てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

メリー・クリスマス・アフター

2008年12月27日 | 写真記


 クリスマスは、子供のころから好きである。貧乏な借家住まいだった我が家も、その日だけは明るく和やかな空気に包まれた。一抹の厳粛さが伴う正月に比べて、福井の厳しい冬のさなかでほっとできる瞬間でもあった。

 ぼくには弟がいるが、ふたり揃って背丈より高いクリスマスツリーを組み立て、雪がわりの白い綿を散らして、点滅する電飾を巻きつけた。ケーキを頬張ったり、写真を撮ったり、ひとしきり騒いだあとに、二段ベッドの上と下とにわかれて横になるのだが、小声で示し合わせて「今年こそは寝ないでサンタクロースの正体を見極めてやろう」ということになるのが常だった。しかしいつの間にか眠りこけてしまって、朝になりまぶたをこすりながら起きてみると、枕もとにはすでにラッピングされた包みが置かれてあり、ぼくたちは悔しいような嬉しいような何とも複雑な表情をしながら互いのプレゼントを見せ合いっこしたりした。

 もう長いこと、ぼくの独り住まいの家にはサンタが来てくれたこともないし、ぼく自身がサンタの役割を務めたこともない。しかしクリスマスが近づくと何となく気持ちが浮き立ち、自分にささやかなご褒美をあげたくなることもたしかだ。各地のイルミネーションは年を追うごとに凝ったものになり、派手さを増し、期間も長くなり、まだ紅葉も終わっていないというのにツリーが輝いていたりする。ちょっと行き過ぎではないかという気がしないでもないが、こんなときぐらい街をきれいに飾り立てないと、醜いことに満ちあふれた世の中には夢も希望もないようなものだ。ちょっとひねくれた見方をすれば、クリスマスの装いは荒廃した社会の毒をかき消すために豪華にならざるを得ないのである。


〔梅田スカイビルのクリスマスツリー。トップの画像は会場内にあった19世紀製のメリーゴーラウンド〕


〔京都市役所付近のクリスマスツリー〕

                    ***

 先日、久しぶりに大阪吹田の万博記念公園を訪れた。ある展覧会を観て、閉館間際に外へ出ると、やはりイルミネーションがはじまっていた。他の場所とはちがってここでは入園料が必要だが、家族連れでけっこうな賑わいをみせていた。

 会場の一角には国際色豊かな屋台が出ていて、タイ料理やインドのカレー、トルコの何とかいう食べ物などを外国人が手ずから作って売っていたが、もっともお客を集めていたのは富士宮の焼きそばである。これにはちょっと笑ってしまった。

 太陽の塔には「デジタル掛け軸」なるものが投影されていた。プロジェクターから映し出された文様が、ゆっくりとランダムに姿を変えていく。実はこれと同じものを、去年の冬に嵐山の法輪寺というところで見たことがあったが、あのときは移ろう光のさざめきのなかに身を置いているような錯覚があった。今回は広場のど真ん中に置かれている塔を遠巻きにして眺める感じだったが、神秘的でもあり、現代的でもあり、見慣れた太陽の塔の顔がさまざまな色に塗られていくのは滑稽でもあった。


〔太陽の塔をバックにツリーが輝く〕


〔映し出された「デジタル掛け軸」〕

                    ***

 その翌日に、今度は大阪の中之島に出かけてきた。ここでは何年か前から「光のルネサンス」というイベントがおこなわれている。これまで行こう行こうと思って果たせないでいたが、このたびようやく足を運ぶことができたのである。

 その日はあいにくの雨模様で、やんだかと思うとスコールのように降り出す不安定な天候だったが、多くの人でごった返していた。なかでも目玉となる「ウォールタペストリー」の観客席はすでに満員で、時間ぎりぎりに駆けつけたぼくは立ち見で見物するしかなかった。これは中之島図書館のファサードをスクリーンにして映像を映し出すというショーである。

 美麗なソプラノが歌う「アメイジング・グレイス」が大音量で流れ出すと、くすんだ重厚な図書館の建物が次々と色を変えはじめた。ときには宝塚の舞台かと思うほど豪奢に飾りつけられ、ときには舞い落ちる雪の結晶があたりを包み込んだ。最後には屋根のてっぺんあたりから無数のシャボン玉が落ちてきて、本物の雪さながらにきらめいた。観客たちはひとしきりざわめき、「きれいねえ」という声も聞かれたが、こんな演出が喜ばれるということは、それだけホワイトクリスマスがわれわれから縁遠くなっている証拠でもあるだろう。思い返してみれば、ぼくも福井を離れてからは一度も経験していないような気がする(ちなみに今年の福井は、クリスマスの翌日に雪が降ったそうだ)。


〔中之島図書館の「ウォールタペストリー」〕


〔今年が最後のフェスティバルホールの電飾〕


〔ビルの壁面にレーザー光線で描かれたメッセージ〕


〔鳥取砂丘の砂で作られた造形〕


〔並木が色とりどりに輝く。ダイビルをバックに〕


〔中之島三井ビルには聖夜一晩かぎりのツリーが登場。堂島川に浮かぶ光のボートにはサンタが乗っていた〕

                    ***

 しかし今の世の中には、クリスマスどころでない人がたくさんいることもたしかだ。先ごろ、久しぶりにチャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』を新訳で読み返したが(池央耿訳・光文社古典新訳文庫、下図)、その舞台となっているヴィクトリア朝時代のロンドンでも、富裕と貧困という大きな格差が生じていることは現代と同じである。だが、貧しき人々のうえにもクリスマスの恵みがもたらされるということが、日本とは大きくちがうところだ。クリスマスは本来、慈善と奉仕のための祝日でもあるのである。だからこそ吝嗇な主人公スクルージは、多くの人から忌み嫌われると同時に、陰ではあたたかい祝福の言葉を送られてもいるのだ。



 ところが我が国では、クリスマスは自分たちだけのものである。人にプレゼントをあげるのも、親しい者たちとの関係を良好に保つための一種の方便だといってもいい。毎日、加速度的に増えつづけていく失業者たちが、その恩恵にあずかることは絶望的に困難なことだろう。かくいうぼくも、失業こそしていないが明らかに貧困層に属するので、今年のクリスマスは電飾を眺めるだけで終わった感じがする。

 25日の夜9時ごろ、仕事を終えて梅田の地下街を通りかかると、何やら作業服のようなものを着込んだ大勢の人たちが待機しているのを見かけた。いうまでもないことだが、クリスマスの飾りつけは26日の朝までに撤収してしまわなければならない。旬の過ぎた聖夜はたちまちのうちに拭い去られ、迎春の装いへと早変わりする。浮かれ気分で家路につく人がいる一方で、徹夜で後片付けに追われる人が何百人となくいるはずで、彼らはその一団かと思われた。

 おそらく、そのなかには今年の失業組も何人か混じっているにちがいない。慣れない仕事を前にして緊張しているだろうか、それとも仕事にありつけてほっとしているのだろうか。人それぞれのクリスマスが終わり、今年も暮れようとしている。そしてまた、人それぞれのお正月がやって来るのである。

(了)

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2 コメント

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Unknown (巳知世)
2008-12-29 19:38:35
 テツさん、はじめまして。
 デジタル掛軸の投影された太陽の塔、いいですね。太陽の塔は生命力を感じさせます。いつまで見ていても飽きません。
 2年ほど前に、太陽の塔の中に入るツアーに参加しました。中も面白いですよ。
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はじめまして (テツ)
2008-12-30 08:05:37
コメントありがとうございます。

太陽の塔の内部を見学する企画にはぼくも応募したことがあるのですが、残念ながら選にもれました。うらやましいです。

でも保存されているかぎり、いつかは観る機会があるのではないかと思っています。
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