てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

地獄の七夕

2018年07月09日 | その他の随想


 今年は正直な話、七夕どころではなかっただろう。その日を含む数日間、日本はまさしく地獄の日々を味わったといっていい。天の川ではなく、地上の河川の動向から眼が離せない人も多かったはずだ。

 我が家の近辺には大きな川はなく、崖崩れを危惧するような山もなく、自分の心配はあまりしていなかった(むしろ、先日以来たびたび発生する地震のほうが恐い)。ただ、ぼくもよく知る京都の鴨川や、渡月橋の掛かる桂川が猛烈な濁流で満たされ、決壊まであと少しという状況がテレビのニュースで報じられたときは、さすがに胸が痛んだ。これでは風光明媚な景色であるとか、納涼床であるとか、呑気なことをいっている場合ではない。

 けれども蓋を開けてみれば、決壊したのは京都の川ではなかった。ぼくのよく知らない岡山や愛媛の町が冠水し、水浸しになっている映像が繰り返し流れ、京都のことはたちまち忘れ去られたようにテレビの画面から消えた。

 もちろん、被害が少なかったのは結構なことだが、ぼくにこのたびの災害を記憶させるのは、今後も京都に足を運ぶたび眼にするに違いない鴨川の景観であり、猛雨に降りこめられた一大観光地が途方に暮れたときの“どうしようもなさ”だろう。最近はインバウンドとか、世界遺産への登録とか、訪日客に主眼を置いたビジネスが散見されるが、いざ今回のような国家の非常時となったときに何ができるか、はなはだ心もとない。

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 実をいうとぼくの生まれ故郷も、数年前に大水害に見舞われた。実家は無事であったが、親戚の家は水に浸かり、転居を余儀なくされた家もあったようだ。

 つまるところ、いつ何時、何が起こるか分からないのが人生である。といってしまえば投げ遣りなようにも聞こえるが、毎年毎年マメに初詣をしたって、ご先祖への礼拝を欠かさなくたって、占い師が何の警告も発してくれなくたって、ひどいメに遭うことはある。なるようにしかならないのである。

 もちろん、備えをすることは重要だ。それと、協力者の存在も欠かせない。2002年のこと、ドイツのエルベ川があふれ、ツヴィンガー宮殿が水没したが、市民たちが所蔵品の避難に力を貸したらしく、2005年には日本で展覧会も開催されている。

 天災に立ち向かうのは困難だが、歴史を未来に残そうという人々の努力が、一定の歯止めをかけてきたのは確かだ。近年の日本は、「観光、観光」で浮かれすぎなのではないか、と思わないでもない。守るべきものを、じっくり守りつづけること。これも大切であろう。

(了)

(画像は記事と関係ありません)

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