てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

年越しあれこれ(2)

2017年01月03日 | その他の随想
 境内には、お坊さんかそれとも司会進行の担当者か、朗々たる声がマイクを通して響き渡る。まるでイベントの開始を告げるかのようである。

 そう、ぼくは今まさに、これから除夜の鐘を突きはじめようとする瞬間に行き合わせたのだった。これまで何度も年越しの瞬間を寺で過ごしてきたが、こんなことははじめてだ。

 司会の声が、今から除夜の鐘の第一打を突くにあたり、皆さんは合掌を、などといっている。鐘楼を取り囲む多くの人々は、いわれたとおりに手を合わせる。ぼくは少し鼻白んできたのだが、ここで多数派に逆らっても仕方ないのでおとなしく合掌した。思ったよりも大きい梵鐘の音が、そんなすべてを包み込んで来年へと押し流そうとする。

 実は、除夜の鐘を突くための整理券が配られていたらしいのだが、ぼくが薬師寺に到着したときには受付が終わっていたのか、どうすれば鐘が突けるのかがわからない。ただ、すでに券を持っている人たちはとぐろを巻くように鐘楼の周りに並び、自分の番が来ると嬉々として鐘を突いている。なかには歯を見せて、笑いながら突いている人もあるほどだ。前にも書いたが、本来はもっと“厳しさ”が、ないしは“厳粛さ”があってもいいのではないかと思うのだが、除夜の鐘は新年を迎えるための空虚な儀式のようなものに成り下がってしまったのだろうか?

 仕方がないので、次々と突かれる鐘の音を聞きながらうろうろしていると、再びマイクの声で「3、2、1、明けましておめでとうございます」と叫ぶのが聞こえた。まさか、ここでもカウントダウンをやってくれるとは・・・。


〔昭和56年に復元された西塔を下から見上げる〕

                    ***

 せっかく来たのだからご本尊でも拝もうと思ったが、金堂の前には長蛇の列である。いったいどんなご利益があるのか知らないが、ここに並ばなければならないとすれば、新年早々かなりの試練だ。例年、デパートなどで福袋の争奪戦を経験している人には大した苦労ではないかもしれないが、一向に列が進む様子がないので、あきらめて隣の大講堂に入る。

 ここにいらっしゃるのは、巨大な弥勒三尊。そして、現代の彫刻家である中村晋也が制作した僧形の菩薩像がそのあいだに挟まるように立っている。中村晋也といえば、最近のドラマで話題となった五代友厚の像を大阪証券取引所の前に作った人物で、ぼくも最近までその近くに勤めていたが、勇ましげな五代の姿にカメラを向ける人をよく見かけたものだ。

 大講堂の中央に座した弥勒如来は、地震が来ても揺るがないような安定感のあるたたずまいだが、横から眺めてみると、中村作の二体は前のめりになりながらやっとの思いで立っているように見えた。拝む人に安堵感を与えるような堂々たる仏像に比べると、いかにも頼りなく、危なっかしそうだ。はからずも、そこには仏を前にした人間のちっぽけさがあらわれているように、ぼくには思えたのだった。


〔金堂の前に並ぶ人々〕

つづく
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