吉田拓郎最後のテレビ出演という「LOVE LOVE あいしてる 最終回・吉田拓郎 卒業SP」(2022.7.21 OA)を見て、やりきれない思いを感じていた。この番組はエンターテインメントとしてとても優れた番組だったが、拓郎の衰えぶりが気になったのである。声がよく出ていない、痩せた、メガネをかけた…。
※トップ写真は、番組のHPから拝借した
3年前、拓郎本人が「最後のコンサートツアー」と言っていた「吉田拓郎コンサート2019 Live 73 years」はどんな様子だったのだろう。気になってコンサートを収録したDVDを買い求めた。「名古屋国際会議場センチュリーホール」で行われたコンサートの全貌である。
76歳のLOVE LOVEよりは、はるかに元気に歌い、演奏していたし、ギター1本で歌うシーンもあったが、やはり73歳のトシは隠せない。「東京国際フォーラム」でこのコンサートを聞いた田中利典師は、お坊さんらしく「天人五衰」と評した。 〈仏教用語で、六道最高位の天界にいる天人が、長寿の末に迎える死の直前に現れる5つの兆しのこと〉(Wikipedia)という意味である。
このコンサートの楽曲は、拓郎本人の作詞作曲のみという限定を加えた。過去の代表曲やヒット曲は最小限となり、中には数十年ぶりという曲も加わった。定番の「落陽」(岡本おさみ作詞)などもなかったので、客席のノリは今ひとつという感じだった。
そうやって過去のコンサートを振り返っているとき、火曜日(2022.8.2)の毎日新聞夕刊の芸能欄に〈時代を変えたヒーロー 吉田拓郎 年内で引退 音楽評論家の富澤一誠が語る〉という大きな記事が出た。田中利典師は拓郎を美空ひばりに例えたが、富澤氏は長嶋茂雄や石原裕次郎に例えた。
富澤氏の最後のセリフ〈私たちが考えるのは「じゃあ、俺の最後はどうするのか」という問題。拓郎さんが「お前らも決着つけろ」と言っているみたいな気がしています〉には、ハッとさせられた。以下、記事全文を紹介する。
シンガー・ソングライターの吉田拓郎(76)が7月に放送されたフジテレビ系の番組で「ここで一旦卒業」と語り、年内での芸能界引退を改めて表明した。日本のポピュラーミュージックを語る上で欠かせない存在だが、J―POPに詳しい音楽評論家で尚美学園大副学長も務める富澤一誠(71)に吉田が果たした功績をどう考えるのか、話を聞いた。
「例えるなら音楽界の長嶋茂雄さん、あるいは石原裕次郎さん。彼らに並ぶ大スターですね」。デビュー時から熱心に吉田の音楽を追い続けた富澤に尋ねると、まず「時代を変えたヒーロー」だったと総括した。
吉田は鹿児島生まれ、広島育ち。中学時代、東京でジャズピアニストをしていた大学生の兄が連れて来た女性に見ほれ、「自分もこんなすてきな人とくっつきてえ」と音楽を始めた。1960年代、R&Bをベースとするアマチュアバンド「ダウンタウンズ」や、フォーク同好会「広島フォーク村」のリーダーとして活動し、広島では既に熱狂的な人気を誇っていた。そして70年、自ら作詞作曲したシングル「イメージの詩」でデビューした。
吉田の最初の音楽的功績は「この時、シンガー・ソングライターの草分けになった点にある」と富澤は解説する。「当時は専業の作詞家と作曲家がいて、歌い手は彼らが作る歌をうたっていた。そんな時代に、吉田拓郎さんにはまず自分の言いたいことがあって、それを自分の言葉と曲と肉声で歌えた。つまり、歌は“うたわされるもの”ではなく、“己の自己表現手段”。歌に対する概念を変えたわけです」
それだけではない。「好きなことを言って、好きに歌う。テレビにも出ない。当時タブーとされていたことを次々に破っていくわけです。そうした拓郎さんの生きざまから我々が学んだのは『好き勝手にやればいいんだ』ということでした」
実際、富澤も大きな影響を受けた。長野から上京し、東京大に通っていた富澤は、20歳で音楽の道に進もうと決心して大学を中退した。「私だけでなく、当時、吉田拓郎を聴いて人生が変わった人はたくさんいたんです。単なる歌じゃなくて、人生を変えてしまう歌でした」
吉田は71年、岐阜県で開催された野外フェス「全日本フォークジャンボリー」で「人間なんて」を歌って注目され、翌72年のヒット曲「結婚しようよ」「旅の宿」で大ブレーク。それまでマイナージャンルだったフォークを、メジャーシーンに押し上げる立役者となった。ただ、当時はフォークを「反体制・反商業主義の音楽」と意義づける音楽ファンも少なくなかった。そういった考えの人たちから、吉田は「裏切り者」と激しく糾弾され、コンサートで「帰れ」と石を投げつけられたこともある。
そんな反発を受けながらも、吉田はCMや人気歌手に楽曲を提供。パーソナリティーとしてラジオ番組を持ち、当時、日本では例のなかった全国コンサートツアーを実施したり、歌手の立場でレコード会社を設立したりもした。今でこそ当たり前の光景だが、いずれも吉田が先進的に始めたことだという。富澤は言う。
「私はアーティストには二つのタイプがあると思っているんです。一つは矢沢永吉さんのように、時代がどうあれ『俺が』と自分を貫くタイプ。時代にハマればすごく売れるけれど、ハマらない時期もある。でも、それをものともせず、ブルドーザーのように時代を切り開いていく人です。もう一つは、桑田佳祐さんや松任谷由実さんのように、時代がどんなに変わろうとも、その波を捉え、サーファーのように乗りこなして売れ続ける人です」
富澤いわく、吉田は前者のブルドーザータイプ。「定められたゴールに向かうのではなく、拓郎さんの倒れた所がゴール。時代に迎合しない人だと思います」
そんな吉田だからこそ、引退表明後もラストツアーなどの興行を行わない幕引きは「拓郎さんらしい」と富澤は考える。引退をさみしく思うのかと問えば、答えは否。「やめたからといって、ずっと表に出ずにいる必要もない。またやりたい時にやりゃあいいんじゃないでしょうか。それが拓郎流だと思うんですよね」と軽やかだ。そして最後にこう話した。
「我々の世代にとって、人生の道しるべみたいな人がラストを迎えるわけです。それを見て、私たちが考えるのは『じゃあ、俺の最後はどうするのか』という問題。拓郎さんが『お前らも決着つけろ』と言っているみたいな気がしています」【伊藤遥】
※トップ写真は、番組のHPから拝借した
3年前、拓郎本人が「最後のコンサートツアー」と言っていた「吉田拓郎コンサート2019 Live 73 years」はどんな様子だったのだろう。気になってコンサートを収録したDVDを買い求めた。「名古屋国際会議場センチュリーホール」で行われたコンサートの全貌である。
76歳のLOVE LOVEよりは、はるかに元気に歌い、演奏していたし、ギター1本で歌うシーンもあったが、やはり73歳のトシは隠せない。「東京国際フォーラム」でこのコンサートを聞いた田中利典師は、お坊さんらしく「天人五衰」と評した。 〈仏教用語で、六道最高位の天界にいる天人が、長寿の末に迎える死の直前に現れる5つの兆しのこと〉(Wikipedia)という意味である。
このコンサートの楽曲は、拓郎本人の作詞作曲のみという限定を加えた。過去の代表曲やヒット曲は最小限となり、中には数十年ぶりという曲も加わった。定番の「落陽」(岡本おさみ作詞)などもなかったので、客席のノリは今ひとつという感じだった。
そうやって過去のコンサートを振り返っているとき、火曜日(2022.8.2)の毎日新聞夕刊の芸能欄に〈時代を変えたヒーロー 吉田拓郎 年内で引退 音楽評論家の富澤一誠が語る〉という大きな記事が出た。田中利典師は拓郎を美空ひばりに例えたが、富澤氏は長嶋茂雄や石原裕次郎に例えた。
富澤氏の最後のセリフ〈私たちが考えるのは「じゃあ、俺の最後はどうするのか」という問題。拓郎さんが「お前らも決着つけろ」と言っているみたいな気がしています〉には、ハッとさせられた。以下、記事全文を紹介する。
シンガー・ソングライターの吉田拓郎(76)が7月に放送されたフジテレビ系の番組で「ここで一旦卒業」と語り、年内での芸能界引退を改めて表明した。日本のポピュラーミュージックを語る上で欠かせない存在だが、J―POPに詳しい音楽評論家で尚美学園大副学長も務める富澤一誠(71)に吉田が果たした功績をどう考えるのか、話を聞いた。
「例えるなら音楽界の長嶋茂雄さん、あるいは石原裕次郎さん。彼らに並ぶ大スターですね」。デビュー時から熱心に吉田の音楽を追い続けた富澤に尋ねると、まず「時代を変えたヒーロー」だったと総括した。
吉田は鹿児島生まれ、広島育ち。中学時代、東京でジャズピアニストをしていた大学生の兄が連れて来た女性に見ほれ、「自分もこんなすてきな人とくっつきてえ」と音楽を始めた。1960年代、R&Bをベースとするアマチュアバンド「ダウンタウンズ」や、フォーク同好会「広島フォーク村」のリーダーとして活動し、広島では既に熱狂的な人気を誇っていた。そして70年、自ら作詞作曲したシングル「イメージの詩」でデビューした。
吉田の最初の音楽的功績は「この時、シンガー・ソングライターの草分けになった点にある」と富澤は解説する。「当時は専業の作詞家と作曲家がいて、歌い手は彼らが作る歌をうたっていた。そんな時代に、吉田拓郎さんにはまず自分の言いたいことがあって、それを自分の言葉と曲と肉声で歌えた。つまり、歌は“うたわされるもの”ではなく、“己の自己表現手段”。歌に対する概念を変えたわけです」
それだけではない。「好きなことを言って、好きに歌う。テレビにも出ない。当時タブーとされていたことを次々に破っていくわけです。そうした拓郎さんの生きざまから我々が学んだのは『好き勝手にやればいいんだ』ということでした」
実際、富澤も大きな影響を受けた。長野から上京し、東京大に通っていた富澤は、20歳で音楽の道に進もうと決心して大学を中退した。「私だけでなく、当時、吉田拓郎を聴いて人生が変わった人はたくさんいたんです。単なる歌じゃなくて、人生を変えてしまう歌でした」
吉田は71年、岐阜県で開催された野外フェス「全日本フォークジャンボリー」で「人間なんて」を歌って注目され、翌72年のヒット曲「結婚しようよ」「旅の宿」で大ブレーク。それまでマイナージャンルだったフォークを、メジャーシーンに押し上げる立役者となった。ただ、当時はフォークを「反体制・反商業主義の音楽」と意義づける音楽ファンも少なくなかった。そういった考えの人たちから、吉田は「裏切り者」と激しく糾弾され、コンサートで「帰れ」と石を投げつけられたこともある。
そんな反発を受けながらも、吉田はCMや人気歌手に楽曲を提供。パーソナリティーとしてラジオ番組を持ち、当時、日本では例のなかった全国コンサートツアーを実施したり、歌手の立場でレコード会社を設立したりもした。今でこそ当たり前の光景だが、いずれも吉田が先進的に始めたことだという。富澤は言う。
「私はアーティストには二つのタイプがあると思っているんです。一つは矢沢永吉さんのように、時代がどうあれ『俺が』と自分を貫くタイプ。時代にハマればすごく売れるけれど、ハマらない時期もある。でも、それをものともせず、ブルドーザーのように時代を切り開いていく人です。もう一つは、桑田佳祐さんや松任谷由実さんのように、時代がどんなに変わろうとも、その波を捉え、サーファーのように乗りこなして売れ続ける人です」
富澤いわく、吉田は前者のブルドーザータイプ。「定められたゴールに向かうのではなく、拓郎さんの倒れた所がゴール。時代に迎合しない人だと思います」
そんな吉田だからこそ、引退表明後もラストツアーなどの興行を行わない幕引きは「拓郎さんらしい」と富澤は考える。引退をさみしく思うのかと問えば、答えは否。「やめたからといって、ずっと表に出ずにいる必要もない。またやりたい時にやりゃあいいんじゃないでしょうか。それが拓郎流だと思うんですよね」と軽やかだ。そして最後にこう話した。
「我々の世代にとって、人生の道しるべみたいな人がラストを迎えるわけです。それを見て、私たちが考えるのは『じゃあ、俺の最後はどうするのか』という問題。拓郎さんが『お前らも決着つけろ』と言っているみたいな気がしています」【伊藤遥】
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