てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

夏はどこから(1)

2016年07月04日 | その他の随想


 今年も、何もせぬうちに半分が過ぎてしまった。このままでは、ただいたずらに年を取ってしまうのではないかと不安でならない。すべては、ブログの更新をサボっているぼくの責任であるのだが・・・。

 ときどき地元に帰って甥っ子に会うと、底なしの生命力といったものに圧倒される。皆でどこかへ出かけ、家へ帰ってくるが早いか、彼は一休みする間もなくおもちゃ箱をかき回して遊びはじめる。「疲れた」という言葉を、子どもは知らないらしい。

 それにひきかえ、こちらは仕事から帰ってくると、どうしても体を休めたくなる。晩酌の習慣などがない代わり、すぐ寝転びたくなるのである。考えてみればぼくの父親も、かつては他県から長時間かけて帰ってきていたが、晩ご飯を食べてすぐ横になるようなことはなかった。当時は、毎晩のように放送されるプロ野球が、父の元気のもとであったのだ。

 そんな環境に反発したからか、ぼくは野球をはじめ、ほとんどのスポーツが嫌いなまま育った(大阪在住の人はことごとく阪神ファンだと思われるのは、ぼくのような者には迷惑である)。その結果、体を鍛えていないせいで、疲れやすい、自堕落な中年男ができあがってしまったというわけなのだが・・・。

                    ***

 しかしながら、ぼくは肉体よりも頭を鍛えたい、という願望は昔からあったので、そちらのほうの努力は怠っていないつもりだ。といっても、人から勉強を教わるのは大嫌いである。自分の関心があるものを、自分の力で身につけたいというのが、ぼくの願いだ。

 そのために書かせないのが、読書と、展覧会鑑賞である。流行の最先端を追いかけることなどまったく興味がないし、そんな上っ面のことに躍起になるなど、バカげていると思う。いい年をしたオッサンが電車のなかでスマホのパズルゲームに夢中になっているのを見ると、そんな暇があったら本でも読めばいいのに、といいたくなる。

 読書は、学校では教えてくれなかったさまざまな知識を教えてくれる。特にいわゆるムツカシイ本とか、ハウツー本でなくてもいい。普通の小説であっても、些細な地名であるとか、着物の柄の呼び名であるとか、ごくごく細かい知識が山のようにちりばめられているものだ。

 たとえば先日、福井の実家へ帰って両親と話していたときに、たまたま天橋立の近くにある、船を通すために旋回する橋の話題になった。その流れで、かつて東京に単身赴任していたことのある父が、勝鬨橋の名前を持ち出した。勝鬨橋はもともと、大型の船舶を通すために、ゴッホが描いたアルルの跳ね橋のように中央部分が離れて持ち上がるシステムであったのだ。

 ぼくはすかさず、「勝鬨橋は、今は動いてないじゃん」というようなことをいった。そもそもこの橋は、隅田川に架かる橋なので、福井の人間にはおよそ馴染みがない。ぼくも東京に行ったことはあるが、勝鬨橋を見たことはない。それでもぼくが、この話にすぐ反応できたのは、かつて三島由紀夫の『鏡子の家』を読んだとき、勝鬨橋が電力でじりじりと傾いていく印象的な描写が心に残っていたからだった。

 このように、日々の読書は、時代も土地もかけ離れた知識をもたらしてくれるものだ。これだから、本を読むのはやめられない。いや、やめるべきではないのである。

(画像は記事と関係ありません)

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