てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

中村紘子のピアノを聴いて(1)

2008年09月24日 | その他の随想


 日曜日。よどんだ空からぬるい雨粒が落ち、時おり雷鳴が轟くあいにくの天気のなか、久しぶりに大阪のザ・シンフォニーホールへ出かけた。中村紘子のピアノリサイタルを聴くためである。

 中村紘子というと、日本のピアニストの代名詞のような存在だ。旺盛な演奏活動のかたわらテレビ出演をこなすかと思うと(そういえばずいぶん前に「N響アワー」の司会をしていたこともあった)、洒脱なエッセイの執筆で賞をもらい、世界各地のピアノコンクールの審査員も務めるという八面六臂の活躍ぶり・・・などと、こうやっていちいち数え上げることもないだろう。日本からは優秀な若い人材が続々と輩出されているというのに、いまだに中村紘子以上に名前と顔を広く知られたピアニストはあらわれていない、というのはどうやら事実なのだから。

 しかし、妙ないい方になるが、ぼくはピアニストとしての中村にあまり注目してこなかった。20年ぐらい前に一度、ラジオでライブ録音に接したことはあるが、何だかひどくがっかりしてしまったのを覚えているからである。詳しいことは記憶にないが、おそらくそのときの演奏が、徐々に形成されつつあったぼくのクラシック音楽への嗜好というか、好みのスタイルに一致しなかったのだろう。まあこんなことはよくあることで、それ以来ラジオで彼女の演奏が流れるからといって特に耳を傾けることもなかった。

 だが数か月前に、あるコンサートでもらった山のようなチラシをめくっていて中村紘子の名前にぶつかると、やはりいっぺんぐらいは生演奏を聴いておくのもわるくないかもしれない、という気になった。かくしてこの日、雨のなかをわざわざ出かけていったのだ。

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 チケットが売り出されたころには曲目は全然決まっておらず、リサイタルの前の日になってインターネットで知ったようなあんばいだったが、いざ会場に着いたら貼り紙があって、前半のプログラムがすっかり変更されたと書いてあった。結局この日演奏されたのは、ベートーヴェンの『月光ソナタ』とムソルグスキーの『展覧会の絵』、そして後半がショパンのワルツ全曲という、まことにポピュラーな作品ばかり。初心者向けといってもいいほどである。

 でも、よく知っている曲であればあるほど、一定の好みの演奏パターンというのをもちやすい。『月光』の第1楽章にいたっては、その昔、自分で練習したことがあるので(といっても本物のピアノではなく、安物のキーボードをなでまわしていたにすぎないけれど)、譜面もよく知っている。一見すると簡単そうな、音符が少なくて隙間の多い感じのする楽譜だが、シンプルな3連符の繰り返しと、数学的に割りきれない付点音符とを右手でいっぺんに弾かなければならないという、一筋縄ではいかない音楽でもある。書かれているとおり正確に弾くというのではなく、作曲家が意図したリズムの揺れにいかなる意味をくみ取って弾くかというのが、演奏家の仕事であるように思われる。

 だが、中村紘子の演奏は、ぼくには少し快速すぎるように思われた。いいかえれば、淡白に聞こえた。もちろんどんな速度をとるかは個人の自由だが、ぼくはかつて自分で演奏するとき、ちょっと過剰ではないかというほど思いきってゆっくり弾くのが好きだった。そうでないと、例の右手のリズムが交錯する部分で、どうしても音がじゅうぶんにのびきらず、小節線の内側に音符を全部おさめてしまわないと次の小節へ進めないというような、事務的な処理になってしまう気がしたからである(単に、速く弾ける技術をもっていなかったせいでもある)。

 楽章の終わり近く、右手の分散和音が大きく弧を描いて上昇し、また下降してきて、音量的にもクレッシェンドしてすぐまたディミヌエンドするという山をつくる、そういう動きが2回反復されるところがあるが、最初の強弱記号は右手のみに、2回目は左手のみに書かれている、ということをドイツ人のオピッツというピアニストが指摘していた。だがそのように弾いているのはオピッツ以外に聴いたことはなく、今回の演奏でもそういうことはなかった。

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 ソナタは次の楽章へと進むが、この第2楽章はぼくにはどうもよくわからない音楽だ。単純なメヌエットふうの曲だが、メロディーと伴奏が右手と左手で1拍ずれて追いかけっこしたりする。ヴァイオリンのための『スプリング・ソナタ』でも似たようなことをやっているが、いったいベートーヴェンはどのような演奏効果をねらったのだろう?

 中間部でも、右と左のリズムはほとんど終始、仲たがいしたままだ。農民たちが集まって合奏しているとでもいおうか、素朴さのうえに稚拙さが合わさって予期せぬ効果をもたらすような感じである。それにしても中間部の右手は徹頭徹尾オクターブを弾くだけで、簡素なことこのうえない。『月光ソナタ』の楽章でなかったら、おそらくほとんど演奏されないような気さえする。

 最後の第3楽章。ぼくの本音をいえば、このソナタのなかで真の傑作の名に値するのは、この楽章のみだと思う。長い曲ではないが起伏に富み、一編のドラマのようである。本当によく考え抜かれていて、飽きさせない。

 ただ、中村紘子の演奏は、やはり少し飛ばしすぎのような印象を受けた。16分音符で駆け上がっていく分散和音が、何だかもやもやとした雲のような、かたまりになって聞こえる。これはぼくの座席の位置のせいかもしれないし、CDで聴きなれていたものが実演では異なって聞こえるのも当然の話だが、ベートーヴェンのような論理的な音楽の場合、骨組みがある程度見えてこないとどうしてもわだかまりが残ってしまう。“奏でる”ことが音楽の主流だった時代に、激情的なダイナミズムを持ち込んだのはこの作曲家の大きな手柄だが、やはり彼は古典派の最後の牙城でもあり、そのへんのバランスが演奏の可否を決するといってもいいように思われる。

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 全体としてハイスピードで、ややあっさりした感じの『月光』であった。聴衆の反応もまだ控えめで、弾き終わったピアニストが袖に引っ込んでからも、拍手で呼び戻すことはしなかった。ちょっとしたオードブルがわりに『月光』をもってくるとは、やはりベテランらしい自信のあらわれかとも思ったが、とにかく次の曲以降、このリサイタルの雰囲気は大きく変貌することになる。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (遊行七恵)
2008-09-24 12:42:07
こんにちは
中村さんのライブ演奏は、実は学校での演奏会で聴いただけです。
来られて弾かれたのですが、オーソドックスな人気曲はまだしも、コンテンポラリーな曲の演奏が鬼気迫るもので、たいへん怖かったことを思い出します。なんというかちょっと神経質な感じでした。
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こんにちは (テツ)
2008-09-26 04:57:28
学校の演奏会でコンテンポラリーな曲をやったのですか。観客の印象はどんなだったんでしょう?

中村さんはテレビでは温和な笑顔を振りまいていますが、ひとたび鍵盤に向かうと、怒ったような怖い顔で弾かれることが多い気がします。苦行に耐えているといった感じですね。
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