てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

十数年で人間は変わるのか

2012年06月17日 | その他の随想


 広く報道されているように、17年にわたって逃亡をつづけていた特別手配犯が相次いで逮捕された。その人相は、ぼくたちが交番や駅などでさんざん見せつけられ、覚え込まされていたものと大きく異なっていた。

 すれちがったぐらいで気がつかないのは当然のことながら、一緒に働いていた人にもバレていなかったのだから、よほどの変わりようである。彼らは、それでもいつかは正体が明らかになってしまうことを心配しながら、細々と生きていたのだろうか? あるいは、このまま最後まで逃げおおせることができるかもしれない、と心の隅で考えていたのだろうか?

 けれども17年という歳月は、これほど人の外見を変えてしまうに足るほどの長さなのだ、ということもまたたしかなことである。ぼくは故郷を離れてからもう20年以上経っているので、かつての知り合いをどこかで見かけるようなことがあっても気がつかないにちがいない。

 逆にいえば、このぼく自身も、それほど変貌しているかもしれないということになる。毎日鏡を見ていると(別にナルシストでなくても鏡ぐらいは見る)なかなか気がつかないが、十数年前の写真と比べてみると、こんなに変わってしまったのか、と驚かされるかもしれない。

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 逃亡犯逮捕とほぼ同時に、過去の殺人事件で有罪とされたネパール人の再審開始が決定し、釈放されて故国へ帰ったというニュースが報じられた。実に18年ぶり、逮捕からは15年ぶりに自由の身となったことになる。

 事件そのものについては、特にコメントすることはない。ぼくには彼が無実なのかどうか、判断する材料がないからだ。ただ写真で見るかぎり、十数年に及ぶ勾留期間のうちに元被告の外見に生じたあまりにも大きな変貌ぶりに、歳月の重みというものを痛感させられた。

 これこそは、動かしようのない事実である。たとえ無罪ということになっても、過ぎ去った時間が帰ってこないのと同時に、肉体に刻まれた歳月の痕跡も元に戻りはしない。現代の科学をもってしても、「なかったこと」にはできないのだ。

 幸いなことに、犯罪とは無縁な生活を送っているぼくたち ― いつ何時、不条理な事件に巻き込まれるかもしれない可能性はゼロではないが ― にとっても、歳月は平等に訪れている。一日一日、皆が確実に年を取っている。

 ただ、それは人間にとって避けられないことであるし、また必要なことでもある。アンチエイジングなどに熱中する人もたくさんいるようだが、今という時間のかけがえのなさを知っている人は、そんなものに手を出しはしないだろう。いつか死ぬのは当たり前だし、それに向かって肉体が衰えていくのも当たり前だ。時間を逆戻りさせることができるのは、フィクションの世界だけの話である。

 今、二度とは戻らないこの時間を、いかに生きるか。自分に厳しく問いかけることができる人間に、ぼくはなりたい。

(了)

(画像は記事と関係ありません)

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