広島から真北へ23km。 私の自宅から東南に直線にして500m。 其処に「報恩寺」と言う寺がある。 この寺に1945年 8月6日 一個の落下傘が落ちてきた。
原爆炸裂時の記録をとるために、アメリカ軍が四個の観測機器を投下した物の一つが、この寺の境内に落ちてきたのである。
この寺は不思議な歴史を持っている。 元々は、私が以前住んでいた「行森」と言う所に「真言宗」の寺院としてあった物が、江戸時代中期に「浄土真宗」寺院として現在地に越して来た。
江戸時代末期にこの寺院の境内で、中国地方始めての「腑分け」、解剖が行われた地でもある。
この石碑はその時「腑分け」に参加した医師の手で立てられた墓碑である。
昨年、私の奥様は近所の友人の奥様と二人してこの墓碑の全文の解読に挑戦されたていた。
幾日か二人で没頭していたが、全文「漢文」で書かれた物で、かなり苦労していたようである。 解読内容を説明いただいたが初老の男の頭には踏みとどまらなかった。 ただ「腑分け」された人は、医者の子供で「女の子」。 母親が「腑分け」に同意したので、「腑分け」が出来、大変勉強になり感謝している事が記されていたようである。
不思議とこの寺院は歴史の節目節目で歴史の証人になるべく定めになっていたように感じる。
原爆投下以後は、「虹山小学校」が救護所になったため、終戦まで小学校に使用されていた。 戦後は早くより「幼稚園」を経営され、この近辺の幼児教育の先駆的役割を果たしてきた。
この寺の住職一家と、救護活動に参加した近所の人達は二次的放射能暴露者として、「被爆者健康手帳」が交付されている。
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