マクロ経済そして自然環境

経済的諸問題及び自然環境問題に感想、意見を書く事です。基本はどうしたら住みやすくなるかです。皆さんのご意見歓迎です。

景気政策史-29  1873年恐慌前後

2008-10-26 16:38:51 | 景気政策史

 前回投稿で“バジョットの原理“について述べましたが、恐慌の発生形態を“対内“対外“に区分して対応すべき との方向を認識していたと述べましたが、その具体的結論としては“銀行準備が1000万ポンド以下に成らないようにする、又、2-3百万ポンドは直ぐに(外国に)流出するとして、1400万-1500万ポンドになったら利率の引き上げを開始すべき“(ロンバート街)としました。この事は要は英銀行の金属準備を大きな水準にすべきとの結論に達するわけですが、これは同行元総裁のハンキーの反論にあいます(フイーヴィヤー)つまり以前より説明したように同行が金属準備を大きく持つと言う事は、即ち“不採算資金“を増やす事に繋がると言う事です。

 しかし同行の実際的データは、
1851-1860の最低準備(発行部)970万ポンド 最高2010万ポンド に対し、
1871-1880では最低1990万ポンド 最高3130万ポンド 
 (Abstract of British Historical Statistics B.R.Mitchell他) 等で明らかなように19世紀中増大を続ける事と成ります。これは実際的にはバジョットの見解を受け入れた物と言えるでしょう。

そういった中、1873年夏からアメリカと欧州を元とする恐慌が発生します。当初アメリカで1871年12月に取引所を主体に割引率が9%にも成ったが、欧州からの金の流入で緩和された(メンデリソン)しかし、1873年5月にウイーンを発生地にした取引所恐慌が発生し24時間の間に株式は数億も減価するという様な状況になります。 そしてそれがドイツに波及し、その中でアメリカ証券が安売りされる中、9月にはアメリカに波及し、取引所は大量の破産と相場の暴落で歴史上前例の無い“10日間の閉鎖“に追い込まれます。

金融市場の逼迫を緩和する為“政府は国債の買占め“をしましたが事態の緩和には至らなかった。

その時にイギリスでは11月にバンクレートを9%に引上げたが直ぐに逼迫は収まり金利は5%に引下げられました。

11月時点でプロシア銀行から“金の融資 “が申し込まれましたが英銀行は慇懃に断ったとされます(クラパム)

同行が手を打つことが出来たのは“金を充分に持っていたので、為替でなく国内事情について考慮したから“とされます。 

コメント
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