藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

川沿いの益田道(今井田)

2011-10-26 16:57:25 | 社会・経済

022_3                                     亀山発電所跡              

幾度かの洪水に見舞われたが、今は太田川漁協の事務所 10/23 益田路(加計川筋路)分岐点を、左に直進すると川沿いの路となる。、

023

雨が降るとこの道は、今でも通行止となるこたがある。 かつては、雨が降ると直進せづに、飯室路を行来したであろうと、想像される道である。ご覧のように昭和二十年九月に氾濫し約三メイトル水没したようだ。これは、台風(ジェーン台風だったかな?) 広島に来襲、かえって放射能を洗い流してくれたらしい。台風も時には役立つこともあるが、この地方(可部の街)は、水害で大変だったらしい。そうそうここに来るまでに是非とも皆さんに見ていただきたいのが次の場所です。今は、自動車の販売店になっていますが、かつて此処は、中国電力可部営業所でした。原爆投下時、被災者を可部線を使い、次々に運び込まれ、救護所となったところです。私が可部に移り住んだ時には、まだ当時の建物がのっこており、保存活動をしましたが、残念ながら実を結びませんでした。当時ここで、救護活動をされたみなさんも、ヒバクシャの認定を受けています。ですから可部には、多くのヒバクシャ(特に女性)がいまも住んでいます。

025

この事がきっかけで、「一人でも」をはじめたのです。一人デモでわありませんが、直接、行政や市会議員に企画書を造り読んでもらう運動を始めたのです。建物を残しても、後何に使うかまでの創造力がない限り、被爆建物は残せないと、気がついたからです。「一人でも」活動は、誰にも束縛されず、仲間割れも無く、ただ創造力と、企画力が勝負なので、私にあっていたのでしょう。今日まで続いています。広島におこしの際は、気象台博物館に足を運んで見てください。私の最高傑作と自負しています。   

                                       

                                       

                                         

                                       

                                        

                                          

  

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 私の目と心(特別編) | トップ | 今井田の吊り橋 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

社会・経済」カテゴリの最新記事