高橋由一『甲冑図(武具配列図)』(1877年、靖國神社遊就館蔵)
先にも触れたように、高橋由一はもともと武士の出であった。ということは、ここに描かれているような鎧兜は身近にあっただろうし、これこそが命の次に大切なもの也、といった教えを受けて育ったかもしれない。
けれども結果的に、由一は武士を捨てた。それは、彼が頑健な肉体の持ち主でなかったということと無関係ではない。あるとき由一は、祖父から「お前は体が弱いので、武術の道に進まなくともよい」と宣告されたという。いってみれば、「お前は跡を継がなくていい」といわれたようなものだ。絵画を学ぼうと思っていた由一にとってそれは願ってもないことだったかもしれないが、やはり胸の内のどこかで、落伍者の烙印を押されたときのようなやるせなさを感じていたのではあるまいか。
ついに画家となった高橋由一は、若いころの心のわだかまりを解き放つためのように、勇ましい甲冑を気のすむまで描写した。ある意味では武術の訓練に明け暮れていたころへの懐かしみを込めたのかもしれないし、そしてまた、新たな時代に向けて過去と決別する意味もあったかもしれない。
いずれにせよ、現在では油絵の題材に甲冑を取り上げる画家はまずいないだろう。造形としてはかなり複雑で、手が込んでいて、絵描きの心をくすぐるところがあるような気もするのだが、誰も手をつけようとはしないのだ。やはり油絵のモチーフとしてはあまりに古びすぎていて、すでに過去の遺物となってしまったからかもしれない。
由一がこの絵を描いたときは、まだ明治10年だった。ちょうどあの西南戦争があった年である。武士たちがまさにこの絵のような鎧や兜を揃って身に着け、明治政府への最後の反乱を起こしたのと同じタイミングで、この『甲冑図』が描き上げられたのは奇妙な符合というほかないであろう。
***
ただ、ちょっと腑に落ちない点もある。この甲冑の並べ方は、これで正しいのだろうか、ということだ。副題に『武具配列図』とあることから、何か決まった並べ方があるのかとも思ったが、博物館などでわれわれが見かける整然とした甲冑の置き方とはだいぶちがう。
ぼくがこの絵から連想したのは、武士が戦死した瞬間のありさまだ。鎧は腰のあたりから“くの字形”に折れ、命を失ったもののように前かがみになっている。畳に敷かれた豹の毛皮は、まるで血溜まりがだんだん広がっていくところのようにも見える。
兜は胴体から離れて後ろへ飛び、そこへ刀の鞘が倒れかかってきている。もしも抜き身の刀だったら、この武士の額は真ん中から割られてしまっていただろう。
由一は、ただ武具を精密に描き写しただけではなく、血塗られたサムライの歴史をそこに封じ込めようとしたのではあるまいか。彼にとって、日本人が洋画の技術を修得し、事物を正確に見据え、おのれの見識を広めていくことは、真の文明開化に必須のものだったからである。
つづきを読む
この随想を最初から読む