藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

あさり丼

2015-01-21 18:06:59 | 日記・エッセイ・コラム

久しぶりに「あさり丼」を昼食に作り食した。 五十年ぶりである。 お江戸では「深川丼」と称されているらしいが、広島県人は「あさり丼」をあまり食さない。 偶然に何かの本で、「お江戸の深川」では「あさり」で丼を作るらしい事を知って、我流で作って食していた。 まだ小学校高学年の時の事である。 その頃から、調理は得意としていた。 昭和三十年代、広島の「太田川放水路」は未完成であった。 戦前「軍都広島」を水害から守るために「放水路」を計画したが、敗戦により計画は工事半ばで放置されていた。 その計画で対象地域の小学校は取り壊されて、生徒たちは三つの小学校に分散されて、通学していた。 この放水路は、現在は十分以上に機能しているが、私の少年時代には干潮時には川底が露出していて、「あさり」や「蜆」、「ハマグリ」、「蝦蛄」、時には「カブトガニ」・・・等、子供でも潮干狩りが出来たので、貧乏人の私は学校帰りには寄り道して、夕飯用に「あさり」を手に入れて帰宅した。 生姜と一緒に火を通し、醤油と砂糖で味付けした物を「麦飯」の上に載せただけの物だったが、大変おいしく頂いた事を思い出して、今日の昼食に作ってみた。 あまり美味しくは無い。 そのはずである。「あさり」は、「冷凍剥き身」。 嘗ての取立ての、生きた「あさり」ではないので当然である。 そうかといって、不味くも無い。 何処か中途半端なのだ。

  

考えてみると、私の食感が変わったのかもしれない。 戦後の空腹に悩まされた時期とは違い、飽食の時代である。 小学校の給食も、不味いと思った事など無い頃の事である。 脱脂粉乳のミルクなど残す人間は、同じ学年二百人余の中で数人しかいなかった。 

コメント
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