てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

滋賀県で、芸術を(6)

2013年10月03日 | 美術随想

マーク・ロスコ『ナンバー28』(1962年)

 「ヒーリング」が現代のストレス社会を生き抜くキーワードのようにいわれはじめてから、もうずいぶん経つ。人々を癒やすための音楽や、その手のサービスを施す場所が爆発的に増え、街の様相はかなり変わった。

 市街地を歩いていると、リフレクソロジーとか手揉み療法(?)のチェーン店がやたらと眼につく。ホテルに泊まると、オプションで本格的なマッサージをしてくれるところも多い。はるか昔の「按摩」とは、まったく別物なのだろう。

 そんなブームのなかで、にわかに脚光を浴びはじめたように思われるのが、マーク・ロスコの絵画ではなかろうか。これも抽象画だし、具体的な何かが描かれているわけではない。はっきりいえば、わけがわからない。しかし、前回取り上げたフランク・ステラの、几帳面で人間味の乏しい作品と比べてみると、ロスコの絵はずっと大らかで、すべてを受け入れてくれるような気がする。

 千葉の川村記念美術館には、ロスコばかりが周囲に飾られた部屋があるという。逆にいえば、ロスコの壁画にぐるりと取り囲まれるという体験をすることになる。ロスコの絵は画集で眺めても大したことはないような気がするが、その絵の前に立つと、たしかにある変化が心の内に起こる。理屈ではなく、全身で感じる絵画なのだろう。いってみれば、キリスト教を信仰しない人間でも、教会に入ってステンドグラス越しの光を浴びると敬虔な気持ちになるようなものだ。

 ただ、ロスコは人々へ癒やしを与えるためにこういう絵を描いていたわけではなかろう。ロスコは66歳のとき、みずからその命を断っている。彼は、自分の作品によって救われることはなかったのである。

                    ***


マグダレーナ・アバカノヴィッチ『群衆IV』(1989-1990年)

 それとは一転して、観る者を不安のどん底に陥れるのが、アバカノヴィッチの立体作品『群衆IV』だ。ほとんど等身大の、首のない人体像が30体、部屋の隅に押し込められたように並んでいる。

 彼らは、自分たちが解放されるときをじっと待っているようにも見える。しかし、すでに首がないのだから、人間的な意志は放棄してしまっているような気もする。作品の前に立つと、彼らが集団をなしたまま、こっちに向かってどんどん進んでくるような威圧感にとらわれる。長いこと眺めていたい作品ではないが、一度観たら忘れることができない。

 マグダレーナ・アバカノヴィッチは、その名前からもわかるとおり、女性である。しかもこの造形は、麻布を固めてできている。だが、こちらの精神のなかに土足で入り込んでくるような不気味さは、いかなる彫刻よりも重く、冷たい。

 彼女はポーランドの出身だという。ポーランドといえば、アウシュビッツをはじめとして、さまざまな血塗られた歴史をもつ国である。首のない体から、声のない悲鳴が絞り出されるのを、われわれは聞き届けることができるだろうか。

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