に続いての芭蕉句碑巡りは元禄2年9月、「奥の細道」旅の途中に、大垣にある『木因』の別邸に招かれた折の挨拶吟。

【 隠家や  菊と月とに 田三反 】(この隠居所の庭には菊が咲き、月も美しく見えるし、更に田も三反あって、実に素晴らしい)

元禄2年(1689)5月27日に出羽国(山形市)「立石寺」に参詣した際に詠んだ発句。

【 閑さや  岩にしみ入 蝉の声 】(あまりにも閑かな山寺なので、煩いほどの蝉の声さえ岩にしみ込むように思えるよ)

元禄4年、芭蕉48歳の最後の江戸下向の折、『宮崎荊口』の次男『千川』宅にて詠んだ句。

【 折々に  伊吹を見ては 冬ごもり 】(あなたはこの立派な屋敷から、その折々に伊吹の雪を眺めながら、冬を越すのですね)>

元禄2年7月12日 市振の宿にて
【 一ツ家に  遊女も寝たり 萩と月 】(同じ一軒の宿に遊女と泊合わせた。おりしも庭には月の光に照らされて萩の花が咲いている)
ちなみに私はこの句を見ると、昔読んだ『横溝正史』の「獄門島」の一場面を思い出します😅

元禄二年(1689)3月27日、芭蕉は深川から舟で隅田川を遡り、千住大橋の北側あたりに上陸。そこで見送りの人々と別れる時に詠んだ句で、「矢立の初め(旅日記の一句目)」と記されています。

【 行く春や  鳥啼き魚の 目は泪 】(この素晴らしい季節が去ってゆく時は、空の鳥や水中の魚さえも悲しさに泣いている様だ)

元禄2年(1689)、日光東照宮に参拝し、その神聖で荘厳な雰囲気に敬意を表して詠んだ句。

【 あらたふと  青葉若葉の 日の光 】(なんと尊いことだろう日光山は。新緑に埋もれる木の下闇まで燦々と日の光が射している。)

奥の細道の句碑巡りは、激しさを増した雨に阻まれて、已む無く断念することになりました。いつか、撮り残した句碑の全てを、アルバムに収集できる日が来ればと願っています。

訪問日:2018年10月10日


おくのほそ道:芭蕉句碑巡り~其の一 in 岐阜県大垣市

2020年01月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

「奥の細道 むすびの地」に用意された案内板には、芭蕉の句碑の所在地がコースと共に掲載されています。この通りに歩けば、全句碑を網羅できると言う事になりますが、雲行きもこの上なく怪しくなってきたし、私の足を考えるとさすがに全行程・徒歩では無理。

とりあえず近くは徒歩で、後は車で巡る事に。住吉公園の小さな敷地内に見つけた碑は、昭和42年9月9日建立。
【駒にたすけられて大柿の庄に入ば・・・奥の細道紀行 大垣の一節をしるす」

天和3年(1685):芭蕉40歳、前詞に「憂いてはまさに酒の聖を知り、貧してははじめて銭の神を覚る」

【 花にうき世  我が酒白く 飯黒し 】(世間は花に浮かれているというのに、私の酒は清酒ではないので白く濁っているし、米は玄米だから黒いのだよ。)

歩く先々でマンホールを見つけては、脇道にそれてしまう句碑巡り😅、コースも何もあったもんじゃありません。
元禄2年8月16日(現:福井県敦賀市にて)【 さびしさや  すまに勝ちたる  浜の秋 】(『源氏物語』に出てくる須磨の秋よりも、種の浜の秋はそれ以上だ、日本一の寂しさだよ)

元禄2年8月15日(現:敦賀市にて)【名月や  北国(ほっこく)日和 定(さだめ)なき 】(昨夜はあれほど月が綺麗だったが今夜は雨、北国の天気は実に読めないものだ)

貞享~元禄年間の作と伝えられています。【 ふらすとも  竹植る日は みのと笠 】(たとえ雨が降っていなくても、竹を植える梅雨の時期には蓑笠を着て作業してほしいものだ。)
中国の伝説で、陰暦5月13日の「竹酔日(ちくすいじつ)」に竹を植えると、枯れないと云われています。

元禄2年8月下旬、「奥の細道」旅の中『高岡三郎(俳号斜嶺)』亭に招かれた折の挨拶吟。

【 其まゝよ月  もたのまじ 伊吹山 】

「戸を開けば西に山あり、伊吹といふ。花にもよらず、雪にもよらず、ただこれ孤山の徳あり」

まだまだ続く「松尾芭蕉・句碑巡り」、続きはまた明日・・・・😊

訪問日:2018年10月10日