2月17日(水)、「邪馬台国畿内説」に基づく日帰りバスツアーのガイドを引き受けることになった。訪問地は唐古・鍵遺跡、纒向、黒塚古墳。それで今、急いで関連本を読んだり読み返したり新たに購入したりと、文字通りドロナワ式に知識を詰め込んでいるところだ。そこでこの機会に、当ブログでもその一部を紹介しようと思い立った。
初回は、おなじみ井沢元彦著『逆説の日本史』。第1巻「古代黎明編」の第3章が「卑弥呼編 女王殺害と紀元248年の重大事件」だ。以下、ここから抜粋(青字)して紹介することにしたい。
私は、卑弥呼は殺されたのだ、と確信している。卑弥呼は殺された―この仮説を明確な形で初めて世に問うたのは、残念ながら私ではない。この章の冒頭で哀悼の意を表した松本清張氏なのである。その松本説を紹介しよう。
卑弥呼はなぜ殺されねばならなかったか。それは、邪馬台国が狗奴(くな)国との戦争に敗れたからである。
古代人の考え方によれば、天災も飢饉も疫病も、すべて王者の責任である。天災ですら王者の責任ナノだから、戦争やその他の人災(?)もすべて責任が問われる。つまりこれは王者の「不徳の致すところ」であり、フレイザー流に言えば「祭祀者としての王の霊力の衰えが敗戦を招いた」ということになる。そういう霊的責任(?)を問われて、卑弥呼は殺されたのである。
邪馬台国は狗奴国との戦争に敗北した。その敗北責任は誰にあるか?古代人の考え方で言えば、それは現人神の卑弥呼の霊力の衰えのせいである。物量とか技術とかは関係ない。現人神さえ、しゃんとしていれば、戦争に勝つはずである。しかし、負けた。負けた以上、現状を好転させるには方法は1つしかない。それは王を殺し、新しい霊力にあふれた王に取り替えることである。
その敗北は致命的と思われるほどの大敗北であったに違いない。なぜなら日本の古代史において、敗戦の責任を追及するための「王殺し」は、今のところこれ1例だけだからだ。
ここで井沢氏は「古天文学」(元東京大学東京天文台教授 斎藤国治氏による)を引用する。過去のデータをコンピュータで解析すると、1世紀から邪馬台国の時代までに日本列島で観測できた皆既日食は「158年7月13日」と「248年9月5日」の2回だけ。そして「158年7月13日」は倭国大乱の年、「248年9月5日」は卑弥呼の死んだ年なのである。
紀元1世紀には、明らかに日本は小国家分立の時代に入っていた。それ以後邪馬台国の女王卑弥呼までの間に、2回皆既日食が起こっているのだ。
卑弥呼が死んだのはその2回目(紀元248年)の時である。私はそれは皆既日食が起きたため日巫女(ひのみこ)である卑弥呼が責任をとらされて殺されたのだ、と推理した。
太陽神信仰を生み出す契機となったのは何か?それはもう見当がついている人も大勢いるに違いない。それは、紀元後の小国家分立時代の日本に起こった「第1回目」の日食、紀元158年の皆既日食である。この時代、日本には何が起こっていたか。幸いにもそれは『後漢書東夷伝』で確認できる。その頃、倭国には大乱が起こっていたのだ。
卑弥呼が女王になる契機は、倭国大乱だったのである。
倭国大乱はなぜ起こったか。直接のきっかけは、小国家分立時代の日本をまとめていた王者が、皆既日食をきっかけにその権威を失ったことにあるのではないか。
この日食をきっかけに大乱が起こったと考えられるのだ。そして、一度大乱が起こってしまえば、実際の原因はどうであれ、「太陽神の怒りで戦乱の世になった」と語り継がれることになる。当然、その後に出てくるシャーマンは、太陽神信仰を意識した人間でなければならない。
ただ卑弥呼にとって不幸だったことは、彼女が生きているうちに、もう一度日本が皆既日食に見舞われたということだ。当然、彼女は責任を問われ殺される。
ここで、これまで述べたことを整理しておきたい。要点は4つある。まず日本は文明の「幼児期」に、たまたま2度の皆既日食を経験したため、太陽を最高神とする信仰が発達した。その信仰を利用して女王になったのが、太陽の巫女(みこ)、ヒミコである。ただしヒミコは、太陽神信仰を定着させたかせゆえに、紀元248年の日食が命取りになって殺された。しかし殺されたことによって、彼女は逆に永遠の存在となり、その死は「アマテラスの岩戸隠れ」という神話となって長く語り継がれることになった。
その「アマテラスの神話」は大和朝廷の神話である。ということは、大和朝廷は、邪馬台国のヒミコを自分達の祖先神(アマテラス)として意識していたことになる。つまりアマテラスのモデルはヒミコであり、邪馬台国は大和朝廷の前身ではないか、という結論が導かれる。
「邪馬台」を「ヤマタイ」と読むのは、本当はおかしい。間違いであるとすら言える。なぜか、「ヤマタイ」という読み方は、現代日本語の読み方だからだ。
私は、日本人と中国人の古代音の研究者に、このことを依頼した。中国語は日本語よりも音韻が豊富だから、残念ながらこの結果を文字(日本語)では書けない。不正確なのを承知でカタカナで書くと、少なくとも「ヤマタイ」ではない。「タイ」は濁音になる。「ヤマダイ」か「ヤマダ」(イはほとんど聞こえない)であり、私のひいき目(耳?)かもしれないが「ヤマド」と聞こえないこともない。もし「ヤマド」なら「ヤマト」とは極めて近いことになる。邪馬台国と大和朝廷は、このように発音の上でも見かけほど遠くないのである。
第3章はここで終わる。井沢氏は「第4章神功皇后編 邪馬台国東遷説を裏付ける宇佐神宮の拝礼方法」でも考察を続けているが、それはまた別の機会に紹介したい。「卑弥呼は日食を契機に生まれ、日食を契機に殺された」「アマテラスは卑弥呼がモデル」「邪馬台国はヤマド国」。これらは興味深い説ではある。
初回は、おなじみ井沢元彦著『逆説の日本史』。第1巻「古代黎明編」の第3章が「卑弥呼編 女王殺害と紀元248年の重大事件」だ。以下、ここから抜粋(青字)して紹介することにしたい。
私は、卑弥呼は殺されたのだ、と確信している。卑弥呼は殺された―この仮説を明確な形で初めて世に問うたのは、残念ながら私ではない。この章の冒頭で哀悼の意を表した松本清張氏なのである。その松本説を紹介しよう。
卑弥呼はなぜ殺されねばならなかったか。それは、邪馬台国が狗奴(くな)国との戦争に敗れたからである。
古代人の考え方によれば、天災も飢饉も疫病も、すべて王者の責任である。天災ですら王者の責任ナノだから、戦争やその他の人災(?)もすべて責任が問われる。つまりこれは王者の「不徳の致すところ」であり、フレイザー流に言えば「祭祀者としての王の霊力の衰えが敗戦を招いた」ということになる。そういう霊的責任(?)を問われて、卑弥呼は殺されたのである。
邪馬台国は狗奴国との戦争に敗北した。その敗北責任は誰にあるか?古代人の考え方で言えば、それは現人神の卑弥呼の霊力の衰えのせいである。物量とか技術とかは関係ない。現人神さえ、しゃんとしていれば、戦争に勝つはずである。しかし、負けた。負けた以上、現状を好転させるには方法は1つしかない。それは王を殺し、新しい霊力にあふれた王に取り替えることである。
その敗北は致命的と思われるほどの大敗北であったに違いない。なぜなら日本の古代史において、敗戦の責任を追及するための「王殺し」は、今のところこれ1例だけだからだ。
逆説の日本史〈1〉古代黎明編―封印された「倭」の謎 | |
井沢元彦 | |
小学館文庫 |
ここで井沢氏は「古天文学」(元東京大学東京天文台教授 斎藤国治氏による)を引用する。過去のデータをコンピュータで解析すると、1世紀から邪馬台国の時代までに日本列島で観測できた皆既日食は「158年7月13日」と「248年9月5日」の2回だけ。そして「158年7月13日」は倭国大乱の年、「248年9月5日」は卑弥呼の死んだ年なのである。
紀元1世紀には、明らかに日本は小国家分立の時代に入っていた。それ以後邪馬台国の女王卑弥呼までの間に、2回皆既日食が起こっているのだ。
卑弥呼が死んだのはその2回目(紀元248年)の時である。私はそれは皆既日食が起きたため日巫女(ひのみこ)である卑弥呼が責任をとらされて殺されたのだ、と推理した。
太陽神信仰を生み出す契機となったのは何か?それはもう見当がついている人も大勢いるに違いない。それは、紀元後の小国家分立時代の日本に起こった「第1回目」の日食、紀元158年の皆既日食である。この時代、日本には何が起こっていたか。幸いにもそれは『後漢書東夷伝』で確認できる。その頃、倭国には大乱が起こっていたのだ。
卑弥呼が女王になる契機は、倭国大乱だったのである。
倭国大乱はなぜ起こったか。直接のきっかけは、小国家分立時代の日本をまとめていた王者が、皆既日食をきっかけにその権威を失ったことにあるのではないか。
この日食をきっかけに大乱が起こったと考えられるのだ。そして、一度大乱が起こってしまえば、実際の原因はどうであれ、「太陽神の怒りで戦乱の世になった」と語り継がれることになる。当然、その後に出てくるシャーマンは、太陽神信仰を意識した人間でなければならない。
ただ卑弥呼にとって不幸だったことは、彼女が生きているうちに、もう一度日本が皆既日食に見舞われたということだ。当然、彼女は責任を問われ殺される。
ここで、これまで述べたことを整理しておきたい。要点は4つある。まず日本は文明の「幼児期」に、たまたま2度の皆既日食を経験したため、太陽を最高神とする信仰が発達した。その信仰を利用して女王になったのが、太陽の巫女(みこ)、ヒミコである。ただしヒミコは、太陽神信仰を定着させたかせゆえに、紀元248年の日食が命取りになって殺された。しかし殺されたことによって、彼女は逆に永遠の存在となり、その死は「アマテラスの岩戸隠れ」という神話となって長く語り継がれることになった。
その「アマテラスの神話」は大和朝廷の神話である。ということは、大和朝廷は、邪馬台国のヒミコを自分達の祖先神(アマテラス)として意識していたことになる。つまりアマテラスのモデルはヒミコであり、邪馬台国は大和朝廷の前身ではないか、という結論が導かれる。
「邪馬台」を「ヤマタイ」と読むのは、本当はおかしい。間違いであるとすら言える。なぜか、「ヤマタイ」という読み方は、現代日本語の読み方だからだ。
私は、日本人と中国人の古代音の研究者に、このことを依頼した。中国語は日本語よりも音韻が豊富だから、残念ながらこの結果を文字(日本語)では書けない。不正確なのを承知でカタカナで書くと、少なくとも「ヤマタイ」ではない。「タイ」は濁音になる。「ヤマダイ」か「ヤマダ」(イはほとんど聞こえない)であり、私のひいき目(耳?)かもしれないが「ヤマド」と聞こえないこともない。もし「ヤマド」なら「ヤマト」とは極めて近いことになる。邪馬台国と大和朝廷は、このように発音の上でも見かけほど遠くないのである。
第3章はここで終わる。井沢氏は「第4章神功皇后編 邪馬台国東遷説を裏付ける宇佐神宮の拝礼方法」でも考察を続けているが、それはまた別の機会に紹介したい。「卑弥呼は日食を契機に生まれ、日食を契機に殺された」「アマテラスは卑弥呼がモデル」「邪馬台国はヤマド国」。これらは興味深い説ではある。
という前置きはさておき、今回鉄田さんから頂いた情報がとても私にはびっくしたのが日食の日の日付です。248年の9/5って怖いくらいの偶然です。248は私の大事な数字で色々なところで出る番号で三桁でこの並びが特に好きですし、こだわっています。また卑弥呼の亡くなった年というのも知ってました。
そしてもう一つ9/5が祖母の命日でありまして、なんとく9/5とくると祖母からのメッセージと捉えています。以前は涙型の真珠と出会った日、今年はなんとこのサイトでのお知らせで初めてまほろば館を訪れた日です。奈良とのお付き合いも急激に増えた日です。おまけに神のような存在として亀の信仰を探していたところ、レジメの表紙が亀石でした。
鉄田さんが卑弥呼の話題を記事にするとは夢にも思ってませんでしたが久々だったので追記がいっぱいあるのにもびっくりです。ゆっくり読ませて頂きますね。
堀立建物も今はまっています。神奈川にもあったようですよ。奈良とは柿繋がりです。色んな解釈で色々な方が興味を持つ事こそ新しい発見があり今の生活に役立ってくると良いですね。だからこそ昔からの言い伝えや習わしや伝統が大事でそれを守りながら全国に紹介する鉄田さんの活躍を今後も楽しみにしております。9874、8と4は出ましたね。
邪馬台国は、興味が尽きません。しっかり勉強して、講話ができれば、と思っています。