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上村松園『待月』(1926年)
今度は日本画に眼を向けてみよう。京都市美術館随一の名画というと、やはり上村松園の『待月』ということになるのではないか。
個人的な話になるけれども、松園はぼくが日本画への興味を開かれた最初の画家だといってもいい。
いつのことだったか忘れたが、ふらりと入った大阪の展覧会で『序の舞』を観たのがきっかけだった。ガラスケースが絵の寸法より小さかったのか、その絵は少し斜めに傾けて ― つまり仰ぎ見るような感じで ― 展示されていたのだが、そこで生まれてはじめての体験をした。さて次の絵に移ろうと思っても、足が床に貼り付いてしまったみたいに身動きができず、いつまでも『序の舞』の前に立って見つめつづけていたいような気がしたのだ。
今こそ至福のときだ、という意識がぼくの頭を占領していた。平たくいえば、熱烈なひと眼惚れにも似た瞬間だったのかもしれない。
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京都市美術館で『待月』に出会ったのは、そのあとだったように思う。『序の舞』のような華やかさはないが、この絵もぼくを強く惹き付けた。薄物の下から透けて見える、赤い紋様の入った襦袢。鼈甲のかんざしにも、豊かな黒髪がぼんやり透けている。実に細かい部分まで描き出されているのに、肝心の女の表情はうかがい知ることができない。何と思わせぶりな、よく考え抜かれた構図であることか。
それにしても目立つのは、女の手前を上下に貫く柱である。これによって、女の姿が少し遮断されているともいえる。けれども、白いうなじとか帯の柄とか、袂からちょっと覗いた襦袢の赤色などはちゃんと描かれていて、特に不足はない。
この柱は、たとえばフェルメールの絵に描かれたカーテンのように観る者とのあいだを隔てているが、そのせいで、女の様子をこっそりと覗き見ているような錯覚を覚えはしないだろうか。「あら、そろそろ月が出るころね」などといいながら、ついと縁側に出た女の後ろ姿を眺めているかのような気にさせられるのである。月が出るか出ないかは、もはやわれわれにとってはどうでもいいことであるけれど。
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参考画像:上村松園『良宵之図』(1926年頃、林原美術館蔵)
松園は、『待月』のつづきとでもいうべき絵を描いている。『良宵之図』では、すでに月は高く昇り、女は柱にもたれている。
けれどもよく観察してみると、女の眼はすでに月を追いかけてはいない。呆然と物思いにふけりながら、遠くを見る眼付きである。口元にはかすかな笑みさえ浮かんでいるように感じられる。そして右手の白い指が、所在なげに柱をなぞっている。
いったいこの女の身の上に何が起こったのか? 彼女はなぜ、うれしそうにほくそ笑んでいるのか? すべてお見通しなのは、天上のお月様だけかもしれない。
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