NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は同会が制作した「奈良まほろばかるた」の各札を題材に毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「かるたで知るなら」を連載している。一昨日(2021.7.8)掲載されたのは「太安万侶をまつる/多神社(田原本町)」執筆されたのは同会ガイドグループに所属する坂口隆信さんだった。
太安万侶といえば、何と言っても1979年(昭和54年)のトンボ山(奈良市田原地区)での墓誌の発見。当時は「世紀の大発見」と言われ、のち墓は国の史跡、墓誌は国の重要文化財に指定された。では記事全文を紹介する。
〈最古の歴史書 古事記の編者 太安万侶〉
古事記は日本で一番古い歴史書とされ、稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦(あんしょう)した天皇の系譜の記録と神話、伝承を712(和銅5)年に太安万侶が筆録し、3巻にまとめたと書かれています。1979(昭和54)年大和高原の奈良市田原地区の茶畑で、茶の木の植え替え中に火葬墓が見つかり、墓誌が発見され、太安万侶の実在が確認されました。
太安万侶は、多坐彌志理都比古神社(おおにいますみしりつひこ)(多(おお)神社)に祀られています。「多」は古代氏族多氏の本拠地で、「太」とも表記されています。多神社は、国中(くんなか)と呼ばれる奈良盆地のほぼ中央、寺川と飛鳥川に挟まれたところに鎮座し、東に三輪山、西に二上山を結ぶ「太陽の道」とも呼ばれる直線上にあります。
現在の本殿は、4棟の春日造で4柱の神様がまつられています。向かって右から2番目の第2殿に主祭神で多氏の祖神とされる神武天皇の第二皇子・神八井耳命(かむやいみみのみこと)がまつられ、太安万侶もここにまつられています。奈良時代の多神社は、大神神社に次ぐ経済力を持ち、大和でも有数の勢力を誇っており、東西南北にそれぞれ鳥居がありましたが、現在は東の寺川沿いの一の鳥居を残すのみで、他は跡地として地名のみが残ります。
あまり知られていませんが、この鳥居から寺川沿いに約500㍍南へ行くと、田んぼの中に古くから太安万侶の墓と伝承される塚があります。多神社の本殿は江戸時代中葉の形式をよく残している県指定文化財で、2021年から5年をかけて解体修理の予定です。(奈良まほろばソムリエの会会員 坂口隆信)
【多神社】
(住 所)磯城郡田原本町多569
(交 通)近鉄笠縫駅から徒歩約20分
(拝 観)境内自由
(駐車場)有
太安万侶といえば、何と言っても1979年(昭和54年)のトンボ山(奈良市田原地区)での墓誌の発見。当時は「世紀の大発見」と言われ、のち墓は国の史跡、墓誌は国の重要文化財に指定された。では記事全文を紹介する。
〈最古の歴史書 古事記の編者 太安万侶〉
古事記は日本で一番古い歴史書とされ、稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦(あんしょう)した天皇の系譜の記録と神話、伝承を712(和銅5)年に太安万侶が筆録し、3巻にまとめたと書かれています。1979(昭和54)年大和高原の奈良市田原地区の茶畑で、茶の木の植え替え中に火葬墓が見つかり、墓誌が発見され、太安万侶の実在が確認されました。
太安万侶は、多坐彌志理都比古神社(おおにいますみしりつひこ)(多(おお)神社)に祀られています。「多」は古代氏族多氏の本拠地で、「太」とも表記されています。多神社は、国中(くんなか)と呼ばれる奈良盆地のほぼ中央、寺川と飛鳥川に挟まれたところに鎮座し、東に三輪山、西に二上山を結ぶ「太陽の道」とも呼ばれる直線上にあります。
現在の本殿は、4棟の春日造で4柱の神様がまつられています。向かって右から2番目の第2殿に主祭神で多氏の祖神とされる神武天皇の第二皇子・神八井耳命(かむやいみみのみこと)がまつられ、太安万侶もここにまつられています。奈良時代の多神社は、大神神社に次ぐ経済力を持ち、大和でも有数の勢力を誇っており、東西南北にそれぞれ鳥居がありましたが、現在は東の寺川沿いの一の鳥居を残すのみで、他は跡地として地名のみが残ります。
あまり知られていませんが、この鳥居から寺川沿いに約500㍍南へ行くと、田んぼの中に古くから太安万侶の墓と伝承される塚があります。多神社の本殿は江戸時代中葉の形式をよく残している県指定文化財で、2021年から5年をかけて解体修理の予定です。(奈良まほろばソムリエの会会員 坂口隆信)
【多神社】
(住 所)磯城郡田原本町多569
(交 通)近鉄笠縫駅から徒歩約20分
(拝 観)境内自由
(駐車場)有