てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

京を歩けば(17)

2009年04月01日 | 写真記


 円山公園の一画には、祇園祭の山の名前を老舗の看板のように掲げた倉庫がずらりと並んでいる。山鉾館という。

 公園に隣接して八坂神社があるが、祇園祭はこの神社の祭礼なので、ここに収蔵庫が設けられているのだろう。扉は厳重に施錠されていて、内部の様子はいまだに見たことがないが、全部で11の山鉾が解体された部材となって収まっているはずである。



 京の祇園祭は、町衆の祭だ。かずかずの駒形提灯で夜を彩り、交通をせき止めて巨大な山鉾が大通りを巡行するクライマックスは、普段はおとなしげな町民のパワーが休火山の噴火のように爆発するときである。しかしこの山鉾館を管理しているのは八坂神社ではなく、保存会でもなく、意外なことに京都市であった。所管は「文化市民局文化部文化財保護課」という長ったらしい名前のところである。

 実際、祭の最中にもあちこちで京都市長の姿がちらつく。巡行の順番を決める「くじ取り式」は京都市議会議場が舞台となっていて、市長が立ち会うことになっている。巡行の当日にも「くじ改め」といって、市長にくじを見せ、定められた順番を守っていることを証明する場所がある。形式上とはいえ、市長はいわば奉行であり、お目付け役として君臨している。いくら祭であっても、はめを外して無法をはたらいてはならぬといわんばかりだ。

 この町衆と市長との一種の上下関係がどこに由来しているのか、ぼくはよく知らない。しかし“文化”というものがその生命をいきいきと保つためには、行政ばかりが奮闘しても成り立たないし、市民だけが努力しても力が及ばない。いわば、双方が切り結ぶ磁場のようなものが必要だ。京都の夏を盛り上げる祇園祭は、両者が長年にわたって良好な関係を築きつづけてきた証しでもあるし、これからも末永く持続していけるかどうかが試される試金石でもあるのだろう。

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 そうこうしているうちに、いよいよ日が暮れた。行灯に光がともり、東山花灯路の開幕である。こちらははじまって7年目と、まだまだ歴史は浅いが、京都の早春のイベントとしてかなり定着してきた感がある。ちなみに12月の嵐山でも同趣向のことをやっていて、ぼくも行ったことがあるが、渡月橋を渡るのに難儀するほどの人の多さに驚いたことがあった。どうも日本人というものはライトアップが好きらしい。

 八坂神社本殿の前には舞殿と呼ばれる舞台がある。かつて節分の日に、数人の舞妓さんがこの上で色香を振りまきながら舞ったあと、盛大に豆撒きする現場を目撃したことがあった。軒下には奉納された提灯が幾重にも掛け並べられていて、圧巻だ。祇園に店を構える店舗や舞妓さんの名前にまじって、「家田荘子」と書かれた提灯がひときわ眼につく。『極道の妻たち』のような凄絶なノンフィクション作品と、本人の金髪姿からはなかなか想像できないが、彼女は在家出家した敬虔な僧侶でもある。



 枝垂桜もライトアップされていた。髪を振り乱した老婆のような凄みがあった。漆黒の闇に向かって増殖をつづけていく細胞のうごめきを見るようでもあった。公園内を流れる小川のせせらぎには、かぐや姫の揺りかごよろしく斜めに輪切りされた竹が幾本も立てられ、切り口から灯りがもれていた。路上に置かれている行灯は電気だが、ここはろうそくの炎だった。日暮れと同時に、一本一本点火していったのだろう。









 思えば祇園祭の宵山なども、一種のライトアップということができるかもしれない。京都には、暗い夜を風情ある灯りで彩る伝統が根付いているのである。この夜は円山公園を散策するだけで引き返したが、さらに広範囲にわたる花灯路の全容をたどるべく、日を改めて出直すことにした。

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