てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

3世代の美術展 ― ポロック、セザンヌ、そしてダ・ヴィンチ ― (29)

2012年06月16日 | 美術随想
セザンヌ再入門 その9


『サント=ヴィクトワール山』(1902年頃、ヘンリー・アンド・ローズ・パールマン財団蔵、プリンストン大学付属美術館に長期寄託)

 晩年になって描かれた『サント=ヴィクトワール山』では、山とのあいだにまた大きな隔たりができてしまっている。もはや、山は手も届かぬところへ退いてしまった印象がある。セザンヌにとって、描けば描くほど遠くなってしまうもの。それが、サント=ヴィクトワールだったのだろうか。

 とりわけ、茶色と緑色が混じった中景の大地と、遠景とを区切るラインが、ほとんど直線になっているのが目につく。そこには大きな断絶がはっきりと刻まれている。その上に聳える山は、雲がかかっているわけでもないのに、少し霞んでいるような気さえする。まるで巨大な氷山のように冷たくも感じられる。

 画家自身がイーゼルに向かっている地点から、描きつつある対象へのはるかな距離。その距離をめぐって、セザンヌは試行錯誤を繰り返してきたにちがいない。このことは、ぼくにスイスの彫刻家ジャコメッティの仕事を思い出させる。彼も眼に見える人体を忠実に表現しようと苦心した結果、その作品は細く小さく、マッチ棒のようになり、実際の人物像からは遠くかけ離れていくのだった・・・。

 前項で取り上げた初期の『サント=ヴィクトワール山』には、山の周囲を縁取るような木の枝が描き込まれていたりしたが、今回はそんな飾りもない。ただ、山は虚空と向かい合って、その尖った稜線を空しく突き刺しているにすぎない。「聖なる勝利の山」という名前とは裏腹の、青ざめた石灰のかたまりのような姿は、画壇から離れて故郷の風景を黙々と描きつづけるセザンヌと重なっていく。

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『庭師ヴァリエ』(1906年頃、テート蔵)

 1902年、セザンヌはレ・ローヴという丘陵地に新しいアトリエを建てた。彼にとっての最後のアトリエである。自宅のあるアパルトマンから毎日のようにかよい、一日中そこで仕事に没頭したという。

 今回の展覧会場には、そのアトリエの一部が再現されていた。ポロックのアトリエには、壁にしつらえた棚の上にいくつかの画材が置かれていた程度であったが、やはりセザンヌのアトリエには、彼の絵に登場したいくつものモチーフが残されていた。

 そんなレ・ローヴの庭の手入れをしていたのが、ヴァリエという名の庭師である。展覧会には、彼を描いた肖像画が2枚も出品されていた。厭世家のように振る舞った晩年のセザンヌが心を許した数少ない相手であり、糖尿病で苦しむ画家を看病することもあったそうだ。

 上に掲げた『庭師ヴァリエ』は、そんな体調のわるさを連想させるような、やや乱れた筆致で描かれている。けれども、そこには一抹の軽快さが漂っているように感じられなくもない。

 ヴァリエの表情ははっきり描かれているわけではないが、そこには穏やかな笑いが浮かんでいるようにも思える。帽子のひさしに隠れた眼は、老いたる画家のほうをじっと見守っている。セザンヌとモデルとのあいだに心が通じ合っているようにみえるのは、この絵ぐらいしかないであろう。

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 この年、セザンヌは戸外での制作中に雨にうたれ、意識を失っているところを発見されて自宅に運ばれる。けれども翌日、彼はもう一度レ・ローヴのアトリエに赴いて、ヴァリエの肖像画に手を入れたという(それがこの絵かどうかはわからない)。その一週間後、セザンヌはとうとう息を引き取った。

 おそらく、彼が目指した絵画の境地に至るには、まだまだ時間が必要だったのではあるまいか。セザンヌの絵を眺めるということは、ひとつひとつの完成した作品を堪能するというよりも、セザンヌという大きな人生を賭して追求されたものをいかにたどり直すか、ということだろう。

 これだけの絵を観ても、まだセザンヌがじゅうぶんにわかったとはいえない。けれどもこのたびの展覧会をきっかけに、セザンヌについてずっと考えていきたいと思った。それに値するだけの画家であるということがわかっただけでも、ぼくには大きな収穫だった。

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