11/3(火・祝)、近畿日本鉄道が運営する近畿文化会の臨地講座(現地見学会)「二上山を登る」に参加してきた。この講座への参加は、私にとっては3度目である。今回の講師は、阪南大学教授の来村多加史氏、参加費はバス代込みでわずか2100円だった。
このイベントには過去に2回参加しているが、とても内容が充実し、楽しみながら勉強ができる良い機会だった。奈良まほろばソムリエ検定(奈良検定)の試験日も近いので、その対策を兼ねて参加したのだ。当日、主催者の武部宏明氏(近畿日本鉄道秘書広報部 部長)から、「今回もブログで紹介してね~」という依頼を受けたので、記憶が薄れないうちに紹介させていただく。
※近畿文化会「古代葛城の仏像」(当ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/c6e8410d55dc28fe64c5673def9443fb
※近畿文化会「東大寺と手向山八幡宮」(当ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/5a94b2036018dcf2b100acc50b478e21
二上山雄岳(鹿谷寺跡付近から)
今回は徒歩7km。二上山(雄岳=517m、雌岳=474m)を登るということなので「要健脚」と但し書きがあった。萬葉ウォークではいつも10km近く歩いているし、500mの山なら、大したことはないだろう。定員60人(電話申し込み制)ということだが、私が申し込んだ時点で、すでに60番台の予約番号だった。当日は80人ほどの方が参加されていた。
http://www.kintetsu.co.jp/event-hiking/hiking_info/hiking0006321.html
「万葉の森」入口
集合は、近鉄南大阪線・上ノ太子駅。ここは、もう大阪府(羽曳野市飛鳥)なのだ。周辺にはブドウ畑と新興住宅地が広がる。まずは駅から路線バスで「太子町立竹内街道歴史資料館」へ。ここで基礎知識をつけたあと、再びバスで二上山麓の「万葉の森」入口へ。ここで一旦荷物を下ろし(スタッフに預けて)、急な坂を登って鹿谷寺(ろくたんじ・ろくたにじ)跡をめざす。ここには線刻三尊仏坐像(石窟内)と十三重層塔がある(=トップ写真とも)。
太子町のHPによると《奈良時代に二上山山麓に造られた鹿谷寺跡は、凝灰岩の岩盤を掘り込んで作られた大陸風の石窟寺院です。中国大陸には敦煌や龍門石窟など、数多くの石窟寺院が見られますが、奈良時代にまでさかのぼる本格的な石窟寺院は、我が国では二上山山麓以外には知られていません。寺跡の中心部には、十三重の石塔と岩窟に彫りこまれた線刻の三尊仏坐像が遺されており、かつてこの周辺から和同開珎が出土しています》。
http://www.town.taishi.osaka.jp/sightseeing/rekishi/rekishi12.html
鹿谷寺跡の十三重層塔(トップ写真とも)
この十三重層塔がすごい。大きな岩を彫り抜き、この部分だけを塔状に彫り残したのだ。これを「はえ抜き」といい、現代のはえ抜きという言葉(はじめから続けてその会社・部署に勤務していることなど)のモトになったのだ。立て看板には《かつての凝灰岩石切場の跡を寺院に利用したものといわれています》(石切場跡)とあった。ここを見学したあと、「万葉の森」入口まで戻る。
万葉の森や鹿谷寺の南東に竹内峠があり、竹ノ内街道が東西に走る。「竹内街道歴史資料館」には立体模型があったので、この辺りの起伏がよく分かる。竹内峠は《太古から交通の要所であり、聖徳太子もこの峠を越えて四天王寺と飛鳥を往復したとされる。また、遣隋使などの使節もこの峠を越えて飛鳥京を訪れた。現在は峠のすぐ北を深く掘り下げられ、国道166号が通っている》(Wikipedia「竹内峠」)。
《竹内街道は日本書紀の推古天皇二十一年(613年)の条に「難波より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記されていた、日本最古の「官道」。 現在の竹内街道は、大部分は推古天皇時代の官道と重なっている。東側は奈良盆地南部を東西に横切る官道横大路につながっている。(中略) 官道として整備されたのは上記の通り7世紀初め頃であるが、二上山の西麓(現在の大阪府太子町)には4世紀から5世紀にかけての陵墓・古墳などの遺跡が数多く残っているため、すでにかなりの人々の往来があったと思われる。飛鳥時代には、遣隋使の使節や留学僧が往来し、大陸から中国や朝鮮の文化をもたらし、飛鳥文化のいしづえとなった。中世には伊勢街道の一部として存続し、現在では国道166号が通っている。したがって竹内街道は飛鳥時代より現在に至るまで街道として利用されていることになる》(同)。
凝灰岩の石切場への道標
二上山の南が竹内峠なら、北は穴虫峠(あなむしとうげ)である。ついでにおさらいしておこう。《穴虫峠は大阪府南河内郡太子町と奈良県香芝市の府県境にある峠である。大阪側の入りに南阪奈道路や、それに付随する道路整備がされている以外は、山の斜面を利用したブドウ栽培のハウスなどがある、自然豊かな景色である。近隣に屯鶴峯がある。同じく奈良と大阪を結ぶ竹内峠より勾配が緩やかなため、バイクや自転車で越境するものも多い》(Wikipedia「穴虫峠」)。
《近隣にある竹内峠と並び、奈良と南大阪を結ぶ交通の要衝である。現在は奈良県道・大阪府道703号香芝太子線と近鉄南大阪線が通る。府県境の丁度下をトンネルを潜る形で近鉄線が通り、その上をクロスする形で道路が通っている》(同)。竹内峠越の道も、穴虫峠越の道も、どちらも横大路(二上山~三輪山の南。伊勢本街道)につながっている。
葛木坐二上神社
さて、いよいよ二上山を登る。ここからは太子町を離れて葛城市に入る。雄岳には葛木坐二上神社と大津皇子二上山墓がある。この墓は、江戸耳時代に大津皇子の墓と定められ、宮内庁が「天武天皇皇子大津皇子 二上山墓」の看板を立てて管理している。しかしこの辺りは、1541年(天文10年)に木沢長政が築いた山城の二の丸があった場所であるため、もし墓があったら破壊されていたことになる。
大津皇子二上山墓
馬の背(雌岳と雄岳のつなぎの部分)に売店やベンチ、トイレがある。ここで、持参したお弁当をいただく。前日までの陽気とは打って変わって、冷たい風が吹き上げてくる。売店で熱い缶コーヒーを飲んで、ホッと一息。ここから雌岳頂上まではすぐだ。
「大坂をわが越え来れば二上(ふたかみ)に 黄葉(もみちば)流る時雨ふりつつ」(万葉集 作者未詳)
雌岳山頂は太子町である。樹木が生い茂った雄岳山頂と違い、雌岳山頂からは素晴らしい眺望が開ける。サザンカも咲き始めていて、この日、最もリラックスできた時間であった。
何人かの参加者の方から、「『日々ほぼ好日』のtetsudaさんですね」とお声かけいただいた。奈良好きが集まっているので、当ブログ読者の方もたくさん参加されているのだ。女性読者が多かったのは、意外だった。多くの方に読んでいただくのだから、もっとマジメに取り組まなければ。
ここから急坂をひたすら下っていく。山道からは、生駒金剛山地の山並みが楽しめる。中腹に岩屋遺跡(奈良時代前半の石窟寺院跡)があった。中世には修験者の道場になっていたそうである。
岩屋遺跡
ちょうどここで、富田林から来られた山伏講の方とお会いした。岩屋遺跡の前で、般若心経を唱えておられたのだ。有り難いことに、休憩中に「ちょっと練習します、新入りがいますので」と、ホラ貝を吹いて下さった。高らかな音が周囲の山々にこだまして、やや疲れ気味の背筋がピンと伸びた。
山道を下り葛城市に入ると、ため池の近くに鳥谷口古墳があった。奈良検定の公式テキストには《被葬者については、非業の死をとげ、二上山に葬られたという大津皇子の墓とする説がある》と出ている。古墳の場所も、二上山を背景に、藤原京を望む絶好の位置に古墳が築かれている。
発掘当時の鳥谷口古墳・埋葬施設(Don PanchoさんのHP「橿原日記」から拝借)
鳥谷口古墳は方墳である
真ん中が鳥谷口古墳、後方が二上山
回れ右をすると藤原京方面
當麻山口神社(大和山口14社の1つ)、傘堂(郡山城主本多政勝の菩提を弔うために郡奉行の吉弘統家[のりいえ]が建てた堂)、塚穴古墳(當麻氏の古墳群といわれる首子七塚の1つ)、只塚廃寺(寺院の基壇が出土)、石光寺を経て当麻寺駅で解散した。駅前では、ちゃんと中将餅も買うことができた。
當麻山口神社で、再び山伏講の方とお会いした
傘堂で来村先生のお話を聞く
塚穴古墳(跡)は荒地にしか見えない
只塚廃寺(の名残)
来村多加史氏のお話は、いつも奈良検定の「認定支援セミナー」でお聞きしているが、メリハリがあって明快なので、とても有り難い。今回も、たくさんの史跡を訪ねたが、1つ1つ丁寧に説明して下さり、感謝感激である。質問にも丁寧にお答えになっていた。
またスタッフの誘導や歩くペースも適切で、途中で荷物を預かって下さったり、小休止を入れたり、ビューポイントを教えていただいたりと、至れり尽くせりであった。よほど丁寧に下見されたのだろう。
冬に向かうこれからの時期、臨地講座からは少し足が遠のくが、春になれば、また次の講座に参加することにしたい。
皆さん、低予算で楽しく学べる「近畿文化会」は、おススメですよ。
このイベントには過去に2回参加しているが、とても内容が充実し、楽しみながら勉強ができる良い機会だった。奈良まほろばソムリエ検定(奈良検定)の試験日も近いので、その対策を兼ねて参加したのだ。当日、主催者の武部宏明氏(近畿日本鉄道秘書広報部 部長)から、「今回もブログで紹介してね~」という依頼を受けたので、記憶が薄れないうちに紹介させていただく。
※近畿文化会「古代葛城の仏像」(当ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/c6e8410d55dc28fe64c5673def9443fb
※近畿文化会「東大寺と手向山八幡宮」(当ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/5a94b2036018dcf2b100acc50b478e21
二上山雄岳(鹿谷寺跡付近から)
今回は徒歩7km。二上山(雄岳=517m、雌岳=474m)を登るということなので「要健脚」と但し書きがあった。萬葉ウォークではいつも10km近く歩いているし、500mの山なら、大したことはないだろう。定員60人(電話申し込み制)ということだが、私が申し込んだ時点で、すでに60番台の予約番号だった。当日は80人ほどの方が参加されていた。
http://www.kintetsu.co.jp/event-hiking/hiking_info/hiking0006321.html
「万葉の森」入口
集合は、近鉄南大阪線・上ノ太子駅。ここは、もう大阪府(羽曳野市飛鳥)なのだ。周辺にはブドウ畑と新興住宅地が広がる。まずは駅から路線バスで「太子町立竹内街道歴史資料館」へ。ここで基礎知識をつけたあと、再びバスで二上山麓の「万葉の森」入口へ。ここで一旦荷物を下ろし(スタッフに預けて)、急な坂を登って鹿谷寺(ろくたんじ・ろくたにじ)跡をめざす。ここには線刻三尊仏坐像(石窟内)と十三重層塔がある(=トップ写真とも)。
太子町のHPによると《奈良時代に二上山山麓に造られた鹿谷寺跡は、凝灰岩の岩盤を掘り込んで作られた大陸風の石窟寺院です。中国大陸には敦煌や龍門石窟など、数多くの石窟寺院が見られますが、奈良時代にまでさかのぼる本格的な石窟寺院は、我が国では二上山山麓以外には知られていません。寺跡の中心部には、十三重の石塔と岩窟に彫りこまれた線刻の三尊仏坐像が遺されており、かつてこの周辺から和同開珎が出土しています》。
http://www.town.taishi.osaka.jp/sightseeing/rekishi/rekishi12.html
鹿谷寺跡の十三重層塔(トップ写真とも)
この十三重層塔がすごい。大きな岩を彫り抜き、この部分だけを塔状に彫り残したのだ。これを「はえ抜き」といい、現代のはえ抜きという言葉(はじめから続けてその会社・部署に勤務していることなど)のモトになったのだ。立て看板には《かつての凝灰岩石切場の跡を寺院に利用したものといわれています》(石切場跡)とあった。ここを見学したあと、「万葉の森」入口まで戻る。
万葉の森や鹿谷寺の南東に竹内峠があり、竹ノ内街道が東西に走る。「竹内街道歴史資料館」には立体模型があったので、この辺りの起伏がよく分かる。竹内峠は《太古から交通の要所であり、聖徳太子もこの峠を越えて四天王寺と飛鳥を往復したとされる。また、遣隋使などの使節もこの峠を越えて飛鳥京を訪れた。現在は峠のすぐ北を深く掘り下げられ、国道166号が通っている》(Wikipedia「竹内峠」)。
《竹内街道は日本書紀の推古天皇二十一年(613年)の条に「難波より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記されていた、日本最古の「官道」。 現在の竹内街道は、大部分は推古天皇時代の官道と重なっている。東側は奈良盆地南部を東西に横切る官道横大路につながっている。(中略) 官道として整備されたのは上記の通り7世紀初め頃であるが、二上山の西麓(現在の大阪府太子町)には4世紀から5世紀にかけての陵墓・古墳などの遺跡が数多く残っているため、すでにかなりの人々の往来があったと思われる。飛鳥時代には、遣隋使の使節や留学僧が往来し、大陸から中国や朝鮮の文化をもたらし、飛鳥文化のいしづえとなった。中世には伊勢街道の一部として存続し、現在では国道166号が通っている。したがって竹内街道は飛鳥時代より現在に至るまで街道として利用されていることになる》(同)。
凝灰岩の石切場への道標
二上山の南が竹内峠なら、北は穴虫峠(あなむしとうげ)である。ついでにおさらいしておこう。《穴虫峠は大阪府南河内郡太子町と奈良県香芝市の府県境にある峠である。大阪側の入りに南阪奈道路や、それに付随する道路整備がされている以外は、山の斜面を利用したブドウ栽培のハウスなどがある、自然豊かな景色である。近隣に屯鶴峯がある。同じく奈良と大阪を結ぶ竹内峠より勾配が緩やかなため、バイクや自転車で越境するものも多い》(Wikipedia「穴虫峠」)。
《近隣にある竹内峠と並び、奈良と南大阪を結ぶ交通の要衝である。現在は奈良県道・大阪府道703号香芝太子線と近鉄南大阪線が通る。府県境の丁度下をトンネルを潜る形で近鉄線が通り、その上をクロスする形で道路が通っている》(同)。竹内峠越の道も、穴虫峠越の道も、どちらも横大路(二上山~三輪山の南。伊勢本街道)につながっている。
葛木坐二上神社
さて、いよいよ二上山を登る。ここからは太子町を離れて葛城市に入る。雄岳には葛木坐二上神社と大津皇子二上山墓がある。この墓は、江戸耳時代に大津皇子の墓と定められ、宮内庁が「天武天皇皇子大津皇子 二上山墓」の看板を立てて管理している。しかしこの辺りは、1541年(天文10年)に木沢長政が築いた山城の二の丸があった場所であるため、もし墓があったら破壊されていたことになる。
大津皇子二上山墓
馬の背(雌岳と雄岳のつなぎの部分)に売店やベンチ、トイレがある。ここで、持参したお弁当をいただく。前日までの陽気とは打って変わって、冷たい風が吹き上げてくる。売店で熱い缶コーヒーを飲んで、ホッと一息。ここから雌岳頂上まではすぐだ。
「大坂をわが越え来れば二上(ふたかみ)に 黄葉(もみちば)流る時雨ふりつつ」(万葉集 作者未詳)
雌岳山頂は太子町である。樹木が生い茂った雄岳山頂と違い、雌岳山頂からは素晴らしい眺望が開ける。サザンカも咲き始めていて、この日、最もリラックスできた時間であった。
何人かの参加者の方から、「『日々ほぼ好日』のtetsudaさんですね」とお声かけいただいた。奈良好きが集まっているので、当ブログ読者の方もたくさん参加されているのだ。女性読者が多かったのは、意外だった。多くの方に読んでいただくのだから、もっとマジメに取り組まなければ。
ここから急坂をひたすら下っていく。山道からは、生駒金剛山地の山並みが楽しめる。中腹に岩屋遺跡(奈良時代前半の石窟寺院跡)があった。中世には修験者の道場になっていたそうである。
岩屋遺跡
ちょうどここで、富田林から来られた山伏講の方とお会いした。岩屋遺跡の前で、般若心経を唱えておられたのだ。有り難いことに、休憩中に「ちょっと練習します、新入りがいますので」と、ホラ貝を吹いて下さった。高らかな音が周囲の山々にこだまして、やや疲れ気味の背筋がピンと伸びた。
山道を下り葛城市に入ると、ため池の近くに鳥谷口古墳があった。奈良検定の公式テキストには《被葬者については、非業の死をとげ、二上山に葬られたという大津皇子の墓とする説がある》と出ている。古墳の場所も、二上山を背景に、藤原京を望む絶好の位置に古墳が築かれている。
発掘当時の鳥谷口古墳・埋葬施設(Don PanchoさんのHP「橿原日記」から拝借)
鳥谷口古墳は方墳である
真ん中が鳥谷口古墳、後方が二上山
回れ右をすると藤原京方面
當麻山口神社(大和山口14社の1つ)、傘堂(郡山城主本多政勝の菩提を弔うために郡奉行の吉弘統家[のりいえ]が建てた堂)、塚穴古墳(當麻氏の古墳群といわれる首子七塚の1つ)、只塚廃寺(寺院の基壇が出土)、石光寺を経て当麻寺駅で解散した。駅前では、ちゃんと中将餅も買うことができた。
當麻山口神社で、再び山伏講の方とお会いした
傘堂で来村先生のお話を聞く
塚穴古墳(跡)は荒地にしか見えない
只塚廃寺(の名残)
来村多加史氏のお話は、いつも奈良検定の「認定支援セミナー」でお聞きしているが、メリハリがあって明快なので、とても有り難い。今回も、たくさんの史跡を訪ねたが、1つ1つ丁寧に説明して下さり、感謝感激である。質問にも丁寧にお答えになっていた。
またスタッフの誘導や歩くペースも適切で、途中で荷物を預かって下さったり、小休止を入れたり、ビューポイントを教えていただいたりと、至れり尽くせりであった。よほど丁寧に下見されたのだろう。
冬に向かうこれからの時期、臨地講座からは少し足が遠のくが、春になれば、また次の講座に参加することにしたい。
皆さん、低予算で楽しく学べる「近畿文化会」は、おススメですよ。
> 鹿谷寺跡や鳥谷口古墳も未見・・・・刺激されます。
これは一見の価値ありです。ぜひご覧下さい。
> 寺田町駅前で「大道」の地名、これが金岡神社で東に折れて竹之内街道、大阪側の
> 峠の集落が「大道」(太子町)。古代官道は直進が基本などと学習しました。
なるほど、そういうことですか。今回のツアーで、生駒金剛山地を越える峠道がたくさんあることに気がつきました(ざっと11ありました)。ちゃんと頭に入れておこうと思っています。
鹿谷寺跡や鳥谷口古墳も未見・・・・刺激されます。
難波宮の中軸線を南下させると寺田町駅前で「大道」の地名、これが金岡神社で東に折れて
竹之内街道、大阪側の峠の集落が「大道」(太子町)。古代官道は直進が基本などと学習しました。