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てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

音引きの怪

2008年12月23日 | 雑想


 かつて大阪に住んでいたころ、文学の実作を学ぶ教室にかよっていたが、ある仲間が書いた小説のなかに「コーヒ」という言葉が何度も出てきた。気になったので「コーヒー、ですよね?」と念を押してみたら、「いや、コーヒ、ですね」と明確に否定されてしまった。ぼくは物心ついてからずっと「コーヒー」だと思い込んでいたので、一種のカルチャーショックを受けたのを覚えている。大阪ではよくそういう発音をするらしいのだが、だからといってそのとおりに書くとは限らない。

 大江健三郎は「テレビ」を「テレヴィ」と表記していたように記憶するが、人によって書き方の癖があるのは当然だ。それにしても「コーヒ」とは珍しいと思っていたら、のちに京都に住むようになったとき、「イノダコーヒ」という店があるのを知って驚いてしまった。そこは何でも京都を代表する老舗で、かの谷崎潤一郎もよく訪れたという名店らしい。ぼくは一度だけ入ったことがあるが、注文するときに「コーヒー」といわず「コーヒ」というべきか思い悩んでいたら、ブレンドコーヒーには「アラビアの真珠」という名前がついていたので、ちょっと緊張しながら「アラビアの真珠をください」などとオーダーしてやりすごした(ちなみにアメリカンコーヒーは「コロンビアのエメラルド」というそうだ)。

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 古い例になるが、夏目漱石の『吾輩は猫である』のなかには「ボイ」という言葉がよく出てくる。最初のうちは何のことかと思ったが、読んでいくうちにレストランなどの「ボーイ」のことだとわかってきた。しかし、英語が堪能だった漱石が実際に口でも「ボイ」と発音していたのかどうか、それは何ともいえないことだ。

 今でも路線バスに乗ると、乗降口のところに「ブザが鳴るとドアが開きます」などと書いてあるのを見かける。これは何も京都だけではないようだが、いったい「ブザ」とは何なのか。手もとの広辞苑をひもといてみても、「ブザ」という語句は見つけることができなかった。もちろん「ブザー」のことをさしているのは明らかで、業界用語なのかもしれないと思ったが、どうも違和感を禁じ得ない。

 記憶に新しいところでは、かつて多くの不具合を起こしたエレベーターのメーカーは「シンドラーエレベータ」という名前だった。ニュースを聞いていると、アナウンサーも注意して両者の発音を使い分けているようだった。実は日本のエレベーター会社には、ほかにも社名を「何々エレベータ」としたものがいくつかある。

 このような音引きの省略は、どうして起こるのだろう。いろいろ調べてみたが、JIS規格とやらがカタカナ表記に関して幅を利かせているらしいことと、そのベースになっているのが内閣の出した告示らしいことがわかった程度だった。しかし“お上”が定める国語表記の決定事項に関しては、素直にうなずけないものが多かったりする。何年前だったか、人名用漢字に「糞」「屍」などの文字を追加する案が示されたとき、その常識のなさには唖然としたものだ(これらの字は結局削除されたが、当然のことである。自分にそういう名前が付けられたときのことを、彼らは少しでも考えなかったのだろうか)。

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 日に日に増殖をつづけるカタカナ語のなかでもいちばん人の口にのぼるのは、今をときめくIT用語のかずかずだ。ぼくはこうやってパソコンを使ってブログを書いたりしているわりに、IT関連については疎いのでコメントのしようがないが、どうも日本人の感性には馴染まないような名称が多い感じがする。

 それだけではない。最近では「パーティー」と書かないで、のばさずに「パーティ」と書くことが増えてきた。「エンターテイメント」ではなく、「エンタテイメント」ないしは「エンタテインメント」と書くことも多くなっている。JIS規格にのっとればこういうことになるのかもしれないが、特に新しい言葉でもないのに表記が年々移り変わっていくということが、日本における外来語の落ち着きのわるさを物語っている。

 けれども日本語のカナというものは、外国語を聞こえたとおりに表記する記号として優れたものではないかと思う。もちろん外国には日本語にない発音がふんだんにあって、すべてが完全にカナに移し変えられるとは誰も考えていないだろうが、少なくともある程度は再現できるはずである。音をのばしたり縮めたり、あるいは「ウィーク」が「ウイーク」になったりするのは、一部の専門家たちが自分の考えに応じてカタカナ語をこねくり回しているからだとしか思われない。

 いうまでもないが、カタカナというのは表音文字である。「パーティ」と書く人は、口でいうときも「パーティ」といい、決して語尾をのばさないのだろうか。そんなことはあるまい。口では誰だって「パーティー」というにちがいない。だったら、なぜそのとおりに「パーティー」と書かないのか。耳で聞こえるとおり忠実に表記するという素朴な原則に徹すれば、カタカナをめぐるごたごたが氷解しそうな気もするのだが、人々の口にのぼるよりも先に高度な専門性をもった外国語が続々と輸入されてくる今の情勢では、そうもいかないのかもしれない。

(画像は記事と関係ありません)

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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (遊行七恵)
2008-12-26 12:39:06
こんにちは
うーん、関西人はへんな縮め方をしたり伸ばし方をしますから、あんまりそのことに関心が持てないのかもしれません。
てぇ、ちぃ、きぃ、みぃ、いぃ・・・
でもコーヒーはわたし「コーヒィ」と発音してますね、書くのはコーヒーですけど(笑)。

イノダのコーヒー(!)は一番好きな味です。
わたしは大阪人らしく、こうたのみます。
「ホットお願いします、ミルクも砂糖もよろしく」
ホットはコーヒーに決まってます。(断言)
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こんばんは (テツ)
2008-12-28 01:01:42
はじめてイノダに入ったとき、店員が蝶ネクタイをつけたりして正装しているのに驚きました。厨房(?)にはコックさんもいるし、シアトル系のセルフスタイルの店とは格式がちがいますね。

多分そうだろうと思っていましたが、「ホット」で通じるんですか(笑)。まだ三条本店には行ったことがありませんが、いずれ挑戦してみます。
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Unknown (なるっち)
2009-02-01 20:50:11
はじめまして、突然のコメント失礼いたします。
音引きに関して検索していてこの記事にたどり着いた者です。

現在のカタカナ語は完全に日本語化しているようで、その最たる例は「コンピューター」ですね。
英語の "computer" の "o" と "e" は同じ母音(どちらも e が逆さまになったような発音記号が充てられています)なのに、日本語ではオ行とア行に書き分けられているんですよね。
敢えて本来に近い発音へと書き換えるのならば、両方をア行に統一して「カンピューター」、もしくはオ行に統一して「コンピュートー」となります。
実際、韓国語では「コンピュト」と言うらしいですね。

英語の "-er" が総じて「アー」になったのも、もしかしたら「一部の専門家たちが自分の考えに応じてカタカナ語をこねくり回し」た結果かもしれないな、と興味深く読ませていただきました。
秀逸な記事に感謝いたします。ありがとうございました。
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はじめまして (テツ)
2009-02-02 03:22:53
コメントありがとうございます。

外国語を日本語に移し変えるのは難しいでしょうが、規則性にこだわるあまりに本来の生きた発音がないがしろにされているような気がします。木を見て森を見ず、とでもいいましょうか。

「コンピューター」も、JISの定めでは「コンピュータ」となっています。のばすのが自然だと思いますが、音引きひとつに何でここまでこだわるのだろうと思います。
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