
来年のNHK大河ドラマは『平清盛』である。清盛の孫が維盛(これもり)だ。Wikipedia「平維盛」によると《平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の嫡孫で、平重盛の嫡男。平氏一門の嫡流であり、美貌の貴公子として宮廷にある時には光源氏の再来と称された。治承・寿永の乱において大将軍として出陣するが、富士川の戦い・倶利伽羅峠の戦いの二大決戦で壊滅的な敗北を喫する。父の早世もあって一門の中では孤立気味であり、平氏一門が都を落ちたのちに戦線を離脱、那智の沖で入水自殺した》とある。
『平家物語』巻10には、こんな文章が載っている。京に残してきた妻子を思ってこの世に未練を残す維盛に対して、滝口入道が論す場面である。古文の時間に教わったという人も多いのではないか。《まことにさこそおぼしめされ候らめ。高きも卑しきも、恩愛の道はちからおよばぬ事也。なかにも夫妻は一夜の枕をならぶるも、五百生の宿縁と申候へば、先世の契あさからず。生者必滅、會者定離(えしゃじょうり)はうき世の習にて候也》。「生者必滅、会者定離」(生きる者はいつかは滅ぶ、会えば必ず別れがある)。滝口入道の訓戒で生への執着を断ち切ることができた維盛は、那智の海に入水して果てる。維盛と親交のあった建礼門院右京大夫は、その死を悼んで「悲しくもかかる憂き目をみ熊野の 浦わの波に身沈めける」と歌を詠む…。
しかし、維盛が入水したというのはウソ(流言)だという話もある。Wikipediaには「伝承」ととして《維盛が入水したというのは頼朝の残党狩りから逃れる為の流言で、実際は平家の落人として紀伊国色川郷に落ち延び盛広・盛安の男子をもうけ、盛広は清水を名乗り、盛安は水口を名乗って戦国時代の色川氏の祖となったと言う説がある》。生き延びた維盛の終焉の地は、野迫川村平(たいら)であるとする説がある。
11/16(水)、野迫川村平の「維盛塚」と「平維盛歴史の里」を訪ねた。村のHPによると《平維盛は熊野・吉野の山中を流浪の末、ここ野迫川村でその生涯を終えたと伝えられています。歴史資料館では数々の資料を展示・保存すると同時に、維盛にまつわる多くの伝承を映像・ジオラマ・レプリカなどを駆使して再現しています。また、野迫川村の自然が生かされた敷地内には、維盛塚を中心に花風月の庭、ツツジ園、散策の路、展望台などが整備されています。伝説のロマンに思いを馳せ、心和む散策のひとときをお過ごしください。また、毎年7月に夏の大祭が開催されます。平家の赤旗がはためく中、野瀬川夜叉太鼓の勇壮な音が響きわたります。その他、熱気溢れるイベントをぜひお楽しみください》。

私は高野龍神スカイラインの「鶴姫公園」交差点から谷へ降り、「平維盛歴史の里」をめざした。ならリビンク.comに、詳しい情報が出ている。《野迫川村は雲の向こうにある。国道168号線から野迫川村方面に折れ、尾根伝いに険しい山をいくつもいくつも越える。役場も過ぎ、さらに山道を進むと「平」という標識が見え、次の角を曲がると集落があり「平家維盛歴史の里」と書かれた大きな看板があった》。この記者は、五條市経由で村に入ったようだ。こちらの方が奈良からは近いが、途中の道がやや狭隘である。
《ここが源平の戦いで敗れた平維盛(これもり)が最期を迎えたと伝えられている地である。平維盛は平家の黄金時代を作った平清盛の孫であり、大変な美男子であったらしい。そのためもあるのだろうか、紀伊山中には維盛に関するさまざまな伝説が残っている。「平家物語」によると、一ノ谷の合戦後、維盛は熊野に逃れ那智で入水したとされている。この地に伝わる話は少し違っており、維盛は使者として熊野別当湛増 に援助を求めに行く。しかし源氏優勢と見た湛増は援助を断り、維盛と娘を結婚させて維盛をかくまう。源頼朝が平家狩りを行う中、熊野山中各地を転々としな がら、この野迫川平の地にたどり着き、61歳で人生を終えたという―》。

《里人が彼をしのんで建てたという維盛塚が残っている。塚の向こう側は深い谷になっており、まさに自然の砦である。しかし反対側を見れば、歴史の里に作られた資料館や民家がのどかな山里の風景を作り出している。資料館は以前は管理人もいたそうだが、今は朝夕の施錠に近所の人が来るだけで自由に入ることができる。中にはこの地に伝わる維盛の生涯を記したパネルや維盛のレプリカが飾られている》。ちょうど管理人さんらしきおじさんが資料館から出てこられたので「入っていいですか」とお聞きすると「機械が故障して映像が見られないので、閉館しています」とのこと、これは残念だった。

《歴史の里の向かいに、つい見落としてしまいそうになる鳥居があった。入ると道幅より太いような高い杉の木が立ち並び、木に挟まれるように弁天社と勝手神社 という銘のついた2つの社があった。先ほどの資料館に里人が維盛の死を悲しみ神社(勝手神社)を建立したという説明もあった。その神社であろう。木々に守 られるように、山の斜面にひっそりと建っていた。800年以上も昔の話。真実がどうであったか、それは謎である。しかし落武者が隠れていたと想像すると、ここが平家の里にも見えてくる。この地には800年前と同じ静けさが残っている》。
十津川村五百瀬(いもぜ)の山中にも、平維盛の墓と伝えられる祠があるそうなので、頭の中がこんがらがってくるが、平家の落人伝承の地は、それほど各地に散らばっているのだ。野迫川村平では、毎年夏に「平維盛の大祭」が開かれている。今度は避暑がてらに、夏の野迫川村を訪ねてみることにしよう。
『平家物語』巻10には、こんな文章が載っている。京に残してきた妻子を思ってこの世に未練を残す維盛に対して、滝口入道が論す場面である。古文の時間に教わったという人も多いのではないか。《まことにさこそおぼしめされ候らめ。高きも卑しきも、恩愛の道はちからおよばぬ事也。なかにも夫妻は一夜の枕をならぶるも、五百生の宿縁と申候へば、先世の契あさからず。生者必滅、會者定離(えしゃじょうり)はうき世の習にて候也》。「生者必滅、会者定離」(生きる者はいつかは滅ぶ、会えば必ず別れがある)。滝口入道の訓戒で生への執着を断ち切ることができた維盛は、那智の海に入水して果てる。維盛と親交のあった建礼門院右京大夫は、その死を悼んで「悲しくもかかる憂き目をみ熊野の 浦わの波に身沈めける」と歌を詠む…。
![]() | 平維盛の真実 |
坂本顕一郎 | |
文芸社 |
しかし、維盛が入水したというのはウソ(流言)だという話もある。Wikipediaには「伝承」ととして《維盛が入水したというのは頼朝の残党狩りから逃れる為の流言で、実際は平家の落人として紀伊国色川郷に落ち延び盛広・盛安の男子をもうけ、盛広は清水を名乗り、盛安は水口を名乗って戦国時代の色川氏の祖となったと言う説がある》。生き延びた維盛の終焉の地は、野迫川村平(たいら)であるとする説がある。
11/16(水)、野迫川村平の「維盛塚」と「平維盛歴史の里」を訪ねた。村のHPによると《平維盛は熊野・吉野の山中を流浪の末、ここ野迫川村でその生涯を終えたと伝えられています。歴史資料館では数々の資料を展示・保存すると同時に、維盛にまつわる多くの伝承を映像・ジオラマ・レプリカなどを駆使して再現しています。また、野迫川村の自然が生かされた敷地内には、維盛塚を中心に花風月の庭、ツツジ園、散策の路、展望台などが整備されています。伝説のロマンに思いを馳せ、心和む散策のひとときをお過ごしください。また、毎年7月に夏の大祭が開催されます。平家の赤旗がはためく中、野瀬川夜叉太鼓の勇壮な音が響きわたります。その他、熱気溢れるイベントをぜひお楽しみください》。

私は高野龍神スカイラインの「鶴姫公園」交差点から谷へ降り、「平維盛歴史の里」をめざした。ならリビンク.comに、詳しい情報が出ている。《野迫川村は雲の向こうにある。国道168号線から野迫川村方面に折れ、尾根伝いに険しい山をいくつもいくつも越える。役場も過ぎ、さらに山道を進むと「平」という標識が見え、次の角を曲がると集落があり「平家維盛歴史の里」と書かれた大きな看板があった》。この記者は、五條市経由で村に入ったようだ。こちらの方が奈良からは近いが、途中の道がやや狭隘である。
《ここが源平の戦いで敗れた平維盛(これもり)が最期を迎えたと伝えられている地である。平維盛は平家の黄金時代を作った平清盛の孫であり、大変な美男子であったらしい。そのためもあるのだろうか、紀伊山中には維盛に関するさまざまな伝説が残っている。「平家物語」によると、一ノ谷の合戦後、維盛は熊野に逃れ那智で入水したとされている。この地に伝わる話は少し違っており、維盛は使者として熊野別当湛増 に援助を求めに行く。しかし源氏優勢と見た湛増は援助を断り、維盛と娘を結婚させて維盛をかくまう。源頼朝が平家狩りを行う中、熊野山中各地を転々としな がら、この野迫川平の地にたどり着き、61歳で人生を終えたという―》。

《里人が彼をしのんで建てたという維盛塚が残っている。塚の向こう側は深い谷になっており、まさに自然の砦である。しかし反対側を見れば、歴史の里に作られた資料館や民家がのどかな山里の風景を作り出している。資料館は以前は管理人もいたそうだが、今は朝夕の施錠に近所の人が来るだけで自由に入ることができる。中にはこの地に伝わる維盛の生涯を記したパネルや維盛のレプリカが飾られている》。ちょうど管理人さんらしきおじさんが資料館から出てこられたので「入っていいですか」とお聞きすると「機械が故障して映像が見られないので、閉館しています」とのこと、これは残念だった。

《歴史の里の向かいに、つい見落としてしまいそうになる鳥居があった。入ると道幅より太いような高い杉の木が立ち並び、木に挟まれるように弁天社と勝手神社 という銘のついた2つの社があった。先ほどの資料館に里人が維盛の死を悲しみ神社(勝手神社)を建立したという説明もあった。その神社であろう。木々に守 られるように、山の斜面にひっそりと建っていた。800年以上も昔の話。真実がどうであったか、それは謎である。しかし落武者が隠れていたと想像すると、ここが平家の里にも見えてくる。この地には800年前と同じ静けさが残っている》。
十津川村五百瀬(いもぜ)の山中にも、平維盛の墓と伝えられる祠があるそうなので、頭の中がこんがらがってくるが、平家の落人伝承の地は、それほど各地に散らばっているのだ。野迫川村平では、毎年夏に「平維盛の大祭」が開かれている。今度は避暑がてらに、夏の野迫川村を訪ねてみることにしよう。

お店は大変な旧家で現在は49代目の御当主と御子息が営業されています
このお店には平惟盛が匿われていたという物語が代々伝わっています
20代の頃、下市口駅で勤務していた2年間に、時々48代目の御主人に「義経千本桜3段目いがみの権太」のお話を聴きに伺ったものだから、平惟盛は身近な思い出です
「義経千本桜3段目いがみの権太」をウィキペディアから引用してまとめてみました
義経千本櫻(よしつね せんぼん ざくら、新字体:〜桜)は、義太夫節またそれに合せて演じる人形浄瑠璃・歌舞伎の演目で江戸時代中期の作品。源平合戦後の源義経の都落ちをきっかけに、平家の武将の復讐とそれに巻き込まれた者たちの悲喜こもごもを描くが通称に『千本桜』(せんぼん ざくら)ともいう
構成とあらすじ [編集]
三段目 椎の木の段(しいのきの だん)で
o若葉の内侍(平維盛の妻)と幼い息子六代君(平維盛の息子で、平氏棟梁直系の六代目)・小金吾の一行は、平惟盛が高野山に向かったと聞き、大和を経由してその後を追う。その途中、吉野下市村の茶店で休憩するが、思わぬことに地元の無法者いがみの権太に路銀を騙り取られてしまい、路頭に迷い、藤原朝方の追っ手に立ち向かった小金吾はついに息絶える。
o すし屋の弥左衛門(吉野下市村ですし屋「釣瓶鮓」(つるべずし)を営む。過去には船乗りで、平重盛に恩がある)は偶然小金吾の遺骸を見付ける。
o すし屋「釣瓶鮓」には、主人の弥左衛門・女房のお米、娘のお里(弥左衛門の娘。いがみの権太の妹。気立てがよい釣瓶鮓の看板娘で、優男の手代弥助に憧れ、祝言を夢見る)、美男の手代弥助が暮らしている。そこに一夜の宿を借りに来た若葉の内侍と幼い息子六代君、弥助との思わぬ出会いに、彼の正体が三位中将維盛と知れる。
o 寄合いで平家探索の手が下市村まで伸びてきていることを知って戻ってきた弥左衛門。そんな中、勘当されている息子のいがみの権太(弥左衛門の息子。ゆすりたかりで金儲けをする村 のはぐれ者で、大阪弁で「やんちゃな子供」を意味する「ゴンタ」は、このいがみの権太に由来する)が父親の目を盗んで訪れ、母に無心をして出て行く。
o いよいよ詮議役の梶原景時がやってきて、弥左衛門は維盛一家を別の場所に移すが、そこに権太が一家を捕らえたと言ってやってくる。絶望する弥左衛門。しかしそれは、権太命がけの親孝行だった。一家は救われ、維盛は出家し高野山へと向かうが、弥左衛門家の権太は絶命しお里は婚約者を失う。
つるべ鮨 弥助
住所 〒638-0041 奈良県吉野郡下市町下市533
アクセス 近鉄吉野線下市口駅 徒歩15分
近鉄吉野線下市口駅 車5分
TEL 0747-52-0008
※お問い合わせの際はぐるなびを見たとお伝えになるとスムーズです。
FAX --
営業時間 11:30~18:00(L.O.)
定休日 不定休
> このお店には平惟盛が匿われていたという物語が代々伝わっています
あっ、そうでした。あれも維盛でしたね。詳しく紹介していただき、深謝です。
源平で、野迫川村にはもう1つ「鶴姫」の伝説があります。日を改めて、当ブログで「すし屋」の段とあわせて、紹介させていただきます。