さて、このたびドレスデン・フィルとともに来日するはずだった指揮者は、音楽監督のラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスだった。その道に詳しくない人には、何だか舌を噛みそうな長ったらしい名前だなと思えるかもしれないが、クラシックに親しんできた人間には馴染みがある。ただ、ラジオのFM放送で演奏に耳を傾けたことがあるだけで、その生きて動く姿を見たわけではなく、CDすら持っていない。けれども日本にはしばしば来ていて、読売日本交響楽団の名誉指揮者でもある。
はじめてこの人の名前を眼にしたら、いったいどこの国の人か、と考えさせられるだろう。実際は父親がドイツ人、母親がスペイン人で、本名はラファエル・フリューベックという。「デ・ブルゴス」というのは、彼が生まれたスペインの地名にちなんでいるそうだ。つまりイタリアのヴィンチ村に生まれたレオナルドが、レオナルド・ダ・ヴィンチと呼び習わされているのと同じである。最初はスペインで音楽を学び、のちドイツに留学したという経歴の持ち主で、ドイツやオーストリアの楽団のシェフを転々とした挙げ句、現在のポストにたどり着いたのであろう。
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実は『ヨーロッパの響、ヨーロッパの姿』のなかにも、彼の名前が1か所だけ出てきた。出典によるとその記事は昭和46年、ぼくが北陸の片田舎にオギャーと生まれ落ちた年の12月に書かれているようだが、その年に吉田秀和はまたヨーロッパに出向いていて、記述のあるだけでもワルシャワ・プラハ・ウィーン・ロンドンとまわり、ベルリンで年を越したとある。何ともまあ、呆れるほど活動的というか、行動的である。21世紀の今、こうやってクラシックの本場で、足を棒にして“音楽行脚”をする評論家がどれだけいるだろうか?
さて、吉田はブルゴスの指揮を、ベルリン・フィルではじめて聴いたのだった。ただ、その長くてややこしい名前は、「ラファエル・フリューベック・フォン・ブルゴス」と書かれている。フォンというのは、ヘルベルト・フォン・カラヤンしかり、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテしかりで、ドイツ人の名前につく。若かりしラファエル・フリューベックは、スペインの故郷を名前の末尾にくっつけながら、どこかでドイツ人を気取っていたのかもしれぬ。もっと穿った見方をすれば、すでに長らくベルリン・フィル首席指揮者のポストにあったフォン・カラヤンの向こうを張って、あえて「フォン・ブルゴス」と名乗ったのかもしれぬ。
そういえばカラヤンも、よく考えると国籍不明の名前である。彼が日本で指揮者の代名詞のようになったのも、ちょっと大阪弁を連想させるようなその風変わりな名前に一因があるのではないかという気がする。よく知られているようにカラヤンの生まれはオーストリアのザルツブルクだが、先祖をたどってみるとギリシャ系の人物に行き当たるという。ヘルベルトのひいひいお祖父さんにあたる人がドイツに出てきて爵位をたまわり、「フォン・カラヤン」となったそうだ。そしてその高貴な名前が、いかにも貴族的な風貌のカリスマ指揮者の評判に輪をかけ、ついには“帝王”と呼ばれる地位にまで導いたというのは、まんざら荒唐無稽な話とはいえないだろう。
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話は戻るが、昭和46年(というより1971年というべきだろうが)のベルリンでフォン・ブルゴスが振ったのは、グリンカの『ルスランとリュドミラ』序曲、ボストン響の指揮者だったクーセヴィツキーのコントラバス協奏曲(滅多に演奏されない珍曲!)、そして『幻想交響曲』であったという。
『幻想』は、今でもブルゴスが得意としているレパートリーだそうだ。ぼくもいつかは一度聴いてみたいものだが、そのときはドレスデンのオーケストラじゃないほうがいいかな、などと勝手なことを思ってもみるのである。
(画像は記事と関係ありません)
(了)
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