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車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

奥の細道:結びの地 in 岐阜県大垣市

2020年01月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

かって美濃路の宿駅として栄えた大垣町。慶長年間から整備が始まった水上交通により特に水運が発達。中でも、水門川にある船町湊は、桑名や伊勢方面などとの舟運でにぎわったと云われています。

「奥の細道」の旅を終えた『芭蕉』は、友との語らいの後、ここから船で伊勢に向かいます。友人の『谷木因(ぼくいん)』に見送られて伊勢へと向かう『芭蕉』、二人の立つ位置に表現される距離が胸に染みます。

元禄2年(1689)8月、『芭蕉』は「奥の細道」の結びの地として、大垣にしばらく滞在しました。途中で別れた弟子の『曾良』も駆けつけ、土地の俳人たちとの交流で長旅の疲れを癒した『芭蕉』。 その後、伊勢神宮の遷宮拝観のため、船町港から水門川・揖斐川を舟で長島へと向かいます。

芭蕉の目に映った水門川と、川面に影を落とす住吉灯台の風景は、どのように見えたのでしょうか?二人の像の近くには、奥の細道:結びの句が刻まれた「蛤塚」が建立されています。(2014年3月、「蛤塚」を含めた一帯は、「国名勝:おくのほそ道の風景地」に指定されました。)

塚の前の道標は、船町港の高橋畔に建てられていた「木因俳句道標」と呼ばれるもので、大垣から桑名への地名と里程が巧みに詠み込まれています。

【 南伊勢  くわなへ十里 ざいがうみち 】

【 蛤の  ふたみに別 行秋そ 】「蛤塚」の所以となった、芭蕉結びの句の文字は、昭和32年(1957)に藤堂家秘蔵の原本から写真拡大して刻したものだそうです。(ハマグリの殻と身とを引き剥がすような、こんな悲しい別れの時がまたも来てしまった)

蛤の句碑の後ろには「木因俳句道標」と共にここに移された「白桜塚」の句碑が建立されています。【 惜むひげ  剃りたり窓に 夏木立 】木因

朱塗りの住吉橋を渡った先に立つ住吉灯台、その横に「芭蕉送別連句塚」。

【 秋の暮  行先々ハ 苫屋哉(とまやかな) 】木因

付句として【萩(はぎ)にねようか荻(おぎ)にねようか】芭蕉

【 霧晴ぬ  暫ク岸に 立給へ 】 如行

【 蛤の  ふたみへ別 行秋そ 】 芭蕉

「芭蕉送別連句塚」に刻まれた『如行霧塚』の句碑【 霧晴ぬ  暫く岸に 立給へ  】

「芭蕉は、元禄2年(1689)3月27日に、弟子の曽良とともに江戸を出発し、東北・北陸地方を巡り、8月21日に大垣で、「奥の細道」の旅を終えました。ときに芭蕉46歳。距離にしておよそ2400キロ、150日あまりにおよぶ生涯で最大の旅でした。」
「奥の細道むすびの地記念館」は、大垣市制90周年を記念して『谷木因』の屋敷跡に建設されました。

記念館の敷地内には、大垣藩老『小原鉄心』の別荘の一つ「無何有荘大醒榭」が移築されています。「無何有」とは、道教の『荘子(そうし)』の言葉で「無にして何ぞ有らん」という意味だそうです。

「大醒榭」は和風に中国風意匠を取り入れた設計で、屋根は茅葺き、外側は鮮やかな紅殻塗装。南側の衝立には、江戸時代には珍しい「ギヤマン」と呼ばれた色ガラスがはめ込まれています。

「国名勝:おくのほそ道の風景地」として整備された水門川周辺。明日は芭蕉の句碑巡りです。

訪問日:2018年10月10日


法泉寺&正覚寺の芭蕉句碑 in 岐阜県大垣市

2020年01月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

明星綸寺を後にして次に向かったのは大垣市赤坂町にある真宗大谷派寺院「清白山:法泉寺」。と言っても目的は芭蕉の句碑なのですが・・、そんなことばかり言ってたら、仏様に叱られそう。

山門横に設けられた藤棚の下に建立された碑の句は、別名「大和紀行」「卯辰紀行」とも呼ばる「笈(おい)の小文」の一句。
【 草臥(くたぶれ)て  宿かる比(ころ)や 藤の花 】貞享5年(元禄元年)、芭蕉45歳(歩き疲れて宿に入ろうと思っていたら、綺麗な藤の花が咲いていて、思わず見てしまった)

芭蕉の句碑が目当てですが、お寺に来たからには、きちんとご挨拶をするのは一応の礼儀。とは言え、宗派を持たない私たちなので、「南無阿弥陀仏」とお唱えします🙏🙏

「法泉寺」を後にして次に向かったのは、大垣市船町にある曹洞宗寺院「正覚寺」。車で探すにはとても分かり難い場所で、同じ場所を何度も往復してしまいました😓
史跡「芭蕉・木因遺跡」の碑は、意識してみなければ分からない、細い路地の入り口にあります。

史跡の碑を見ても本当に間違いないのかと不安になりそうな狭い路地、とりあえず行って見ることに。場所的に車の進入は不可。近くに駐車場も無い為、ご亭主殿は車中で待機。

突き当りまで進むと「芭蕉・木因遺跡」の説明と、幾つかの句碑が並ぶ一角が見えてきた時には思わず「良かった・・間違ってなかった」😅「元禄7年(1694)、芭蕉が大阪にて病没すると、如行らはこれを深く悼み、正覚寺に路通筆「芭蕉翁」追悼碑を建てた。さらに、木因の死後、芭蕉と木因の親交を偲び、木因碑を建て「芭蕉・木因遺跡」とした。」説明版より

元禄七戌年(1694)十月十二日、路通筆「芭蕉翁」と刻した自然石の芭蕉追悼尾花塚。日本最古の翁塚として有名です。尾花塚の向かって左に

【 あか/\と  日はつれなくも 秌のかぜ 】はせを翁

この「翁塚」と相語らう位置に「木因墓」が作られており、それゆえこの場所は「芭蕉木因遺跡」といわれています。

画像の向かって右端、背の高い句碑は、江戸時代後期の俳人『氷壺仙』。明治十年の建立。【 無心とは あの白雲ぞ 秋の山 】

画像の右側手前、白い円柱形の句碑には、三名の句が刻まれています。

【 住みあいた 世とは嘘なり  月と花 】 帰童
【 名月や ことしの影は  ことしとて 】 冬恕
【 しずけさや  芭蕉にかかる  雨の音 】 蘆元坊

左端の丸い句碑【 野に咲けば 野に名を得たり 梅の花 】梅花佛

安政六年建立【乗りながら馬繋がれて春寒し】軽花坊 
【菜の花の 香やほろほろと 暮の雨 】曙庵

そうそう、ここは曹洞宗のお寺さんですが、手水舎の側に狛犬さんがおいでになりました。時間に急かれながらなので、じっくりと全体を写すことも出来ず、台座も読み取れません。

年代も石工も全くの不明ですが、扇状の尾をちょこんと立てた姿は、中々に愛嬌があります。

元禄七年十月十二日:時に芭蕉五十一歳。生前の遺志によって、近江国「義仲寺」に葬られます。【 旅に病で  夢は枯野を かけ廻る 】これが、芭蕉の生前最後の句となりました。

明日は「結び地記念館」から水門川周辺に建立されている『芭蕉』や俳友の句碑を紹介します。

訪問日:2018年10月10日


明星輪寺~其の二 in 岐阜県大垣市

2020年01月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

「明星輪寺」其の一では、いきなり本堂からでしたが、境内には他にも素晴らしい場所が一杯。という事で~其の二は、境内からお寺の入り口に向かう帰路の順で紹介。 本堂の脇の丘「岩巣公園」を降りる途中に建つのは、修験道の本尊を奉る「蔵王権現堂」。ただし、明治の神仏分離令により、「蔵王権現宮」は「金生山神社」として分離独立しています。 が、神仏を分離してもその存在が消滅するわけではなく、やはり『蔵王権現』はここに座しておられるのです。

参道の左手(帰路なので右手)に設けられた石段参道の先には、「子育大菩薩地蔵堂」

国重要文化財に指定された 「木造地蔵菩薩半跏像」は平安時代の作と伝えられており、【この像は、檜寄せ木造りの半跏像で木眼、安定した岩座に蓮華座を重ねた4重座に腰をおろし、右足を曲げて左足を下げ足下に蓮華を踏んでいる造形は極めて珍しい。古くから安産育児の菩薩として親しまれ、今では全体に木地が現れているものの、もとは色彩像であったと思われる。】と記されています。

地蔵像は拝観できませんでしたが、堂内には弘法大師像をはじめ多くの仏像が祀られています。

県指定重要文化財の「梵鐘」には、【銘明徳二二癸酉年三月十二日】と刻まれているとのこと。総高103.0cm、口径60.6cm厚さ7.2cm。大工『藤原為継』、明徳4年(1393)3月の鋳造とありました。

参道の一画には、今回の参拝目的の一つでもあった「芭蕉の句碑」。「奥の細道」の旅を終えた『芭蕉』は、元禄2年(1689)8月28日に当寺を参詣したと云われています。

【 鳩の聲(こえ) 身に入(しみ)わたる 岩戸哉  はせお 】

季節の花が深い緑の中で僅かに色を添え、奉納された石灯籠と白い幟が僅かに風になびく参道。それはこの上なく美しく、深呼吸のたびに清らかなもので満たされるような不思議な感覚・・

もう一つ句碑を発見、【 芒(すすき)いま 西陽を受けて 幽邃(ゆうすい)なり 】塩谷小鵜

明星輪寺の山門は仏寺の守護神である「金剛力士」を安置する仁王門。そのお姿を直に見る事ができます。

鎌倉時代初期の製作と伝えられる「木造金剛力士立像」は、檜材を主体とした寄木造。この時代の仁王像としては比較的大きな優作であり、岐阜県重要文化財に指定されています。

『虚空蔵菩薩』を祀る寺の入り口には、牛と虎を一対とした立派な石像が奉納されています。

参道の右手、満開の芙蓉の花に包まれたような虎ですが、まるで満面の笑顔に見えませんか😊。阿吽の阿を担当しているからにしても、何と言うか・・大口から笑い声が聞こえてきそう。

御真言【のうぼう  あきゃしゃ  きゃらばや  おん  ありきゃ  まりぼり  そわか】

参拝日:2018年10月10日


明星輪寺~其の一 in 岐阜県大垣市

2020年01月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

大垣市赤坂、金生山(標高217.1m)の山頂付近に境内を構える真言宗寺院「金生山:明星輪寺」。西美濃三十三霊場第三十一札場、地元の人からは「赤坂の虚空蔵さん」と親しまれています。

本尊は、岩屋の中に奉られる『虚空蔵菩薩』。役小角が彫刻したものと伝えられ、「伊勢の朝虚空蔵」「京都の昼虚空蔵」と並び、日本三大虚空蔵の一つ「宵虚空蔵」として有名です。

縁起に「持統天皇の勅願により鎮護国家の道場として朱鳥元年(686)、役の小角の創立にかかり七堂伽藍をはじめ一山五坊を創建し本尊虚空蔵菩薩を安置す。その後衰退していたが空海(弘法大師)来山し諸堂を再建修復す。久安四年雷火の為に伽藍残らずに焼失したが時の住僧は八方に手を尽くし復興を図って本堂その他諸堂は再建されたが、塔は再建出来なかった。その後、慶長十四年美濃高須の城主徳永法院壽昌公は本堂はじめ諸堂を再建された。江戸時代に入って大垣藩主戸田家は代々祈祷所と定め帰依し保護する。」
文久3年(1863)再建の本堂は、大垣藩藩主『戸田氏彬』によるもので、大垣市重要文化財の指定。

こちらでは内陣の参拝ができるとの事、御朱印を待つ間にご亭主殿と二人、早速靴を脱いで・・😲・・・😲 。

何と言って形容したら良いのか、圧倒的な「気」に二人とも言葉を失い、ただ立ち尽くすだけ。この画像は公式サイトよりお借りしたものですが、実際に見るともっと強大な質感に圧倒されます。

興奮状態で本堂を出ると、柔らかな朝の空気が心地よく肺に流れ込んで、思わず深呼吸😊。特別高い山ではありませんが、本堂の横からは濃尾平野が一望でき、とても美しい眺めです。

本堂の向かって左手には「金生山岩巣公園」に至る階段が設けられており、早速行ってみる事に。 群立する無数の奇岩が生み出す造形の妙は、果てしない年月が生み出した自然界の奇跡といっても過言では有りません。

『虚空蔵菩薩』は『丑寅虚空蔵』とも言われ、牛年・虎年生まれの「守護佛」とされています。この石灰岩の上に置かれた「牛」は、少しずつ廻りの岩と一体化しつつあるようにも見えます。

岩肌にへばりつくように咆哮する虎像は、彫刻師『清水金峯翁』がおおよそ七年の歳月をかけて、手彫りで彫り上げたもの。 車で来るのさえ、その勾配の急さに恐れをなした坂道も含めて、八キロの道を徒歩で、しかも七年間も・・その姿を想像すると胸が締め付けられるような・・言葉に出来ない何かがこみ上げてきます。

磐座のさらに上には、衆生救済のため菩薩の身となった『聖(しょう)観音』が彫られています。誰がどのようにして彫り上げたものか分かりませんが、美しい姿でそこに座しておられます。

古生代二畳紀石炭紀の造成になる自然岩石園は、太古の昔、一帯が海底にあった事を示しています。この一帯が海の底であった・・想像するだけで圧倒されます。朝の日差しを避けるかのように、えぐられた岩の隙間にひっそりと納められた仏様。 時間が止まったような、もしくは超速力で時間が過ぎ去るような、そこは不思議な世界なのです。

参拝日:2018年10月10日


養老(ようろう)神社 in 岐阜県養老町

2020年01月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

養老郡養老町、養老公園内に鎮座される「養老(ようろう)神社」

御祭神は『菊理媛神(くくりひめのかみ)・菅原道真・元正天皇・聖武天皇・天照大神』

社伝に「創建時期は不明。「養老孝子伝説」の源丞内ゆかりの神社といわれ、奈良時代養老年間以降と推測される。平安時代、美濃国神明帳には「養老明神」と記載されている。 永正元年(1504)、『菅原道真』を合祀し「養老天神」に改称。明治初期、近くの『元正天皇・聖武天皇』の祭場を移転し合祀。この折に「養老神社」に改称される。」

深い緑と、滝から流れ落ちる澄み切った水の力を受けて、社殿の一帯は何とも云えず良い空気に満ちており、思わず深呼吸。場所柄なのか、有名な観光地の中で目立たないと云う事なのか、参拝される方は多くありません。

そんな静かな時間の中で、神域を守護される狛犬さんはひたすらに穏やかで優しい顔立ち。

拝殿の近くには「養老孝子伝説」のもととなった「菊水泉」が清浄な水を湛えて鎮まっています。老いた父親を養う樵の源丞内。貧しい樵の稼ぎでは父親の大好きな酒を買うこともままならない・・。そんなある日、山中から漂うお酒の匂いに誘われた源丞内は、流れ落ちる酒の滝を見つけました。 親を思うその心根が、滝の水を酒に変えたのだ・・その話は遠く都にまで伝わったと言います。

この地を行幸した『元正天皇』は、【醴泉は、美泉なり。もって老を養うべし。蓋し水の精なればなり。天下に大赦して、霊亀三年を改め養老元年と成すべし】との詔を出し、元号を「養老」と改元しました。

この『源丞内(げんじょうない)』さん、実は養老の駅前で、瓢箪を手にして出迎えてくれます。

養老神社の西に鎮座する「金刀比羅神社」。以前は養老町飯ノ木の源氏橋付近にあったと云います。

この地には、かって平治の乱に破れた『源義朝』主従を、飯ノ木の村人が柴船に乗せて逃がしたという伝説が残されており、以来、その橋に源氏橋の名がつけられました。それと「金刀比羅神社」の関係は特にありませんが、本来は海上交通の守り神とされる「金比羅神社」が何故こんな山中に祀られているのか? 疑問に思って色々調べた結果、古き良き日本人の神仏への崇敬の逸話と共に、たまたま見つけた、弱き者を哀れと思う庶民の「昔話」でした。

もっと丹念に見ていけば、まだまだ珍しい発見があったと思われる「養老の滝」と「養老公園」。ですが、この後を考えると体力は温存しておかねば😣。名残惜しさを残して次に向かいます。

参拝日:2012年5月13日


養老(ようろう)の滝 in 岐阜県養老町

2020年01月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

揖斐関ヶ原養老国定公園に属する幅4m・落差32mの美しい直瀑「養老(ようろう)の滝」。「日本の滝百選」及び、「養老の滝・菊水泉」として、名水百選にも選定されてます。

公園駐車場(一日500円)から1.2km 、一般の人で徒歩30分・・と言うことは私の足では、軽く小一時間・・・😔  折角ここまで来て滝を見ないのは、大好物のカニを前にして食べないのと同じくらい残念なことだよね!。と、変なたとえに笑われながら、滴るような緑の道を進んでいくと右手に大きな句碑を発見。

【去りかき瀧の養老みょうけんはし】作者は『大野万木(ばんぼく)』

滝へと続く道は少しずつ角度を増していき、五月の日差しは思いの他体に熱をこもらせます。でも養老の森はそんな事とっくに承知とばかり、木々はまぶしい光をさえぎり、涼やかな風をおくりこんできます。

「おたきみち」と書かれた古い道しるべ、その指差す方向から、かすかに聞こえてくる水の音。半そでから出た腕がほんのりと冷たさを感じ始める頃、道は自然道の様相を見せ始めました。

片側に設けられた石積みの水路は、今はほとんど水の無い状態、でもきっと流れは急だろうな。水量が多ければもっと素敵だった?・・・いやいや、道幅に比べてこの広さは脅威かも😅

水の音は徐々に大きさを増し、やがて緑の木々を振るわせるほどの音となって聞こえて来ました。ここから滝の前まではまだそれなりの距離ですが、それでもまっすぐに落ちる滝の姿が見えます。

流石は有名な観光名所、訪れる人も多く、何度かカメラのシャッター係りを任命されました😊 もちろん、私たちも養老の滝をバックに、貴重な記念写真を残せることが出来ました。 旅先で出会う美しい風景は、どんなご馳走よりも心を満たし、そして遊び心もくすぐります。

滝の水を飲んだり、両手に受けたり・・・視覚の遠近感を利用した撮影はもうお約束事😊 飲み干す役はご亭主殿、両手に受けるのは私・・ちなみにここにいた観光客の皆さん、同じような事をして楽しんでいました。

まっすぐに流れ落ちた滝は、まるで渓流の風景を思わせながら岩の隙間を縫って流れてゆきます。

観瀑場には、明治百年記念事業として、養老観光協会が建立した「続日本紀等銘文碑」が建立。鋳銅製円柱の銘文には、『頼山陽』が「続日本紀、古今著聞集」に記した養老関係文書が刻印されています。

ご丁寧に記念スタンプまで用意されているあたりが、観光地らしい配慮ですが、紙は自前😄

これは「丁石」と呼ばれるもの。かってこの「瀧道」の道筋には、滝20丁から滝1丁までの丁石が建てられていましたが、明治の養老公園開発工事で、数基の道標が紛失し、本来の位置も多くが不明となりました。

明日は、古今著聞集に記載されている「養老孝子伝説」にゆかりの「養老神社」の紹介です。

訪問日:2012年5月13日


垂井宿・あちこちウォッチ in 岐阜県垂井町

2020年01月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

日本橋から112里、中山道沿いに当時のままに現存する「垂井一里塚」。中山道の一里塚として国の史跡に指定されているのは二箇所のみで、ここ「垂井一里塚」はその一つ。傍らで翻る旗印は、関ヶ原の戦いの折、この地に陣を構えた東軍の武将『浅野幸長』のもの。

一里塚の隣に「日守の茶所」という、今は地蔵様が奉られた建物があります。もともとは、江戸の末期に「化月坊」が芭蕉ゆかりの地に建てた「秋風庵」という建物でしたが、明治になってこの地に移され、以後昭和の初めまで、中山道の休み処として盛んに利用されました。

「垂井」の地名の由来となったとされる「垂井の泉」。ここには今も清らかな水が湧き出しています。平安時代中期の歌人『藤原隆経』が、この泉を読んだとされる歌が良く知られています。

【 昔見し たる井の水は かはらねど  うつれる影ぞ 年をへにける 】(昔見た垂井の水はちっとも変わっていないのに、泉に映る自分はずいぶん年老いてしまった)

左手の石段の手前には芭蕉句碑

【 葱(ねぶか)白く  洗ひたてたる  寒さかな (畑から抜いてきたばかりの葱を洗うと真っ白になった、それがなおさら寒さを思わせる)

 

中山道垂井宿、「本龍寺」の向かいに、国登録有形文化財の「小林家住宅主屋」。昭和初期まで亀谷の屋号で旅籠を営んでおり、黒漆喰塗の虫籠窓などが往時を彷彿とさせます。

間違って入り込んだような細い路地の奥に、紙屋の守護神「紙屋明神」を祀る小さな祠があります。古代の国府近くに位置したこの場所は「美濃紙発祥の地」とされ、「紙屋塚」と称されています。

垂井の玄関口でもある「垂井駅」北口駅前に、比較的新しく建立されたらしい『竹中半兵衛重治公』の銅像がありました。秀吉に仕え、彼を天下人へと押し上げ、戦国時代きっての軍師と謳われた『竹中半兵衛』。同じく秀吉に仕えたもう一人の軍師『黒田官兵衛』と共に、歴史好きの心を魅了し続けています。

訪問日:2018年10月9日


南宮(なんぐう)大社~其の二 in 岐阜県垂井町

2020年01月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

昨日に続き「南宮大社」境内紹介。二日目は、桁行三間、梁間三間、一重、宝形造、檜皮葺丹塗りの「高舞殿」。素通しの四面には、十二本の丹塗りの柱が不思議な幾何学的美しさの空間を生み出しています。柱の上部の蛙股には一面に四枚ずつ、見ごたえのある美しい干支の彫刻。無論、この建物も重要文化財。

「高舞殿」の屋根と接してしまいそうな近くに、入母屋造・軒唐破風付の「拝殿」。 舞殿の位置がこんなに近くなのは、本殿に鎮座されるご祭神が神楽をご覧になる為と云われています。

確かに拝殿からまっすに続くご本殿の位置を見ると「なるほど」と思わず頷かされます。丹塗りの社殿群の中では「幣殿」と「本殿」のみが「素木(しらき)造」。「素木造」とは文字通り、木の地肌そのままの材木を使った建物の呼び名。 派手やかで無い事で、神の座す場に相応しい清浄さが感じられます。

拝殿の左右に続く「回廊」は、それぞれの神門まで続いており、内側を見ることはできません。

拝殿から続く回廊の入り口付近から拝見した天井部分には、何枚かの奉納額が架けられています。「鑿(のみ)に鏨(たがね)」「鎌の刃」。これらはご祭神である 金属の神にちなんでものと思われます。

同じ回廊の入り口から垣間見えた「摂社:樹下神社」、本殿に向かって右隣に鎮座し『大己貴命』を御祭神とします。本殿の両脇には、やはり重文の「高山神社・隼人神社・南大神神社・七王子神社」が鎮座。社殿はすべて重要文化財の指定を受けており、できれば間近で参拝したかったのですがこればかりは仕方ありません。垣間見られるだけでも幸せと思わなければ。

南門の隣、手水舎の後方に建つ入母屋造・本瓦葺・欅造りの神輿舎も同じく重文指定の建物。 ここまで来ると、重文以外の建物の方が少ない気がしますが・・と言うか、有るんでしょうか?😓

神輿舎には、寛永19年(1642)の社殿再建の際に『徳川家光』が寄進した神輿が安置されています。 神輿は拝見できませんが、軒下には刃物・金物を収めた沢山の「金物絵馬」が奉納されていました。

右回廊の先に奉納された「さざれ石」。荘厳な国歌の歌詞にも登場する「さざれ石」、それに謳われる言霊のように、この日の本の国が、千代に八千代に栄えますように・・

「南門」は、向かいの「北門」と一直線に繋がっており、その中央に舞殿が位置します。 それが何か大きな意味を持っているのか、単に舞を見る民衆の為の配慮でたまたま一直線の位置になったのか、それに関する記載はどこにもなく想像の域を超えません。

境内を出て駐車場に向かう途中で見かけた「数立神社」。旧称を惣社と呼んでいたことから、美濃国総社とする説もあるそうです。桧皮葺の美しい社殿は、もちろん国指定の重要文化財。

駐車場の近くに鎮座されている大岩は、何の由来でここに奉られていたのでしょうか? しっかりと注連縄による結界があるからには、それなりの理由があるのでしょう。

明治の神仏分離令によって、おそらくこの門前町の規模は相当に小さくなったと思われます。それでも参道を隔てた松並木のこちら側に広がる景色は、今も往時を忍ばせる佇まいを見せていました。

ここから大鳥居を経て樽井宿へと向かうのですが、あと三点「南宮大社」ゆかりの場所を紹介。 まずは大鳥居の神社側に建立された「五月大祭神事舞奉奏市場」と刻まれた古い碑。ここは、毎年5月5日に行われる「国重要無形民俗文化財」の例大祭の舞台となるところです。

はじめてみた時は驚きだった朱塗りの大鳥居、高さは21m。向こうに見えているのは新幹線の高架。

最期は、旧中山道から南宮参道への入り口にある、寛永十九年に築造された「石鳥居」。花崗岩を使った明神鳥居で、中央には社格を表す「正一位中山金山彦大社」の額。高さは約七メートルで、造営文書の記録によると、柱の半分は地下に埋まっているそうです。実は、この鳥居だけは画像に無く、2018年に垂井を訪問した際に立ち寄って撮影したものです。

参拝日:2012年5月13日(石鳥居のみ2018年10月9日)


南宮(なんぐう)大社~其の一 in 岐阜県垂井町

2020年01月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

新年の最初を無事に迎える事ができて、明けて二日、今日から又いつもの日常がスタートです。

垂井町宮代峯、南宮山の山麓に鎮座される「美濃国一宮:南宮(なんぐう)大社」。  御祭神は『金山彦命(鉱山を司どる神)』。配祀『彦火火出見命、見野命』。国内には『金山彦命』を祀る神社が約三千社あるといわれており、「南宮大社」はその総本社とされています。

由緒に【創設は神武天皇の時代にさかのぼる。『延喜式神名帳』に「美濃国不破郡 仲山金山彦神社」とあり、美濃国府が置かれていた府中に祀られていたとされる。崇神天皇の御世現座地に移り、国府の南に位置することから、「南宮大社」と呼ばれるようになったと伝えられる。】

慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで社殿の全てを焼失しますが、寛永十九年(1642)に徳川家光によって再建。境内には江戸時代の遺構18棟が残っており、それらは全て国の重要文化財に指定されています。

境内に入ってひときわ目を引くのは、見上げるばかりの高さの、鮮やかな丹(に)塗りの「楼門」。楼門の前に架かる花崗岩製の橋は「石輪橋」と呼ばれ、社殿と同じく寛永十九年の造営。

なお、この「石輪橋」は祭神の通り道とされており、一般の人がこの橋を渡ることは固く禁じられています。一般の参拝者は 画像の手前にある「石平橋」を利用。「南宮大社」の例大祭では、神輿が下向する際この橋を渡ることから「下向橋」とも呼ばれており、社殿と同時期の造営で文化財の指定を受けています。

楼門の内側より神域を守護されるのは、相当の時代を経たと思われる、玉眼の木製神殿狛犬さん。本来神殿狛犬は、大いなる魔を寄せ付けぬために置かれるもので、顔立ちはかなり怖いのですが・・ 

「破顔一笑」と言う言葉がこれほどしっくりくるのは珍しいかも😊

対する吽形さんは、頭の角さえも優雅な飾りに思えるほど、柔らかな微笑を浮かべています。 明らかに区別を施した神獣さん以外には雌雄の区別をつけない主義の私ですが、こちらはきっと女御神獣。

神楽殿に見られる十二支の「蟇股(かえるまた)」彫刻は有名ですが、楼門にも素晴らしい彫刻があります。白い鶴にまたがり雲中を飛ぶのは『王子喬(おうしきょう)』

鯉乗り仙人とも形容される『琴高(きんこう)仙人』、その名の通り、いつも鯉に乗った姿で表されます。

「碁を打つ老人」は中国に伝わる昔話で、ある日、樵が山に入ると立派な服装の二人の老人が碁を打っているのを見つけ、それを見ている間に人界の時間を越えてしまったというお話。 それにしても碁を見ていただけで数十年が過ぎ去ったなんて、いや~、世界の何処にでも、こんな怖い話があるんですね😲

母思いの孝行息子が、真冬に母の好物の筍を捜し求めて、ついに見つけるという「雪中の筍」、真冬に筍が食べたいと言う母親って、どうなん??と私なんぞは思うのですが😓

さて、内容が説明できる彫刻は問題ないのですが、ここに来て???と悩んでしまった図柄が二枚。 大木の下にいる鹿に、中身が水か酒か不明の金の瓢箪を差し出す人、一体何をしているんでしょう。

某お菓子のキャラクターに似た、黒ひげの恰幅の良い男、松の木陰に座って何をしているのか・・ま・・ まさか😲!!「それにつけてもおやつはカァ~・・・以下自粛」何て事を、してる筈ないですよね。

という事で明日は楼門を潜った先からの「南宮大社」、見所はまだまだ続きます。

参拝日:2012年5月13日


本龍寺と芭蕉句碑 in 岐阜県垂井町

2019年12月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・岐阜県

垂井町垂井に境内を構える、浄土真宗大谷派寺院「東光山:本龍寺」。『阿弥陀如来』を本尊とします。
山門・書院の玄関は、垂井宿脇本陣から移築したものといわれ、明治11年(1878)10月の天皇御巡幸の折に、こちらで御小休された旨の碑がたてられています。

山門から続く白漆喰の塀には、四体の唐獅子の瓦が嵌め込まれており、これにはびっくり!

それぞれの表情が実に細かく作られており、狛犬愛好家ならずとも嬉しくなる代物。

なまこ壁が美しい蔵は「経蔵」でしょうか?説明があったかもしれませんが見逃しました。屋根の留蓋瓦の獅子も、唐破風(からはふ)の屋根に絡みつく龍も、どれもこれも素晴らしい。 芭蕉の句碑が見たいという私に付き合わされた格好のご亭主殿でしたが、上々の収穫になりました。

「創建は不詳、室町時代の文明元年(1469)に蓮如上人が巡錫で当地を訪れた際、当時の住職がその教えに感化され、浄土真宗の寺院として再興したと伝えられています。」

元禄4年(1691)、『芭蕉』は住職であった『規外』を訪ね、冬籠もりして句を残しています。境内の「作り木塚」は、文化6年(1809)に住職『里外』と『白寿坊』によってつくられました。

建立された碑の数は六基

【 今からは  雪見にころぶ 人は誰 】規外

後方の少し丸みをおびた句碑が『芭蕉』が冬篭りで読んだ句。

【 作り木の  庭をいさめる 時雨かな 】(造園したばかりの庭は何とも落ち着きが無い、それを宥めるかのように時雨が通り過ぎてゆく)

芭蕉句碑の横に『傘狂』【 蜂の巣や  知らぬきのふを あふながる 】 

手前に、安政2年に建立された『化月坊』【 一二丁  笠わすれたる 清水哉 】

植え込みの近くに建立されていた二基の句碑、読めそうな気がして色々試しましたがダメでした。説明では文化6年(1809)に、当時の住職『里外』と『白寿坊』が句碑を建立したと記録にあります。と言うことは、この二基が『里外』と『白寿坊』の句碑かなとも思ったのですが、不明なまま。こういうのが一番イライラするのですが、分からないものはどうしようもありません😩

訪問日:2018年10月9日